第二話 禁句について

 集落まで、あと半日もかからない。

 あと少し日が傾けば、その頃には集落の陰が遠目に見えるだろう。


 もうすぐ終わる長旅の疲れと、ここに来るまで心の底でゆったりと沈んでいた緊張からの僅かな解放。

 それが俺の心に、ほんの少しの油断を生んだ。


「少し先に、なにか気配を感じます。ひとっ走り見てきますので、フロウは後から来てください!」


 この旅で何度も聞いたその言葉に、俺が慣れてしまっていたのも一因だった。

 アオイの勘への信頼に、違和感からの予兆を読み取る感覚が鈍っていた。


「……ここまで来て、魔物?」


 それに気づいたとき、俺は慌てて手綱を鳴らし、全速力で小竜を走らせた。


「俺は馬鹿だ……! なんで気づかない、こんなところに魔物がいるわけないだろうが!」


 ここはオークの集落にほど近い街道だ。

 そしてオークは優れた狩猟民族。


 こんな場所で、彼らを恐れることもなく、彼らに狩られることもなく堂々とのさばっていられる魔物なんて、いるわけがない。


 悪い予感が頭を駆け巡る。


 オークにさえ怯まない強大な魔物と運悪く出くわした可能性。

 ともなれば、いくらアオイが強かろうが一人では非常に危険だ。


 群れの移動に偶然鉢合わせたということもある。

 だとすれば、個の戦力に関わらず単身のアオイには分が悪い。


 しかし、そんなことよりももっと最悪な状況、

 それだけは、それだけは避けなくてはいけない。


「――おお、お、おおおぉぉおおおお!!!」


 遠くから聞こえるアオイの声。

 戦っている。

 今まさに、アオイは何かと戦っている。


 その姿を見つけるべく、揺れる御者台の上から目を凝らす。

 アオイがいる。


 相対する陰は小さい、大型の魔物ではない。

 数は五つ、群れの移動というにはあまりにも少ない。


 まだマシな悪い可能性の種が、一つずつ潰れていく。

 そしてとうとう、予感は真相に変わる。


「――アオイ、止まれ! 止まれ!!」


 まだ彼我の距離は遠く、俺の言葉は届かない。

 そして俺の目に、アオイの剣を弾き返す槍の穂先がはっきりと映った。


 考えうる限り最悪の展開。

 アオイは、オークと剣を交えていた。


「桜天流――紅葉流し!!」

「ちぃ!! なかなかやる、どこの部隊だ、貴様!!」

「語るに、及ばず!!」


 かつて傭兵たちを次々と屠ったアオイの剣を、オークの戦士たちは凌いでみせる。

 アオイもまた、囲まれながらも右へ左へと立ち回り、多勢に無勢の状況をどうにかこなしている。


 一本の槍がアオイの腹を目掛けて突き出される。

 それを右に避けるでも左に避けるでもなく、アオイは剣の腹で受け流し、そのまま相手の懐へ潜り込んだ。

 アオイの剣の切先は潜り込んだ相手の首元へはっきりと狙いを定めている。

 しかし、横合いから繰り出された二本目の槍が、アオイを後ろへ下がらせた。


 両者の瞳には、目の前の脅威を排除するための強靭な意志が宿っており、その意志が五体に力を与えていた。


「そこまでだ、アオイ! 下がれ、下がってくれ!!」


 俺の叫びはとうとうアオイに届き、その視線がこちらへ向く。

 同時にオークの戦士たちもまた、乱入者である俺を睨みつける。


 動きが止まった。

 割り込むならば今しかない。


 事情を説明する暇もなく、アオイが下がるのを待つ余裕もなく、小竜を走らせた勢いをそのままにして戦いの輪に割って入る。


 敵の加勢と思われたのだろう、オークの槍が俺へと向けられた。

 刺されてはたまらないと、必死に声を張り上げる。


「俺だ! フロウ・ティンベルだ! ラガニ、あんたらも鉾を収めてくれ!!」

「……フロウ!? だとすれば、この女は……」


 俺の呼びかけに、オークの一人が気づいた。

 ラガニ・シギー。誇り高きオークの戦士であり、この先の集落をまとめあげるガラテア族の族長。

 できれば、久々の再会はもっと平和なものにしたかったが、今はそんなことを言っている余裕はない。


「フロウ、ここは危険です、お下がりください!」

「違う、そうじゃないんだアオイ、彼らは――」


「膂力強く、堅き肌と鋭い爪と牙、なにより額の鋭い二本角――」


 マズい。

 その先の言葉を、けして言わせてはいけない。



「これこそは、シモツキにも伝わるオニの姿――この者らは、魔物です!!」



 俺に、アオイの口を封じるすべはなかった。

 オークたちの暗い歴史を知らずに彼らと接してほしいという俺の甘い考えが、アオイにその言葉を言わせてしまったのだろうか。


 アオイは悪くない。

 こいつはただ、知らなかっただけなんだ。


「――貴様、今、なんと言った」


 そしてまた、ラガニたちもアオイを知らない。

 これは、相互理解の欠如が招いたことだ。


 俺はその重さを、よく知っていたはずなのに。


「我らオークを、魔物と呼んだか」


 この溝は、そう易々とは埋まらない。

 なにせこれは、大陸が数百年かけて掘ってきた溝なのだから。


「我らは人間だ!! 人を喰らい、尊厳を潰す怪物はお前たちの方だ、ヒューマン!!」



 オーク――泥地や荒れた山岳地帯にコミューンを築いてきた少数種族。

 魔物が多く生息する地域を生き抜く彼らは膂力が強く、魔術適正に優れ、頑強な爪や牙を備える誇り高き狩猟民族。


 その風貌と、捕らえた魔物を食らう食文化から、人ではなく魔物であるとされて虐げられてきた悲しき人々。

 邪竜の眷属と忌み嫌われ、邪竜が滅び差別を根絶するための大陸法が制定された今もなお、各地でその被害は続いている。


「この女を捕らえろ! 縄で縛り牢へ放り込め!! 我らの誇りを汚した罪は、その命でしか贖えぬ!!」

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