眠りの小鳥
雫石しま
第1話 小鳥の溜め息
横断歩道の青色信号が点滅していた。黒いスニーカーを履いた背中が
「
つないでいた手を振り
一瞬の出来事だった。
なにかが跳ね飛ばされ、黒いワンボックスカーが目の前で急停車した。助手席から男性が携帯電話を手に飛び降りて来た。運転席にはハンドルを握ったまま微動だにせずフロントガラスを見据えた女性の姿があった。
「拓真?」
そこに拓真の姿はなく、白い横断歩道に黒いスニーカーが転がっていた。
「拓真」
夏の日差しの中、小鳥は
雲ひとつない真っ青な空に細長い筒が伸びていた。白い煙が南風にたなびき、それはやがて
不慮の事故だった。
小鳥はあの時、なぜ拓真の手を離してしまったのだろうと自分を責めた。手を強く握り横断歩道に飛び出した背中を引き留める事も出来たはずだと、その瞬間を悔いた。
拓真を見送った葬儀の後、仕事で失敗が続き、同僚は「私に任せて」と微笑み、上司は「有給休暇があるから気にせず休め」と言ってくれた。
(拓真)
リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン
チーン チーン チーン チーン チーン
チン チン チン チン チン
その時だ。ひとりの部屋に
現実が受け入れられない小鳥は毎朝、目が覚めなければ良いと思った。それでも容赦無くカーテンの隙間から明るい日差しがベッドに届く。腕時計は7:00、また1日が始まる。そして今日は特別な日だ。拓真の四十九日の法要がある。ハンガーに掛けた喪服の黒が痛い。
(あ、充電忘れてた)
ふとその時、昨夜、携帯電話の充電をし忘れた事に気が付いた。バッテリーの残量を確認しようと携帯電話を持ち上げた小鳥は自分の目を疑った。
「7月、7月6日・・・?」
まさか、本来ならば今日は8月24日だ。小鳥は慌ててメールボックスを確認した。ニュースレターの朝刊の見出しは7月6日と記載されていた。
(て、天気予報・・・!)
ウェザーニュースは7月6日は晴れ、午後は曇りでゲリラ豪雨に注意と報じていた。
(え、ちょっと待って、これはどういう事!?)
携帯電話のバッテリーはあと
おはよう
うん
既読
起きてる?
うん
既読
拓真のトーク画面に既読が付いた。
(・・・・嘘だ)
拓真の携帯電話は黒いワンボックスカーの前輪に押し潰された。
ポコッ
携帯電話を握った手が震えた。画面を凝視していると枕を抱いたクマのスタンプが”まだ眠い”と返って来た。
(眠い?誰が眠いの?)
拓真?
なに、どうしたの?
既読
拓真なの?
誰かと間違えたの?
既読
メッセージから伝わって来る温かな雰囲気、それは拓真で間違いはなかった。
「あっ!」
その時、携帯電話の画面が真っ黒になった。小鳥は充電切れを起こしたそれをベッドに放り投げると慌てて部屋着を脱ぎ、青い小花のワンピースを頭から被った。コンタクトレンズを入れている余裕などなかった。黒縁眼鏡を手掴みにすると軽自動車の鍵を握ってアパートのドアを閉めた。
(拓真が、拓真が生きてる!?)
コンクリートの階段を駆け下り、駐車場へと走った。エントランスの段差を踏み外し、車止めに足を取られ転びそうになった。
(まさか、まさかそんな!)
小鳥はペールブルーの軽自動車に慌てて乗り込んだ。こめかみがジンジンと疼き喉が渇くのが分かった。シートベルトを握る指先が震え、なかなか留める事が出来なかった。エンジンをかけようとしたがブレーキペダルを踏み間違え、車体はうんともすんとも言わなかった。
(7月6日、拓真が事故に遭う前の日・・・!)
心臓が跳ねる、拓真が生きているという信じられない気持ちと信じたい気持ちが交差して動悸が止まらなかった。
(早く!早く!)
これが夢であるならば、
(この角、この角を曲がれば!)
カーブミラーに右点滅するウィンカーが映った。小鳥が運転する軽自動車は一時停止をする事なく大通りに飛び出し対向車にクラクションを鳴らされた。無我夢中だった。
(拓真のアパート)
タイル壁の2階建てアパートの手前でタイヤは動きを止めた。小鳥は路肩に軽自動車を停め、エンジンを切った。シートベルトのタングプレートを外す指が震え、手のひらには汗をかいていた。
(まさか、本当に、本当に今日は7月6日なの?)
そして引き払ったはずの205号室の郵便ポストに”
(拓真の部屋だ)
コンクリートの階段を上ると静まり返った壁に小鳥のサンダルの音が響いた。ゴクリと喉が鳴った。手前から1、2、3、4、1番奥の角部屋が205号室だ。
「・・・・・」
額の汗を拭いながら大きく息を吸って深く吐いた。玄関ドアの前に立ちインターフォンを押すと人の気配が近付いて来た。
(あっ)
小鳥はふと我に返った。
(もしかしたら、もう違う人が住んでいるかも!)
鍵の開く音がしてドアノブが回る、緊張が走った。
「小鳥ちゃん、どうしたの?」
「拓真」
そこにはボサボサの髪で眠い目をした拓真がボリボリと尻を
「おはよう、早起きだね」
「早くないよ、もう8時だよ」
「え、そうなの!?」
「相変わらず、寝坊助さんだね」
平静を装いながらも声が震え、目頭が熱くなった。
「なにぼんやり立ってるの、暑いから入って、入って」
玄関先で動けずにいると拓真に腕を引っ張られた。その手は確かに温かかった。
「昨夜、小鳥ちゃんが長電話するから寝不足だよ」
「ゆ、うべ?」
「そうだよ、今度から電話は1時間、1時間だからね!」
「うん、分かった」
小鳥がぼんやり立っていると拓真はソファの座面をポンポンと叩いた。触れる肩、重なる手のひらが熱い。
「昨夜、何の話してたっけ?」
「何って、待ち合わせの時間を決めていたんだよ?忘れたの?」
「何の待ち合わせ?」
驚いた拓真は小鳥に向き直った。
「婚約指輪を取りに行く待ち合わせだよ?」
「ねぇ拓真、今日って何年何月何日だっけ?」
「どうしたの、さっきからなんだか変だよ?」
「何年何月何日?」
「2024年7月6日!」
小鳥は拓真が差し出した携帯電話の画面を見た。確かに7月6日だ。
「7月6日」
「そう!七夕にプロポーズしてって言ったの小鳥ちゃんだよ!」
「私が言ったの?」
「そうだよ!もう”有給休暇”、取ったんだからね!予定変更は出来ません!」
「予定変更、予定を変更」
「なに?」
「待ち合わせの時間、変更しない?」
「え、なに。どういう事?」
信じ難い事だが今日は7月6日で間違いなかった。小鳥は7月7日の待ち合わせの時刻を変更して欲しいと拓真に提案した。
「拓真、明日の待ち合わせの時間なんだけど、少し早くしても良い?」
「うん、良いよ。あんまり早いのは困るけど」
「大丈夫、8:00にお店は開いていないから」
「そうだね」
(私が、私が拓真を守る!)
2024年7月6日、須賀小鳥は49日分の時間を飛び超えた。
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