第二部

第一話 エルシャ・エルティノについて

 海洋商業都市ビーグッドは港を中心として半円を描く年輪ねんりんのように道や建物が整備されており、港から東へ伸びるミウズ通りは街でも三番目に立派なものだった。


 朝から喧騒に湧くミウズ通りを一人の女が歩いている。

 エルシャ・エルティノ。ライカンの氏族であるリタ族の女。

 エルシャは若く見目みめうるわしいうての用心棒で、およそ二年前からビーグッドを拠点にしていた。


「おーい、エルシャ! 朝から精が出るな! 飯はもう済ませたのか?」

「もう食べたから大丈夫、ありがとう」


 軒先で客引きにいそしむ八百屋の店主が声をかけるも、エルシャは歩みを止めない。


「つれねえなあ……そんなにおめかしして、よっぽど大事な人に会うのかい?」

「別にそんなんじゃない、ただ、今日の雇い主は上客だから」


 そう言って、そのまま店の前を通り過ぎる。


 ――おめかし。

 これまた見当違いなことを言われてしまった。


 エルシャが向かっているのは、今日の雇い主であるフロウ・ティンベルの店だ。


 二人は互いがビーグッドに居を構えるよりも前から親交があった。

 それは彼がまだ邪竜を討伐するための旅をしていたころのこと。

 そしてフロウがこの街にやってきたことをエルシャが知ったのはおよそ一ヶ月前。

 同じ街に彼がいることを知ったのだって、単なる偶然だった。


 けして浅くない付き合いだというのに、あの男は挨拶にすら来なかった。

 食事の機会を設けても、当時の話はしないでくれとまで言ってきたのだ。


 彼の態度に、エルシャは互いの親交をかろんじられた気がして、ひどく腹が立ったのを覚えている。


 ――親交、そう、親交だ。

 そこに一切のはない。


 偶然にも今朝のエルシャは、半年待って先日ようやく手に入れたばかりの貴重な香油こうゆを髪につけている。

 だがこれは、なぜかいつもより早く起きてしまい持て余した時間を潰すための気まぐれに過ぎない。

 断じて、おめかしなどではない。


 身につけている衣服は先日ハーフフットの行商に頼んで届けてもらったものだが、それを今日おろしたのも、たんなる偶然だ。

 洋服タンスに入れた匂い袋のおかげでティーンの花の香りがついているのは、自身の気分を上げるため。

 香油と匂い袋の相性が本当に合っているかをしばらく悩んだことに、フロウは一切関係ない。


 そう、昨夜ピカピカに磨き上げた耳飾りも、洗いたての一番気に入っているターバンも、何もかもフロウは関係ないのである。


「……いや、それは逆にわざとらしいか」


 そこにきてエルシャは自分の考えを少し訂正する。


 八百屋の店主に行ったように、フロウは上客だ。

 彼の旅での活躍をエルシャは知っているし、今は店の経営にも苦労しているようだが、シャイタック商会の大番頭に目をかけられていることからもわかるように将来性は見込める。


 そんな相手と会うのに、身だしなみを気にするのは当然と言えよう。


「そう……うん、こっちの方がいい」


 いつもより少しだけ速い足取りで歩みを進ませながら、納得する。

 それに今日こそはあの交渉をフロウに取り付けなくてはならないのだから。


 フロウは優秀な男だ。

 だが一方で腕っぷしは立たない。

 だというのに、あのどこか呑気のんき天邪鬼あまのじゃくな男は専属の護衛をつけようとせず、その場限りの契約で自分のような野良の用心棒を雇うらしい。


 もちろんエルシャが雇い主に傷を負わせるようなヘマはしない。

 だけど、もし自分がいない時にどこの誰とも知らない用心棒を雇って、それが使いものにならなかったら、一体どうするというのか。


「――本当に、腹が立つ」


 だからエルシャは今日、この仕事が終わったらフロウの専属の護衛になるべく直談判を行うのだ。

 これまでも話してはそれとなくかわされてきたが、今日という今日は話をつける。


 エルシャとしては自分でなくとも優秀な人物が彼の護衛につくならそれでよい。

 だがフロウは見た目の割に偏屈へんくつで、あれとうまくやっていける人物はそういない。

 だから仕方なく、未来の上客の命を守るため、彼と馴染みのあるエルシャが名乗り出るのだ。


 考えているうちに、エルシャはフロウの店の前にたどり着いた。

 戸の前に立ち、歩く間に少しだけ乱れた髪や服を丁寧に直してから、気持ちを落ち着けて戸を叩く。


 ここのところ、仕事の都合でフロウとは会っていなかった。

 ……彼は、変わっていないだろうか。


「はーい、すぐに参ります!」

「…………は?」


 戸の奥から聞こえてきたのは、やけに明るい、聞き覚えのない女の声。


 ……待って、まだ焦るべきじゃない。

 今回の仕事はしばらくビーグッドを空けるから、フロウが臨時の店番を用意したということもある。

 そうだ、今の声だって、ちょうど店先に立つ町娘のような元気のいいものだった。


「お待たせいたしました! あなたがくだんの用心棒ですね、さあ、お上がりください!」


 勢いよく戸を開けて出てきたのは、見たこともない意匠の服を来た若い娘。

 朝からこちらの気が滅入めいりそうなほど溌剌はつらつとした笑顔で、天真爛漫に語りかけてくる。


「…………」

「……? どうされましたか?」


 娘の顔を見て、視線を下げると、腰の剣が目に入る。

 ――剣。少なくとも、町娘の持ち物ではない。


 嫌な予感がジリジリと背から首、頭へ上っていくのを感じながら、必死に冷静を装い、ようやくエルシャは口を開く。


「…………あんた、誰?」

「身共はツキサキ・クナイノショシュー・アオイ! 先日より、フロウのをしております!」


「――――はあ?」


 こうして、エルシャ・エルティノの最悪の旅は始まったのであった。

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