第12話 フレグランス
アパートの部屋の鍵を閉めた小鳥と拓真はエレベーターの箱の中でお互いの顔を見遣(や)った。何かを伝えたいような雰囲気の中で2人の手のひらが軽く触れた。
(・・・・・!)
拓真が小鳥の指先をそっと握り、2人の体温がジワリと上昇した。
ポーーーン
エレベーターの扉が開き、自然と離れた互いの指先が恋しかった。夜空をふり仰ぐと雲が上弦(じょうげん)の月を覆っていた。
「拓真、足元を気を付けて」
「あ、うん」
「拓真!そこ、そこに段差があるから!」
「・・・えっ!?」
そう言っている矢先に拓真はコンクリートの車止めに足を取られ、倒れそうになるくらい前に傾いた。
「う、うわっ!」
「だから言ったのに〜」
「まさかそんな場所に車止めがあるなんて思わなかったんだもの!」
「ちゃんと見てたら分かるよ」
「分からなかったんだもん」
拓真は眉間にシワを寄せた。
「怪我しなくて良かったね」
「うん、良かった」
そして2人はペールブルーの軽自動車の傍に立った。
「可愛い車だね」
「お気に入りの色なの」
ピッ!
「さあどうぞ、お乗り下さい」
「お邪魔します」
拓真が助手席の扉を開けた途端、シトラスレモンの香りが鼻腔をくすぐった。
「良い匂いだね」
「あ、分かった?」
「うん、ほんのちょっとだけど小鳥ちゃんの部屋と同じ匂いがする」
小鳥が好むフレグランスは、天然素材の爽やかなレモンをはじめとする柑橘系の果物に紅茶葉を混ぜた、シトラスグリーンのノート。耳元にほんの一滴付ければ時間の経過や体温で香りが変化する。それは柑橘系からローズ、ジャスミン、ミュゲの花弁(はなびら)、次第に拓真の整髪料と良く似たシダーウッドの香りになる。
「ちょっとだけ僕のヘアワックスと似ているね」
「そう!そうでしょう!?だからお気に入りなの!」
狭い車内で小鳥が髪を掻(か)き上げる度にその香りが拓真を包んだ。
「じゃあ出発しますか!」
「はい!お願いします!」
小鳥の軽自動車にナビゲーション機能は付いていない。拓真の案内が必要になる。けれど小鳥にとっては通い慣れた道だった。
「その道を右に曲がって、信号機をふたつ過ぎるとコンビニエンスストアがあるよ」
「うん、あるね」
「コンビニエンスストアの前で左折して」
軽自動車の方向指示器を左に出した。
(・・・・・あ、そうだ)
真新しいコンビニエンスストアは煌々(こうこう)と明るく、リニューアルオープンのポスターがずらりと並んでいる。大きな窓ガラスには”アルバイト募集中!”の貼り紙、店内ではスタッフが空の陳列棚に商品を並べていた。小鳥は何気なく拓真に尋ねた。
「ねぇ、拓真」
「なに?小鳥ちゃん。ちゃんと前、見てる?」
「うん、大丈夫。ねぇ、あのコンビニさぁ、いつオープンだっけ」
「ポストにチラシが入っていたよ、9月1日がオープンだったと思う。くじ引き抽選会があるみたいだよ、行ってみる?」
「それって、2023年の9月1日だよね?」
「そうだよ、当たり前じゃない。何言ってるの」
コンビニエンスストアを通り過ぎた小鳥の軽自動車は、楓(かえで)並木を直進した。やがて反対車線にLED誘導棒を振る工事現場の警備員と遭遇した。老朽化したビルに鉄骨で足場を組み、ヘルメットを被った作業員が黙々と解体作業を行っている。
「あのビル、ホテルになるんだっけ」
「そうだよ。あのホテルは地上40階で教会も作るんだって。来年の4月1日にオープンだよ」
「詳しいね」
「取引先の企業系列のホテルなんだ」
「そう、そうだよね」
再来年の2025年7月7日。小鳥と拓真はこのホテルのチャペルで結婚式を挙げ、最上階のメインバンケットを貸し切って結婚披露宴を行う予定だった。その事を思い出した小鳥は微妙な面持ちになり、拓真はその表情の変化を見逃さなかった。
