第7話
「あ、クラトさん、お帰りなさい」
帰宅すると、リーエが玄関先で明るい声で迎えてくれた。
出会った時に着ていた灰色のタンクトップとズボンを着て、洗濯したのか洗剤の微かな香りがする。
他にも、クラトの脱ぎ捨てていた、服やタオルも、リーエが洗濯したらしくきれいに畳まれている。
体調はもう、ほぼ回復しているようだった。
反して、クラトは暗かった。
「ああ、ただいま」なるべく平静を装って答える。
クラトはリビングに入って、電子レンジで温めようと棚のレトルト食品を取ろうとする。
「あ、私がやります。何を召し上がりますか?」
「ありがとう」クラトは適当に食べるものを言った。
正直、食欲はあまりなかった。
リーエが準備をした食事を一緒に済ませて、その後シャワーを浴び、続いてリーエも浴びた。
昨日と同じように、リーエは机の前に正座する。
「リーエ」クラトはその向かいに座って話を切り出した。
「はい?」
「実は仕事をクビになった。もしかしたらここにいられないかもしれない」
「それは……お気の毒です」リーエは険しい顔をして答えた。
「人身道具ならよくあることだ。君は、俺なんかより、ちゃんとした他のあてを探した方がいいと思う」
「私のことより、クラトさんのことが大事です。私に力になれることがあれば、何でも仰ってください」
「あ、ああ」
そこで、リーエはクラトの目前に来て右手を両手で握る。
「辛いでしょう」
リーエはクラトの受けたショックを、読み取っていたようだった。
しばらくリーエはクラトを見つめてから、決心したように言った。
「あの、私でよければ、慰めます」
リーエはクラトに体を寄せて交わろうとした。
白い肌がシャワーで火照っている。
飾り気がなくても、儚い花のようにきれいで惹きつけられる。
その花のような裸体を全て見たい、抱きしめてしまいたい、そう思った。
しかし、クラトは我に返り、とっさにリーエから体を離した。
「ダメだ」
「あ」リーエが察して動きを止めた。「ごめんなさい」
クラトはリーエが性に奔放なのかと思ったが、彼女が、耳まで顔を真っ赤にして、心配そうな目をしているのを見て、違うと気づいた。
本気で慰めようと、体を捧げてくれようとしたようだ。
彼女がそういう人間なら、なおさらクラトは甘えるわけにはいかなかった。
「うん、しない方がお互いのためにいいと思う」クラトが言う。
「それじゃあ、もしかして、相手の方が?」
「いや、相手なんていない」
リーエは怪訝な顔をした。
「そうじゃなくて、避妊具がないし、万が一だけど、子供ができたら、俺は責任をとれない。金もないのに子供なんか作っても、貧しい目に遭わせて苦しませるだけだ。下ろすような真似もさせたくない」
「そうですか。はしたないことをしてしまいました。不快な思いをさせてしまったのならごめんなさい」
「違う。君のことが嫌なんじゃない」クラトはたどたどしく言う。「その……君はキレイだと思う」
「え……」
リーエが静かにクラトの目を見つめた。
クラトが暗い声で言う。
「でも、後先考えないで欲情のままやって、生まれたのが俺だ。それで、こんな社会の底辺で惨めに生きてる」
クラトの言葉̪を聞いて、リーエは悲しそうに、それでいて強い口調で言った。「そんなこと、言わないで下さい!」
リーエの反応に、クラトは驚いた。
「そんなこと言わないで!クラトさんは立派に生きてるはずです」
リーエの、自分を認めてくれる言葉に、クラトの胸に暖かいものが流れてきたが、長年染み着いた考えは変わらなかった。
続けてリーエが問いかけてくる。
「それでは、もし、きちんと恋人になっても、しないということですか?」
「恋人?俺には恋人を作る資格なんてない」
「どうしてですか?」
「貧乏人の俺は、恋人とデートして、美味いものをおごったり、服やアクセサリーを買ってあげたりして、喜ばせてあげることもできない。そんなので付き合っていいわけがない。どうせ相手の方も俺なんか選ばない」
