第3話 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 (芭蕉)

「死後のことなど誰にもわからない」のですから、あくまでも、今まだ生きている間の「思考ゲーム」というか「心の中での楽しみ・遊び」かもしれませんが、こういう思考でこれから残された短い時間を生きていくというのも、また新たなる楽しみとなります。

会った回数や一緒にいた時間ではなく、その人の持つ存在感というもので自分の人生を思い返してみたり、これから会う人間に関しても、ひとり心中で値踏みしてみたり。

チリ人の女の子など、車中3時間程度でしたが、また、いまやその顔も忘れてしまいましたが、彼女の存在感とは、10数年連れ添った妻以上かもしれません。なぜなら、妻とは「もう二度と会わない」という(一般的な)離婚であったのに対し、彼女とは来世で必ず会おうと、一瞬のハグとはいえ、互いに固く約束したのですから。


<心だけの思い出>


  あの時、写真なんてものをお互いに撮らなかったのが良かったのかもしれません。

  目に見えるものがあると、どうしても後でそればかり見て、心というか形而上的な存在を見ようとしない。私にとって彼女の思い出とは、その姿形(器)ではなく、彼女の個性・感性・理性といった、目に見えないけれどもハッキリと私の心の中に思い出として残る、強烈な「存在感(道)」なのです。


形而上 : ①[易経「形而上なる者は之を道と謂い、形而下なる者は之を器と謂う」  形式を離れたもの。抽象的なもの。無形。

②〔哲〕(the metaphysical)(井上哲次郎の訳語)時間・空間の中に形をもつ感覚的現象ではなく、超経験的で理性的思惟によってのみ認識されるような概念・対象・存在などのあり方。⇔形而下。

  広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店


  開国、維新(1867)によって、多くの外国人が日本へ来るようになると、日本の景色や日本人の文化に強く惹かれ、彼らは日本で写真を撮りまくっていたのですが、多くの日本人が、現像された自分の写真を見て「写真を撮られると魂を盗られる」と嫌がったそうです。

  しかし、この話を笑えるのか。

  おそらく、当時、世界中の「後進国の原住民」でそんなことを言ったのは日本人だけであったでしょう。在来種純粋日本人は、その混じり気の無い、濃い血由来の強い感性によって、「写真というものの危険性」を認識したのです。


  自分以外の人間に自分の感動や思いを伝えるために、写真や動画(そして文章)は必要ですが、自分自身のうちにその景色や思いをしっかりと蓄積(記憶)するには、自分の中で何度も何百回も思い出し、心のアルバム、・心のアーカイブ(保管所)に記録するしかない。写真や動画に頼ると、自分の心の中の記憶が薄れ、写真や動画という外部の記憶媒体に頼るようになる。昔の日本人はそれを危惧したのでしょう。

  アメリカン・インディアンの叙事詩「一万年の旅路」ポーラ・アンダーウッド著は、一万年(以上)昔からの自分たちの歴史を口承で伝えてきた、長い長い心の組紐です。人間の魂で記憶をつなげてきたからこそ、1万年もの間、薄れることなく存在しているのではないか。


叙事詩 :(epic)本来は劇詩・抒情詩と共に、詩の三大部門の一つ。多くは民族その他の社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡を叙述する韻文の作品。


  かのチリ人との(形而上なる)思い出は、7 年という時間と、折に触れて何度も(写真や動画でなく)心で思い出すことによって、今やしっかりと私の心に焼き付けられ、確実にあの世へ持っていける思い出の一つになったのではないかと思っています。


  閑話休題。

  つまり、互いのポリシー・信念・境涯(精神的境地)が一致した人間というのは、それほど印象深いということなのです。で、そういう自分の心の中で存在感の強い人の数だけ、それがいわゆる「功徳」となって「次の自分」の存在を保証してくれるような気がするのです。

まあ、こんな話を20代の私が聞いたなら「ばっかじゃないの」と笑ったでしょう。つまり、こんな話を真面目にする今の私とは、間違いなく幽冥界に近づいている、ということであり、「親分、ヤキが回っちまったんじゃねえんですかい。」なんていう、映画のセリフそのものを、いま体験して(楽しんで)いるということなのです。

昔読んだ漫画ですが。

中学生くらいの女の子が、ある日、キャッチボールをしていた人から飛んできたボールが目に当たってしまった。そしてそれ以来、人の頭に灯のついたローソクが見えるようになり、そのローソクの長さでその人の寿命がわかる、という話です。

まあ、人の寿命なんてわかりませんが、存在感の強さを感じることは誰でもできることで、別に特殊な能力ではない。

たとえば、上野は西洋美術館前の「カレーの市民」というロダン(1840~1917)の彫刻を見れば、そこに表現された「選ばれた市民たちの苦悩」を通し、時空を越えた彼らの存在感を強く実感できるでしょう。

蝉は、来世も蝉で生まれることに命をかけて一生懸命鳴き続ける。

(やがて死ぬことを知らない蝉ばかりではないだろう)

私は、来世も人間、どころか「この私」として生まれることを庶幾し、今日もまた(つまらないことですが)一生懸命(本を書いて)鳴き続けている。

この本を掲載しているNoteという小説投稿サイトによると、この本で64週連続投稿なのだそうです。つまり、1年以上鳴き続けているわけですが、どうなることやら。

2024年10月24日

V.1.1

2024年10月25日

V.2.1

平栗雅人


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