第12話 なんで、綺麗なんだろう

 カウンターで僕はその図鑑を開いた。すぐに目次を確認したが、そこに砂漠の薔薇の名前はなかった。確か分類としては石膏とか、重晶石に含まれていたはずだ。僕は何か新しい情報がないか期待して、それらしいところのページを開いた。

 結果として、その期待は裏切られた。砂漠の薔薇についての記述は見つけられた。ただそこに書かれていたのは、砂漠で採取できること、石膏や重晶石が砂と混じって結晶したものであることだけで、その形になるメカニズムについてはやはり記述がなかった。僕はようやく、世の中にはまだまだ分かっていないことが沢山あるのだということを痛感した。僕が勉強してきたことはすでに分かたことばかりなのだ。


「上野さん」


 急な呼びかけが僕の意識を覚ます。声の方を確認する前に、僕は目の前に本を借りに来ている人がいることに気付いた。すみません、と軽く謝りながら本を受け取り、赤い光でバーコードを読み取った。

 その人が本を受け取り去っていったのを確認して、それから僕はやっとカウンターのとなりの席に向いた。


「ごめん、ぼーっとしてて。気を付けます」

「気を付けてください」

 秋南さんはメガネを両手で直しながらそう言った。




「…好きなんですか。鉱石」

「あ、え、いや、そういうわけじゃなくて」

 まさかさらに話しかけられるとは思っていなくて、しどろもどろになってしまった。僕は一呼吸おいてから次の言葉を紡ぐことにした。


「総合的な探求の時間で、ある鉱石について発表することになったんだ。だから調べてた」

「たしかD組は博物館でしたよね」

「うん」


 D組は、という言い方が気になった。


「もしかして、クラスによって行き先が違う?」

「A組は植物園でした」


 言われてみれば、あの日、博物館には全クラスの生徒はいなかった気がする。

 僕にはこの会話の収拾のつけ方がわからなかった。鉱物に興味があったり、詳しかったりするのだろうか。僕はとりあえず当たり障りのない会話を続けることにした。


「砂漠の薔薇、って知ってる?」

「砂漠の薔薇?」


 僕は図鑑をカウンターの真ん中の方に寄せて、砂漠の薔薇の写真を指差して見せた。図鑑に載っていたのは僕が見たものよりも、もう少し砂感のある質感の砂漠の薔薇だった。


「綺麗ですね」


 そう、この物体は綺麗なのだ。一見するだけで多くの人がそう感じるだろう。本物の薔薇だって綺麗だが、僕にとってはこの砂と混ざった結晶の方が魅力的に思える。本物の薔薇ほど色鮮やかでないし、生命の持つ美しさみたいなものも、もちろんない。かといって、そのミステリアスさだけではその魅力を説明できない気もする。不純で、不完全で、それなのに、


「なんで、綺麗なんだろう」

 僕は思わずつぶやいた。




「なんで綺麗かは、あなたの中にあることだと思いますよ」

「え?」

 しばらくして、彼女はおもむろに口を開いた。


「感じたことは自分だけのものですから」


 感じたこと。僕が感じたこと。それは自分だけのもの。なんだかしっくり来た気がした。僕は焦点を当てるものを間違えていたのかもしれない。魅力的だと感じる理由の所在は、「もの」そのものではなく、僕自身にあるのだ。

 それはもちろん学校の教科書には載っていないし、どんなに分厚い図鑑にも記されていないことだろう。


「ありがとう」

 僕はまっすぐそう言った。言われた秋南さんは意味が分からないという表情をしていた。ただ僕は何かがわかったような気がしたのだ。











 翌日、僕は昼近いにもかかわらず家でごろごろしていた。とはいえ、あの先輩のように学校をさぼっているわけではない。今日は祝日なのだ。僕は何を祝う日なのかわからないまま、何をやるでもなくベッドに寝ころんでいた。

 何となく、何もやる気が起きない。僕にはときどきそんな日があった。激しく運動した後に、水を飲んでも飲んでも力が出ない時のような、決定的に何かが僕の体から欠けている。そんな気分だった。

