第5話 とりあえず拭いた方がいいですよ

 待鳥さんとの勉強会から数日経ったある日、僕は珍しく遅刻しかけていた。僕は朝はいつも早めに起きているので、学校に遅刻しそうになることなんて今までありえなかった。最近の睡眠不足がたたったか、それとも急激に人と会話する機会が増えたことによる精神の不具合だろうか。僕にはそんなことを冷静に考えている時間はなかった。僕はまだ遅刻しかけなだけで、まだ遅刻はしていないのだ。急げば間に合うかもしれなかった。


 外はあいにくの雨で、僕の急ぐ気持ちは雨と一緒に流れてしまいそうにだったが、何とかこらえて、駅から傘を差して、朝できなかったランニング替わりとばかりに小走りで学校へと向かっていた。雨といっても特別強いものではなく、この季節によくあるような通り雨だった。


 通学路はほとんど山道みたいなもので、人通りも少なく高校の生徒以外を見かけることは非常にまれだった。遅刻ギリギリの今、その生徒もこの道には見られなくて、閑散とした自然の中に弱い雨と朝の澄んだ空気が相まってとても良い雰囲気に包まれていた。こんな状況じゃなければ、僕はこの空気をゆっくりと楽しみたいと心の底から思った。

 

 ほとんど森の中みたいな車線一つ分ほどのせまさの道を僕は進んでいた。すると、少し先の山壁を舗装するコンクリートの壁際に人影が見えた。制服を見るに、僕と同じ高校の生徒のようだった。後ろ姿しか見えないが彼女の歩いている姿は僕の同級生よりもなんだか大人びて見えた。僕は自然と彼女の少し見えるうなじに目がいった。僕はそんな自分を戒めてすぐに目をそらした。それでもなんだか僕はその後ろ姿をまた目で追ってしまっていた。そして、僕はあることに気付いた。


 彼女は傘をさしていなかった。


 あまりにも景色になじんでいて気付くのが遅れてしまったが、よく見ると傘をさしていないのだ。だから髪もかばんも長袖のカッターシャツも濡れてしまっている。それでも、彼女の歩き姿は凛としていて、まるで雨なんて最初から降っていないような、いや、むしろ降っているのが当たり前のように見えた。


 僕はそんな奇妙な彼女を小走りで抜かしていくのを少しためらったが、遅刻するわけにはいかないので、少しスピードを上げて早急に彼女を追い抜くことにした。


 その時だった。

 僕の視界から、彼女のうなじが一瞬にして姿を消したのは。

 彼女は僕の目の前で、マンホールで足を滑らせて、盛大に転んだ。





 さすがにこればかりは無視することはできず、僕はとっさに彼女に声をかけた。


「大丈夫ですか?」

「え、ああ。ごめんね。よくあることなの。気にしないで」

 彼女はしりもちをついているとは思えないくらい、クールな口調でそう答えた。


 気にしないでと言われても、雨の中びしょ濡れで転んでいる女性を小走りでさっそうと追い抜いて走り去るのはさすがに心が痛む。どうしようか考えて、僕は少し先に小さなトンネルがあることを思い出した。


「とりあえず、トンネルまで行きましょう。歩けますか?」

「うん。たぶん」

 彼女の声は鈴のように澄んでいた。






 僕たちは少し歩いてトンネルの下までたどり着いた。その間、傘を貸そうかと思ったが彼女はすたすた先に歩いて行ってしまったので、タイミングが難しくなってあきらめた。トンネルの中は薄暗くて、しとしと降る雨の音が響いている。その朝とも夜ともわからなくなるような空間に、僕は24時間の外にある不思議な時間に迷い込んだような錯覚に陥った。


「とりあえず、拭いた方がいいですよ」


 もう僕は自分が適切な行動をしているのか自信がなかったが、声をかけてしまったからには目の前の彼女のことをきちんと処理することを優先した。僕はカバンの中から一応持ってきておいてタオルを取り出して彼女に差しだした。差し出した後で、それがやけに派手な柄をしていることに気付いて、僕は少し後悔したが、彼女はそんなことは気にせず黙々と髪やかばんを拭いていた。僕はそのすきにちらっとスマホで今の時間を確認した。やはり不思議な時間など存在せず刻一刻と時間は過ぎているようだった。


「遅刻、しそうなの?」


 いや、あなたもですよ。

 その発言はあまりにも超越的に聞こえて、僕は戸惑った。なぜ彼女がこんなにも冷静というか、冷めているのか僕にはよくわからなかった。


「遅刻、したくない?」

「どちらかといえば、したくないですね」


 僕はあきらめて、彼女の調子に合わせることにした。彼女の澄んだ声を聴いているとなんだか僕も冷めてしまった。


「なら、ついてきて」


 そういうと、彼女は突然僕の手を取った。僕は人に触れられることに昔から苦手意識があったが、あまりにも唐突で避けることができなかったし、むしろ彼女の手指はひんやりとしていて心地よいとすら思えた。それは不思議なことだった。


 彼女は小走りで僕を引っ張っていって、僕は一度閉じた傘を開くこともできずに彼女の後ろをついていった。まずトンネルを抜けると、彼女はすぐに横に曲がって、ほとんど森の中を進んでいった。僕はこんなところに道があるなんて、この半年間全く気付かなかった。はじめはまだ道とまだいえる様子だったが、次第に人の香りが感じられなくなり、木をくぐったり、草をかき分けたりしながら僕らは進んでいった。木陰だから雨は先ほどより当たらなかったが、植物の露が僕の体を濡らした。とても第二次性徴を終えた人間が通っていいような道ではないように思えた。彼女に置いて行かれないように必死に少し湿った地面を踏みしめて進んでいると、今度は時間どころか場所すらも日常とはかけ離れた別世界のもののように感じられた。そして、僕が完全に距離間隔を失ったときに、また狭い隙間を抜けると彼女は突然立ち止まった。抜けた後で、それは草木の隙間ではなくガードレールの少し途切れた間であることに気付いた。そして、その場所はよく見知った学校近くの通学路だった。僕は何が起こったのか頭が追い付かず呆然としていた。


「これで間に合うよ」


 まだ少しぼーっとしていると、彼女が僕の顔を覗き込んできた。


「急いだほうがいいんじゃない?」


 僕ははっとしてスマホの画面を見た。ギリギリ本気で走れば間に合う時間だった。僕は厳密には何を言えばわからなかったがとりあえず、ありがとう、とだけ伝えて、雨の中を傘もささずに走り出した。


 体を動かしたことで血が巡り温まった体には、この弱い雨はとても心地よくて、彼女が始め傘をさしていなかったこともほんの少しだけ理解できそうだった。






 僕はなんとか遅刻せずに済んだ。もう少しで遅刻を摘発しよう待機している生活指導の先生に心配されながら、僕は校舎の中に入った。そのとき、僕はタオルを返してもらっていないことに気付いたが、今更引き返すのも面倒だったのでタオルのことはあきらめることにした。あのタオルも彼女に使われていたほうが幸せだろう、と思った。


 僕が少し濡れた状態で教室に入ろうとすると、たまたま待鳥さんとドアの前でばったりと会ってやけに心配された。僕は大丈夫、とだけ伝えて自分の席に向かった。窓際の自分の席に座ると、僕はやっと正常な世界に復帰できた気分になった。

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