第16話 せーの、で押そうか

 運動会が近づいて来て、応援団に所属している生徒なんかは昼休みに集まって練習をしているようだった。対して力の入っていない運動会だが、少しは学校の様子を変えているのだ。


 ただ、僕はいつもと何も変わらない昼休みを過ごしていた。少し変わったことがあるとするなら、水筒を忘れてしまったということだろうか。

 いつも朝は余裕をもって行動しているので、忘れ物にはかなり気を付けているが、どうしても時々こうして忘れ物をしてしまう。

 僕は基本的に口に入れるものにあまり興味はないので、いつもは大容量のプライベートブランドの水を買って、それを水筒に入れて飲んでいる。それ以上もそれ以下も望まない僕にとって、追加の金銭を払ってわざわざ自動販売機で飲み物を買うのは望ましくないことだった。

 でも、いくら夏が開けて涼しくなってきたからといって、水分補給なしに一日を終えることは難しい。学生生活は僕から確実に水分を奪っていく、なんなら水分以外のものもたくさん。


 ということで、僕は午前の授業が終わってすぐ、飲み物を買うためにふらふらと校内を歩いていた。

 何となく僕は少し遠くにある体育館のそばの自販機を目指していた。なんだか歩きたい気分というのもあるし、その自販機にはあまり人がいないというのも僕の足をそちらに向かわせていた。

 それにその自販機にはがついているのだ。

 安っぽい音とともに4桁の数字が表示され、数字が4つ揃えば、もう一本出てくる。そういうよくある当たり付の自販機だ。

 僕は自分の不注意で生じた予想外の支出を、運をもって帳消しにしようとしているのだ。




 体育館までの渡り廊下を横にそれて、体育館沿いにかなりの距離を歩いていく。すると、体育館の重苦しいドアの横に自動販売機がひっそりと佇んでいるのが見えた。なぜこんな人通りの悪い場所に自販機があるのかはわからない。おそらく以前は横にある体育館に通じるドアからこの自販機までこれたのかもしれない。今はそのドアは一切開く気配がない。

 僕は一人に慣れる場所を探しているときにたまたま見つけることができた。

 見つけてから何度か来ているが、いつもきちんと中身は補充されているので、こんな学校の隅っこにあってもしっかり管理はされているようだった。


 僕は自動販売機の前までたどり着き、その正面に立った。

 人が少なかったり、あたりがついていたりするのはこの自販機の良いところだが、一つ気になるところもあった。

 ラインナップがやや特殊なのだ。

 コーンスープやおしるこはまだしも、豚汁やカニ雑炊、それにショートケーキ味の飲み物なんかもある。こういうのが飲みたいときもあるのかもしれないが、単純にのどが渇いてやってきた僕にはどれも全く魅力的には感じられない。


 僕はおとなしく水を買おうとお金を入れたが、僕が水だと認識していたのはよく見れば水ではなく見慣れないスポーツ飲料だった。あきらめて何かしらのお茶にしようとしたが、あまりにもお茶を飲まないので頭の中でお茶の種類とその味が一致しない。

 確か僕が苦手なのは緑茶だったはずだ。


 自販機の左上に何個か並べられているお茶が緑茶でないことを確認して、ボタンに指を伸ばした瞬間のことだった。


「わっ」


 突然後ろから声をかけられた。驚いて僕は人差し指を立てたまま、声も出さず固まってしまった。

 最近の僕は後ろから声をかけられすぎている気がする。


「ちょっとリアクション薄いね」


 謎のダメ出しをするその声は、少し前に屋上で再開したあの先輩のものだった。

 あの日以来、僕は屋上に行っていないのでそれ以来の遭遇だった。


「勘弁してください」

 

 そう言うと、彼女は一歩前に出て僕の隣に並んだ。目線はそこまで変わらなかった。

 思えば、僕はこの人のことを何て呼べばいいのだろう。

 部活に打ち込んだことがないので、「先輩」と呼ぶことにやや抵抗がある。ただ、名前もまあまあうろ覚えだった。

 僕は妥協して、「先輩」とひとまず呼ぶことにした。


「…先輩はどうしてここに?」

 僕は自分の口から発せられる先輩に、若干不自然さを感じた。


「私は、検証?」

 その声は相変わらず涼しげだった。


「なんのですか?」

「ここの自販機って、あたりが付いてるでしょ」

 ぼーっと立っている自販機を指さす。


「そうですね」

「上野君、知ってる?ここの自販機の、裏技」


 胡散臭そうな言葉が出てきた。


「一応聞かせてください」

「特定のボタンを同時に押したら、絶対にあたるらしいよ」


 ありがちな内容だ。


「特定のボタンっていうのは…」

「片方は何でもよくて、もう片方はカニ雑炊」 

 隣に立っている先輩が右端にあるカニ雑炊を指さす。


 片方が何でもよいのは良心的な噂だが、片方がカニ雑炊という点には悪意が含まれている気がする。


「そんな噂があるんですね」

「そう。だから検証したくて」

「なるほど」


 話しながら僕は改めて、狙いを定めていたお茶の方に手を伸ばした。

 すると、隣の先輩もすっとカニ雑炊のボタンに手を伸ばした。

 体育館裏は、他に人の気配はなく静まり返っていた。


「…なにしてるんですか」

「せーの、で押そうか」

「いや、嫌ですよ」

「いち、に、さん、の方がよかった?」

「そういうことじゃないです」


 なぜ僕がその検証に協力することになっているんだ。


「カニ雑炊になったら、どうするんですか」

「大丈夫だよ、当たればもう一本もらえるから」

 隣に立つ先輩は僕の目をまっすぐ見てそう言った。


 相変わらずそのたたずまいは凛としていて、発せられる言葉は不思議な説得力を身にまとっている。僕はその雰囲気に一瞬のまれそうになったが、その指先にあるカニ雑炊を見て正気に戻った。

 

「検証は自分のお金でして…」


 そう言いかけたところで、先輩のカニ雑炊じゃないほうの手が僕の手の方に伸びてきた。そして、その白魚のような指が僕の手に覆いかぶさった。

 僕の前に身を乗り出してきた彼女の短い髪からはおそらくシャンプーのいい香りがした。

 僕は緊張して動けなくなってしまった。


「せーの」


 彼女の掛け声とともに、僕の手にも外から力が加わる。

 勢いのあるガコンという音と同時に、ピロピロと数字がランダムに高速で表示され始める。そして、左から数字が表示されていき、3つ同じ数字が揃ったところで、少し間が開いた。僕は固唾を飲んでその様子を見守った。











 あの後、先輩は「また屋上に来てよ。でも、寒くなったら別の場所探さないといけないね」と言って去っていった。

 僕はあの人と関わるといつも損ばかりしているような気がする。ただ毎回、人がいるところを避けているときに遭遇してしまう。行動は似ているのかもしれないが、根本は僕とは全く違う生物だということが、ここ何回かの遭遇で分かった。

 彼女との会話で僕の喉はすっかり乾いていたが、カニ雑炊ではやはりそれを潤すことはあまりできなかった。

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