第13話 適当に返事してるでしょ

 一晩眠ると、僕の調子はずいぶんよくなっていた。あの暗い気持ちから完全に抜け出せたわけではなかったが、いつも通り走ったり、勉強したり、家事をしたりできるくらいに僕は回復した。一日を棒に振ってしまったことを今は後悔しているが、あれが一過性のものであったということには安心した。


 今日は月曜日で、僕は普通に学校に来ていた。ちょうど昼休みになり、屋上のことを少し思い出したが、今日はなんとなく行く気分にはなれなかった。ただ、教室でパンをかじりながら、先週、あの先輩に言われたことをなんとなく思い出した。僕が優しいと言われることに抵抗を示したとき、あの人は自分が助かっているのは確かだから、と言った。今になって改めて、あの言葉の意味を考え直していた。というのも、その要旨はあの文学少女が言っていたことと似通っているのかもしれないと思い至ったからだ。彼女は感じたことは自分だけのもの、と言っていた。僕と同じように、砂漠の薔薇からしたら、自分が薔薇に似ているなんてどうでもいいことなのかもしれない。僕らが勝手に薔薇に似ていて綺麗だと思っているだけなのだ。

 感じる対象にはたくさんの種類がある。物の性質や、人の性格もその一つだろう。そういった感じられるものは、物や人自身が持っているものではなく、それに触れた人の中にあるということだ。

 僕にはそれが正しいことなのかはわからなかったが、そう思うことで少し心が安らぐ気がした。なぜなら、そう思うことで、汚れた心みたいなものはある意味では存在しないと言えるからだ。

 僕の心は、それ自体は何の性質も持たず、僕の中にただあるだけなのだ。何もおかしなところなどない。












 月曜は体育の授業があった。体育会が近づいてはいるが、組体操みたいな学年ごとで練習しないといけない演目もうちの学校の体育会にはないので、いつもと変わらぬ授業が行われていた。ここしばらくはサッカーをしている。とは言っても、僕は球技はめっぽう苦手なので、僕自身に限って言えば、ボールに合わせてただコートを右往左往してサッカーをするふりをしている、と言った方が正しいかもしれない。体力だけには自信があるのだ。


 ウォームアップの鳥かごで、僕はひたすら一定のペースでボールを追いかけてパスのミスを待っていたとき、同じグループの一人に話しかけられた。


「なんか最近、待鳥と放課後一緒に残ってたよな」


 さすがに周りの目にも留まったらしい。とはいえ、僕は何もやましいことなどないのでおとなしく素直に正しい情報を伝えた。


「よくわからない流れで、勉強を教えてもらうことになったんだ」

「へー」


 彼自身はそれほど興味があるわけではなさそうだったが、話を聞きつけてグループの他のメンバーも話題に参加してきた。なんだか面倒そうなことになりそうな予感がする。


「まあ、なんか、迷惑だったらちゃんと言えよ」

「なんなら、周りの女子に俺らから伝えるし」


 なんだか、思っていた反応と違う。彼らは僕のことを心配しているようだった。もっと下世話な話になるかと思っていた。


「待鳥は、可愛いけど、…な」

「うん…。そうだよな…」


 どうやら、待鳥さんの男子受けはいまいちらしい。確かに彼女は押しが強すぎる気がする。いまだに少し長く話すとどっと疲れることがある。会話すること自体は別に楽しくないわけでもないが、ちょっと何を言っているのかわからない時がある。他のクラスメイトから見てもそれは同じようだった。性格が幼すぎるとか、どう対応していいかわからないとか、いろいろ言われている。

 ただ英語の指導が頼りになるのも確かなので、ひとまず次のテストまでは引き続き勉強を教えてもらおうかと思っている。彼らには、心配はいらない、と言っておいた。




 体育が終わり下駄箱に向かうと、たまたま女子も同じタイミングで授業が終わったようで下駄箱に人がごった返していた。僕はその人ごみに入っていきたくなかったので、少し離れたところで皆が靴を履き替えるのを待つことにした。すると、待鳥さんとその友達も下駄箱にやってきた。いつも通りのポニーテールだが、体操服だとスポーティな印象だ。何やら会話が白熱しているようだった。ただ、僕はさっき勝手に話題に挙げてしまったことが何となく気まずくて、すぐに目をそらした。下駄箱の人も少なくなってきていたので、さっさと教室まで帰ろうと一歩踏み出した瞬間、待鳥さんがまた唐突に話しかけてきた。


「ねえ!上野君もそう思うよね!」


 上履きに伸ばしかけた手を止めて制止する。考えても埒が明かなそうだったので、適当に答えることにした。


「うん、そう思う」

「適当に返事してるでしょ」

 じとっとした目つきで見られた。さすがにバレバレだったようだ。


「ソフトボールって、そう名乗るほど柔らかくないよねって話」

「それは確かにそうだね」


 言われてみれば、まあそうだ。あの競技のアイデンティティがボールの柔らかさにあるとは思えない。


「だから、いろんなボールに触って柔らかさを比べて、どれがほんとのソフトボールか決めよう、って言ってるのにみんな全然賛成してくれなくて」


 そりゃそうだ。


「それは、ちょっとよくわからないかも」

「えー、なんでー」


 待鳥さんは納得いかなそうにしていたが、見かねた友達が引っ張って連れ去っていった。大人の女性になる目標はどこに行ったのだろうか。気になることがあったら、行動したくなってしまうのだろう。


 待鳥さんの顔を見たら、木曜の発表のことを思い出した。もうあと三日後まで迫ってしまった。あれこれ考えても、発表しないといけないことには変わりないので、気に病んでも仕方ない。僕は上履きに履き替えて、教室に戻ることにした。

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