 それでも生活のためにしなければいけないことはたくさんある。冷蔵庫を確認したら、今日の食べるものがない。僕は食べるものを確保するという極めて原始的な理由で外に出ることにした。なにより、このまま家にいてもどうしようもないのだ。




 外の天気は僕の心とは裏腹に気持ち悪いくらい晴れていた。外に出た瞬間、焼くような日の光が浴びせられた。気温は秋らしく少し低いように感じられたが、それ以上に日差しが強く、暑かった。

 住宅街を抜けて、踏切を渡り、近くのスーパーまでたどり着いた。スーパーには思っていたよりも人がいた。僕の気分が悪かろうと、世の中は何も変わらず回っていて、主婦たちはスーパーで買い物をするのだ。僕はその中に入るのを少しためらったが、このまま帰るわけにはいかないので、仕方なくスーパーの自動ドアを開けた。




 僕はインスタントラーメンとか冷凍食品とかで膨れ上がったリュックを背負ってスーパーを出た。歩いていると、向こうから幼稚園児くらいの男の子と、母親が一緒に歩いているのが見えた。近くにある幼稚園も、今日は休みなのだろう。

 僕は近所の外飼いされている大型犬を眺めたり、公園で昼間から遊ぶ子供たちの声を聴いたりしながら、家まで歩いた。家に着いた後は、買ってきたインスタントラーメンを卵だけ加えて作って食べた。家からも近所の子供の声が聞こえてきていて、ここはいつもと変わらないアパートのリビングだが、今日はやたらと広く感じられた。


 


 腹を満たせば少しは元気になるかと思ったが、特にそういうことはなかった。相変わらず僕の気分は落ち込んでいて、どこにも活路はないように思えた。僕は、ベッドで天井を仰ぎながら、何がこんなにも僕をむしばむのかを考えた。それは唐突で、理不尽な体験だった。何か不快にさせることがあったわけでもないし、何かを失ったわけでもない。それなのに今日の僕はつらく重い感情に付きまとわれていた。

 僕は何となく、ここ最近の出来事を思い浮かべた。一学期のときよりも、なんだか人と話す機会が増えている気がした。それは僕にとって、いい影響もあるのかもしれないとも思うが、それ以上に僕はそのことを恐れている気もした。

 僕はずっと一人で生きてきたつもりだった。実際にはこの社会の中で一人で生きていける人間なんていないのだから、それは勘違いだと思うが、少なくとも僕はそのつもりだった。誰ともかかわらず、アニメやゲームだけに触れて、幻想を抱きながらぼんやりと生きていく。それが僕の生き方だった。しかし、その生き方は大きく否定され、僕は自分を変える決断をし、人ともほどほどにかかわるようになった。その試みはおおむね成功して、今の僕は一見、一般的な少年に見えるだろう。

 ただ、その過程の中で、そうやって育った僕の心はどうやら人と少し違う形をしているのではないかという疑念が大きくなっていった。それは、人と関わればかかわるほど輪郭がはっきりとしていくのだ。僕には、世の流行も、人間関係も、激しい競争も、何一つとして興味が持てない。人との距離が近くなればなるほど、かえって僕は孤独になっていくような気がした。


 それでも僕は、自分を誇れるようにならないといけなくて、でも、子どもの頃に何の努力もせず生きてきた僕には何もなくて、それでも唯一できるかもしれないと思ったのが勉強で、ただその勉強も今は僕の手から離れていっていて。こんな僕のどこを社会が評価してくれるのだろうか。誰が好意的に思ってくれるのだろうか。


 食べてすぐ横になったからか、お腹が気持ち悪い。ベッドの端に畳んである掛け布団はまだ夏の薄いもののままで、視界の端には出っぱなしの扇風機が映った。季節の変わり目はやらないといけないことがたくさんある。なぜ、ただ生きていくだけでこんなにも大変なのだろうか。

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