「クラトさんは、私じゃなくても、本当に好きな人ができてもそんなふうに諦めるんですか?」
「ああ」
「そんな……」
リーエが泣き始め、クラトはうろたえた。
「どうして、泣いてるんだ?俺が何か君を傷つけることを言ったのなら謝る」
「いいえ、私のことで泣いてるんじゃありません。クラトさんが、そんな考えをしているのが悲しいんです。私、クラトさんに命を救われました。そんなクラトさんが、生きたいように生きられないのがやりきれないんです」
リーエは涙を流しながら言う。
「そんなことを言っても、俺はただの道具だ。この先の人生も知れてる」
その言葉を聞いて、リーエはさらに激しい口調になった。
「違います!クラトさんは道具じゃありません!クラトさんは、理不尽に仕事を止めさせられて、自分が悪いんじゃないって思うのに、そんなふうに思い込もうとしているんじゃないですか」
図星だった。
クラトにもプライドはある。
例え、社会の底辺にいても、役立たずだとも、要らない人間だとは認めたくない。
それを守るために、自分に道具だと言い聞かせてごまかしている。
心の底から突かれたくないことを、好意を感じ始めているリーエに見透かされた。
余計に情けなかった。
リーエがさらに言葉を繋ぐ。
「おかしいのは、そうやって人を道具にしている方です!クラトさんは、何も悪くありません!そんなふうに自分を決めつけないで!」
リーエは、本気で、心の底から自分のことを思っていてくれているのだとクラトは悟った。
リーエの優しい心が伝わってくる。
嬉しかった。
クラトの目から涙が溢れた。
泣き顔をリーエに見られたくなかった。「ごめん。疲れた。もう寝るよ」
リーエから顔を背け、いつも寝ている廊下に行き、タオルケットをかけて寝込む。
「嫌なことを言ってしまって、ごめんなさい」
タオルケットごしに、リーエの申し訳なさそうな声が聞こえた。
「あの、もし、もしもですが、私が恋人だったら、何もなくても、好きな人と一緒にいられれば、それだけでいいかなって思います。きれいごとかもしれませんが」
クラトは何も答えなかったが、それはこちらも望んでいることだった。
「変なことを言ってごめんなさい。おやすみなさい」
それからは静かになった。
◇
彼女が自分のために、感情的になっていたのは理解している。
俺だって、何も考えずに、彼女と愛し合えたら……
そう思いながら、クラトは眠りについた。
◇
眠り込んだクラトの顔を、リーエは覗き込む。
彼の目から涙が垂れていた。
指先でそっと拭き取る。
彼が、どう頑張っても彼自身の力ではどうにもならないことを知っている。
人身道具の労働制度が彼の人間らしさを壊して、人としての幸せを願えないような思考を植え付けてしまった。
彼だけでなく、きっと、こんなふうになっている人間がたくさんいるのだろう。
そして、この制度の成立こそが、リーエのいた時代までに至る、世界が破滅に向かう始まりだった。
多くの人間が子供を作らなくなり、働き手はさらに減って、N国の破滅は加速した。
この時代の人間がそうなった思考を、今、まざまざと見せられた。
それも、愛したいと思った人間が。
リーエにとって、それは衝撃だった。
「私は、こんな世界を変えるためにきたのに……」
時間を遡ったというのに、戻る時間が足りなかった。
それでも……。
リーエは眠るクラトの顔を見る。
自分を一目散に救いに来てくれた、あの時の彼の目。
それは深い暗黒の中にいながらも、輝いていた。
かつての、自慢の弟、イツキが見せてくれたのと同じように。
この人は、本当は自分の境遇に屈しなどしないはずだ。
彼となら、何か希望を掴めるかもしれない。
リーエは、クラトの頬にそっと口づけした。
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