第2話 私と友達になってくれませんか?

 僕は学校からの帰り道、買い物するために家の近所のスーパーに寄った。そして、スーパーの入り口近くに貼ってあった「大特価」とでかでかと書かれたチラシの黄色く縁どられた真っ赤な数字をなんとなく目で追っていた。98、68、78、59、どの商品も僕のテストの大特価ぶりにはかなわないようだった。

 入学してすぐのテストを受けた段階で、嫌な予感はしていた。何も僕の頭が急激に悪くなったわけではない。ただ、レベルの高い集団に入れられてしまって、まだ僕もそれに対応できていないのだ。必死に現状を正確にとらえているつもりだったが、そこから点数が伸びるような兆しはなく、何ならますます事態は悪化していっていた。勉強は唯一、僕の人生で周りからも認められたことだった。それが順調さを欠いた今、僕の存在は宙ぶらりんに浮いて揺らいでいた。見えた気がした満たされた人生も、無限に距離があるように今は感じる。そんな悩みが勉強の邪魔をする。悪循環に僕は陥っているのだった。

 センチメンタルな気分に、スーパーの売り場の愉快なBGMが合わさって軽いノイローゼになりそうだったので、僕は早めに買い物を済ませることにした。


 買い物といっても、たいして料理もしないので買うものはいつも決まっている。僕はいつもと同じルートをたどりながら、冷凍食品やインスタントラーメン、安いペットボトル入りのコーヒー、シリアルなんかを買い物かごに入れていった。僕は正直あまり食に関心がないので、買い物で重視しているのは「安さ」だ。「安さ」といっても僕は2種類あると思っている。一つは同じ商品の値段を比較してより安いほうを「安い」とする方で、もう一つは商品の値段に対して自分の価値観と照らし合わせて「安い」とする方だ。僕は後者の方を重視している。正直、いろいろな店を回るのは面倒くさいし僕が味や利便性に対して安いな、と感じたものを買ってそれで生活で困らないのであれば満足だった。もともと金遣いが荒い方ではないのだ。むしろ、あんまりにお小遣いを使わなさ過ぎて心配されたくらいだった。


 そこそこ重たくなったカバンを背負いながら、スーパーを出て僕が住むアパートまでしばらく歩いていた。秋の夕方とはいえまだ暑さは残っていて、歩いているとジワリと汗をかいているの感じた。踏切を渡ったところで、これから塾に行くであろう小学生くらいの男の子とすれ違った。塾のロゴらしきものがついたバッグは教材でパンパンに膨れ上がっていて、それを背負う男の子は重みに耐えるためにひどく前のめりになっていた。その姿は遠目でみると何かのクリーチャーみたいに見えた。あの幼い少年はクリーチャーになってでも勉強をしに行っているのだと思うと、なんだか自分が情けなくなった。勉強というのはそれだけ価値のあるものなのだ。中学生の時の成功体験がそう思わせる。僕には人より秀でているところなんて一つもなかった。そんな僕が社会で成功するには勉強するしか道はないのだ。現状を考えると、僕も人の形を保てるギリギリまで勉強をするべきなのだ。


 考えをいろいろと巡らせているうちに僕は僕の住むアパートにたどり着いていた。階段をのぼりに2階の部屋の鍵を開け、電気をつけて、買ってきたものを然るべき場所に収納して、洗濯物を中に取り込んだ。洗濯物をたたんだ後、シャワーを浴びてから机に向かって勉強を始めた。勉強時間は去年から変わってはいなかった。変わったのは結果だけだ。そのほかの生活が多少変わっても、中学生の時に始めた勉強の習慣は今でもしっかり継続できていた。何より僕は生活のリズムを崩すのが苦手でもある。少しずつ強固に形成されたこの生活のリズムが狂うことはよっぽどのことがない限りなかった。そのことは逆に言えば、僕の生活にはこれ以上余白がないということでもあった。時間は有限で、前に進み続ける。当たり前のことだが、今はその当たり前の法則すら恨めしい。塾に通うことも考えたが経済的に難しい。こんなことを考えていも僕の成績は変わらない。代わりに不安だけが積もっていくのだった。




 結局、僕はいつものルーティンを一切崩すことなく、23時前には布団に潜り込んで眠ろうとしていた。ただ、最近うまく眠れない。日中からずっと続く頭痛が僕の入眠を妨げていた。僕はどうやら悩みが体調に直結するタイプらしかった。


 もう寝ようと思って目をつぶると、頭上のエアコンがカタカタ小さく音を立てているのが耳に入った。不規則的とも規則的とも言えないようなそんな不快な音だった。とはいえよく聞かなければ気付かないような些細な音だが、気になり始めると止まらない。だが、エアコンを切るわけにもいかない。もう九月だが夜はまだすこしむしむししていて、エアコンをつけなければ満足に眠ることができなかった。しびれを切らした僕は布団からすばやく起き上がり、椅子を持ってきてその上に乗り、エアコンをぱしっと一発平手ではたいた。エアコンをたたいた音はその値段の割には案外安っぽいものだった。それと同時にカタカタなっていた音もしなくなっていた。僕は事態の深刻でないことを確認出来て安堵しながら布団にまた入った。その安心感はいくらか僕に眠気を運んできてくれたが、僕の悩みもこんな風に一発叩けば解決するくらい簡単ならいいのに、と考え始めると僕の眠りがまた遠ざかっていくのを感じた。