「どうしたの?」
「ん?」
「なんだか悲しそうな顔をしてるよ?」
小鳥は頭を左右に振って拓真に向き直った。
「ちょっとカレーライス食べ過ぎちゃったかな、胃もたれしてきちゃった」
「え、大丈夫!?」
「大丈夫、家に消化薬があるから心配しないで」
「そう?本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫」
軽自動車は車2台がすれ違えるかどうかの路地で一時停止をした。ここは2024年7月6日に小鳥が運転する車が一時停止を無視して大通りに飛び出し、対向車にクラクションを鳴らされた交差点だ。
カチカチカチカチ
カーブミラーに方向指示器を右に点滅させた軽自動車が映った。
「あれ?小鳥ちゃん、なんで右だって分かったの?」
「あ、あれ?郵便局が近くにあるって言ってたから、右かなって思って、早とちりしちゃった?あってる?」
「うん、あってるよ。小鳥ちゃんは方向感覚が動物並みに良いんだね!」
「それ、褒め言葉なの?」
「褒めてる褒めてる。大通りに出る時、対向車に気を付けてね」
「分かった」
数台の大型トラックを見送り、大通りを進むと2軒目のコンビニエンスストアが見えて来た。
「あ、僕のアパート、あの裏なんだ」
「コンビニが近いと便利だね」
「小鳥ちゃんのアパートの周りにはコンビニエンスストアはなかったね」
「小さい花屋さんがあるけどね」
「お婆さんが店番してるお花屋さんでしょ?」
「通ったの?」
「うん、ちょっと古い感じだった」
2人の会話は途切れない。
「あ、ここだよ」
「柴犬が遠吠えするアパートね」
「そうそう」
拓真が指差したそこにはタイル壁の2階建てのアパートがあった。懐かしさが蘇る。何度も通ったアパート、クリスマスの朝を2人で迎えたアパートだ。小鳥の軽自動車がエンジンを止めると柴犬が激しく吠え出した。
「本当だ、また吠えてる」
「番犬としては優秀だけどちょっと困るんだよね」
「きっと車を停めたから怒ってるんだね」
「かもしれない」
「じゃあ早く行かなくちゃ」
そう言って小鳥が軽自動車のエンジンボタンに手を伸ばすと、拓真の手がその手首を捉えた。やや驚いて振り向いた小鳥へとゆっくりと近付く拓真の唇。そうだ、カレーライスを食べた夜に2人は初めての口付けを交わし「カレー味だね」と照れながら笑うのだ。
(・・・・・)
しっとりとした唇が小鳥を優しく啄(ついば)み、名残惜しそうに離れた。
「小鳥ちゃん、好き」
「うん」
「好き」
「うん、好き」
今度はシートベルトを外して互いを掻(か)き抱き唇を重ねた。確かに口に広がるカレールーの香辛料と福神漬けの甘さ。
「カレー味だね」
「そうだね、ごめんね突然、こんな時に」
「カレーは美味しいから許す!カレーは正義!」
「小鳥ちゃんはそればっかりだね」
小鳥と拓真は1年前と同じシチュエーションで初めての口付けを交わした。隣の家の柴犬は柊(ひいらぎ)の垣根の隙間から鼻先を出して激しく吠え始めた。さすがにこれでは近所迷惑だ。
「じゃあ、帰るね」
「うん、送ってくれてありがとう」
「拓真、また遊びに来て」
「うん、僕の家にも遊びに来て」
「うん」
「帰り道、分かる?」
「うん、だいたい覚えたよ」
「やっぱり小鳥ちゃんの方向感覚は動物並みだね」
「そう!動物並みなの!」
運転席側に回った拓真は前に屈(かが)んでもう1度、小鳥に口付けた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
後ろ髪引かれる夜、小鳥と拓真の距離はまた1歩近付いた。
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