第2話 目覚めの小鳥

 小鳥に凝視された拓真は照れ臭そうにパジャマを脱いだ。


「着替えるから、あっち向いてて!」

「あ、ごめん」


 洗面所で歯を磨きうがいをする拓真。当たり前の日常が奪われる辛さを知った小鳥はその姿すら愛おしかった。思わず背中にしがみ付いた。


「やめてよ、髭が剃れないでしょ」

「ごめん」


 拓真はヘアワックスで黒い髪を整え、無造作に散らした。


「やっぱり今日は76なんだね」

「明日は7月7日、七夕の日だよ?小鳥ちゃん、忘れないでね?」

「・・・・分かった」

「分かった!?ほら、僕もう会社に行かなきゃ!」

「・・・・・・あっ!」

「小鳥ちゃんも会社はお休みじゃないよね?」


 そうだ。”有給休暇”を取ったのは7月7日、76の小鳥は満員の通勤電車に揺られ駅の改札口を出ていなければならなかった。


「遅刻じゃない?時間、大丈夫なの?」

「私は今、風邪をひきました」

「なにそれ」


 革靴を履きながら拓真が振り返って笑った。その足元には黒いスニーカーが揃えられていた。小鳥はその姿に心臓が鷲掴わしずかみにされた。決してそのスニーカーを横断歩道に転がしてはならない。


「鍵閉めるよ!早く準備して!」

「あ、ごめん」


 小鳥は拓真の指先の温かさを感じながら手を繋ぎ階段を降りた。


「拓真、駅まで送って行かなくて良いの?」

「大丈夫、近いから」


 軽自動車の陰に隠れて2人は口付けた。


(・・・・あったかい)


 胸が締め付けられた。


「明日、11:30だからね!遅刻はしないでね!」

「分かってるよ!」

「じゃ、じゃあ気をつけてね!」

「行ってきます!仮病、お大事にね!」


 小鳥はいっその事、待ち合わせなどせずに自分だけでジュエリーショップに行こうかとも考えた。


(・・・・でも)


 そんな事をすれば未来が変わってしまうかもしれなかった。


(大丈夫、横断歩道で引き止めれば良いんだ)


 小鳥は白く揺らぐ陽炎かげろうの中で軽自動車のハンドルを握った。拓真を跳ねたワンボックスカーの運転手は路面が眩しく、その姿を見落としたと供述した。


(あ、そうだ)


 趣味が悪いとは思ったが、交通事故現場の交差点に立ち寄ってみた。白いガードレールに供えられていた向日葵ひまわりや白菊の花束はどこにも見当たらなかった。黒いワンボックスカーが付けた急ブレーキのタイヤ痕もなかった。青色の歩行者信号が点滅する、小鳥は息を呑んだ。


リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン

チーン チーン チーン 

チン チン チン 


 ミニッツリピーターの微かな鐘の音で微睡まどろみから目覚めた小鳥はすっかり日が暮れている事に気が付いた。この49日の間、まんじりと夜を明かす事の方が多かった。


「ふあぁ〜・・・・・あ」


 大きな欠伸あくびが出た。


「熟睡した〜、何だか凄く身体が軽い」


 携帯電話の充電は完了、見ると拓真からLIMEメッセージが届いていた。




明日楽しみだね


       楽しみだね

          既読



 返信すると待ちかねたようにメッセージが届いた。



指輪のサイズ合うかな


      きっとピッタリだよ

             既読


楽しみすぎて

眠れないかも!


        ちゃんと寝てください!

            寝坊禁止だよ!

                既読


 この遣り取りも覚えている。この後、拓真から返って来るメッセージも知っている。



小鳥ちゃん、大好き!



 小鳥はどう返事をしようかと迷った。49日前と同じメッセージを送るべきか、今の切なる思いを伝えておくべきか考えあぐねた。



    生きていてくれてありがとう

               既読



 拓真は「うわっ!さっむ!どうしたの!?」と幾許(いくばく)かの照れ臭さを隠し、戯(おど)けたメッセージを寄越(よこ)して来た。「生きていてくれてありがとう」小鳥にはこの言葉しか見つからなかった。


 これで小鳥と拓真は2024年7月7日にジュエリーショップで受け取った婚約指輪を左手の薬指に嵌(は)め、2025年の7月7日に結婚する。




するはずだった。



リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン

チーン チーン チーン チーン チーン

チン チン チン チン チン 



 翌朝、小鳥はミニッツリピーターの微かな鐘の音とカーテンの隙間から伸びる一筋の明かりで目を覚ました。エアコンからの涼しい風が食器棚の観葉植物の葉を揺らしていた。


(枯れてない)


 拓真が死んでしまい、気力を失った小鳥はポトス観葉植物の世話をする余裕もなく無惨にも枯らしてしまっていた。そのポトス観葉植物が青々と蔓(つる)を伸ばしている。それは時間が巻き戻った事が夢ではないという事を物語っていた。

 安堵の溜め息が漏れた。壁掛け時計を見上げると時刻は8:00、待ち合わせの時間まで充分時間があった。ステンレス製の手動グラインダーでゆっくりと珈琲豆を煎り、穏やかな朝を満喫した。


(あぁ、幸せだな)


 些細ささいな事に幸せを噛み締めた小鳥は空腹に腹の虫を鳴らした。キッチンの戸棚からフライパンを取り出して目玉焼きを作ろうと冷蔵庫を開けると卵キャリアがからだった。


(あれ?おかしいな、買ったよね?)


 一昨日は近所のスーパーマーケットの陳列棚に超特価、お買い得品の卵が並んでいた。確かに買った。帰宅しエコバッグの中を確認すると2個の卵が割れていて悲しい思いをしたので間違いない。


(ええと、財布、財布)


 小鳥はショルダーバッグからピンクの財布を取り出すと、札入れに挟まった買い物レシートを確認した。


「あれ、買ってない?」


 しかも、そのレシートには買った覚えのない品物ばかりが印刷されていた。


牛乳

食パン

ベーコン

チョコレート

素入り食塩不使用アーモンド

タマネギ

人参

豚バラ肉

ボディーソープ

コンディショナー

缶ビール3本


(え、なんでビール?)


 小鳥と拓真は半年前から今後の生活を考えて節約を心掛けていた。それはほんの僅(わず)かな事ではあるが外食を控え、拓真が部屋に泊まった時に飲んでいたビールは発泡酒に置き換えていた。小鳥がスーパーマーケットでビールを手に取る筈がなかった。


(ビール!?)


 もう一度冷蔵庫を開けた小鳥の動きが止まった。その中で冷えていたのはビールの缶、発泡酒ではなかった。


(まさか!?)


 嫌な予感がした。震える指でレシートを持つと目に近付けた。


(そんな)


 買い物レシートの日付は2023/07/06。信じられない事に、小鳥の財布の中には1の買い物レシートが入っていた。

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