 翌朝、携帯のアラームが鳴ったので、僕はいつも通り簡単な計算問題を解いてそのアラームを止めた。スマホのアプリでなにか簡単なタスクをしないとアラームが止まらないようになっているのだ。偶然見つけたアプリだが、僕はまあまあ効果的な気がしていて気に入っていた。体を起こすと、布団をたたんで押し入れに押し込み、歯を磨いてシリアルに牛乳をかけただけの簡単な朝食を済ませて、僕は近くの公園に軽いランニングに向かった。一回りで数キロもある公園で、自然は豊かだし朝は人が少ないので僕は気に入っていた。勉強のリフレッシュとして始めたランニングだったが、今では走ること自体を楽しんでいるところがある。程よく体を動かすとやはり気分がいい。それに、走っているときは考えたくもないことを考えずに済む。単純にそれだけの酸素が脳にいきわたらないのかもしれない。

 スムーズに呼吸ができるくらいのペースで軽く公園を走っていると、少し前に同年代ぐらいのジャージ姿の女子二人が話しながら歩いているのが見えた。ゆっくり近づいている間に、なにも盗み聞きしようとしていたわけではないが会話の内容が耳に入ってきてしまった。どうやら恋愛相談のようだった。僕は勝手に聞いてしまうのも忍びないなと思い、少し歩幅を大きくして彼女たちの前から足早に去った。その後は何事もなく家までの道を穏やかに走った。










「上野ー」


 学校の授業が終わり、さっさと帰ろうとしていると突然クラスメイトの一人に声をかけられた。クラスメイトに名前を呼ばれるなんてなかなか珍しいことだ。明日は雪が降るかもしれない。


「なに?」


「国語係だよな?宿題、職員室まで提出だって」


 そういいながら、彼は親指で教卓の上を指した。教卓の上にはクラスの皆が積み上げたノートの山があった。いや、ノートの山というよりは、ノートのビザの斜塔、みたいな感じだ。


「提出しとく。教えてくれてありがとう。」

僕は少し表情を柔らかくしてそう言った。


 彼はおー、と小さく相槌を打って自分の机に戻っていった。実際、国語係の仕事などすっかり忘れていたものだから、わざわざ伝えてくれた彼には感謝しないといけない。国語のテストの成績は他に比べればましだが、それでも先生の心証を悪くするのは避けたかった。皆が塔の建設を終えるのを待った後、僕は自分のノートを一番上にのせて、さっさと職員室までもっていくことにした。











 国語係の仕事はそれほど時間がかかるものではなかった。職員室に入って国語の先生に声をかけたが反応がないので心配になったが、僕が無視されているとかではなく、単に年がいっていて耳が遠いだけのようだった。積み上げたノートを渡すと、「ありがとう!!」と山に向かって発しているのかと思うほど大きな声でお礼を言われた。耳が遠くなると、声も大きくなるのだろう。


 僕は少しコーヒーの香る職員室を出て教室に向かって歩いていた。荷物をもって職員室まで来ても良かったのだが、結局下駄箱に向かうには教室の近くを通る必要がある。少し歩くだけだが、教室に荷物を置いてくることにしたのだ。どこからか練習中のブラスバンドの音が聞こえる。外を走っている運動部の掛け声も。とてもきれいとは言えない年季の入った校舎もこうやってぼんやり歩いているとなんだかノスタルジックなものに思えてくる。まだ通い始めて間もないのでそれは勘違いに他ならないのだが。




 教室のドアを開けると、中にはクラスの女子が一人いてちらっと一瞬目があった。いつもはさっさと帰ってしまうので知らないが、もう少し教室には人が残っていてもいいような気がした。日中はやや窮屈にまで感じるこの教室も、たった二人きりだとずいぶん広く感じた。この空間に気まずさを感じた僕はすぐに窓際の席まで向かって荷物をとって去ることにした。


「上野君!!」


 席に着いたあたりで突然大きな声が静かな教室に響いた。今度は川の向こうに向かって呼びかけるみたいな大きさの声だった。一日に2回も名前を呼ばれるなんて、明日は毛虫でも降るんじゃないだろうか。

 今回の呼びかけは本当に唐突すぎて、僕は軽くトリップしてしまっていたが、すぐに気を取り直して僕は川の向こうに目を向けた。そこにいるのはもちろん一人残っていたクラスの女子だった。名前はきちんと憶えていないが、ポニーテールが印象的な子だった。ボリュームがあって結んだ先が習字の「点」のお手本みたいにいつもきれいに整っている。無言で見合う気まずい時間が流れる。逃げ出したいが、さすがにこのまま帰るわけにはいかないだろう。

 何か言葉を返したいが、何も思いつかない。コミュニケーションが取れるようになったとはいっても、やはり圧倒的に経験値が足りないのだ。

 というか、今の状況がわからない。あちらから声をかけてきたのだ。何か言いたいことがあるに違いない。二言目を聞いてから、何か気の利いたことを言えるよう心の準備をしておこう。よし、なんでもこい。


「私と友達になってくれませんか!?」


「…は?」

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