第4話 「蓮の花」という(人間的な一つの)生き方
サラリーマンから禅坊主になり、京都の僧堂で4年間(雲水修行)、鎌倉の禅寺で1年間(葬式坊主)、東京の寺で住職半年、雇われ葬式坊主半年、計6年間禅坊主を体験した私。
坊主を辞めてから、僧堂の老師にご挨拶に伺いました。
その席で、つい在家気分で「いやー、禅坊主というのは俗っぽい人間ばっかりなんですね。」と口を滑らしたところ、老師に「ばかもん !」と大きな声で怒鳴られました。私は心中「しまった!」と思ったのですが、なんと、次に老師はこんなことを仰ったのです。
「お前は在家出身じゃから知らんのや。禅宗坊主ほど、ウジウジ・ネチネチした人間はおらんのじゃ。」と。そして、手元の茶碗をゆっくりと手に取り一服されました。
これが「泥の中に咲く蓮の花」というものか、と帰り道、しみじみと思いました。つまり、そんな人間臭い禅坊主(葬式坊主)ばかりの世界で、一人、孤高の純粋性を追求するという、これは一つの生き方なのだな、と。
「人と煙草のよしあしは煙となりて後にこそ知れ」
大徳寺僧堂の老師(30年前)の真剣味とは、日本全国10数カ所に散在する僧堂の中でも格別であったと思います。私は妙心寺の○○国師750年遠忌という大行事に、日本全国から参集した百数十人の雲水と共に参加し、各地の老師に参禅(禅問答)させて戴きましたが、かの老師ほど気合いの入った老師は見ませんでした。
人間、真剣味由来の存在感しか、その人間を(神の目線で)測る尺度がないとすれば、大学時代の在日韓国人OBと老師という、超がつくくらい真剣味のある人こそが、近頃出会ったイスラム教徒と同じく「神に近い存在感」であった、といえるでしょう。
もちろん、朝から晩までとか、年中無休で真剣ということはありえないし、またどんなに真剣な人間として生きた時期があったとしても、人生を精算した時(死んだ時)に、それを知ることになるのでしょうが。
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ただ、残念なことに、禅宗に限らず仏教諸宗派の教えなるものは、その尊崇する釈迦が人間ですから、すべて人間だけの世界。「蓮の花的」かの老師でさえ、やはり「人間」という枠から出ることはできない(し、それはそれでいいのです)。「西遊記」の孫悟空と同じで、お釈迦様の世界(手のひら)から出ることはないのです。
つまり、釈迦の手のひらの外には(神の住む?)無限の世界があるにもかかわらず、仏教徒とは釈迦の考え出した世界の中だけで生きてやがて死ぬしかない。「西遊記」のかの章では、それを指摘しているのです。
(私が「西遊記」を、面白おかしい子供の童話や冒険小説でなく、純文学書(哲学書)として読み直すことができたのは、20年前に岩波文庫の「西遊記」小野忍訳1~3巻を読んでからです。小野忍氏は急死されたので3巻まで。しかも、この名翻訳者の版は絶版になっています。)
因みに、芥川龍之介くらいになると、翻訳の質などお構いなしに自分自身の知性で「西遊記」の本質をつかんでしまうらしい。
芥川龍之介「愛読書の印象」から抜粋
<引用開始>
「・・・静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになってゐる。
但、静かなと言ってもたゞ静かだけで、力のないものには余り興味がない。
スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。これ等は今日でも僕の愛読書である。比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。名高いバンヤンの「天路歴程」なども到底この「西遊記」の敵ではない。
それから「水滸伝」も愛読書の一つである。これも今以て愛読してゐる。一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
<引用終わり>
2024年10月26日
V.3.1
2024年10月27日
V.3.2
平栗雅人
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 V.3.2 @MasatoHiraguri
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