2-2
*****
スペンツァーの執務室に足を踏み入れたリリーは、あまりの
足の踏み場がなく、廊下から続いているはずの大理石の床は見えない。
書類や書物は床に散乱し、
元は来客用にと用意されたであろうローテーブルやソファーもすでに物置と化していた。
ローテーブルにはやりかけのチェスやトランプ。何年も前の決議書が放置されている。
ソファーも同様で、
開いた窓から陽光に照らされた
書類や書物が雑に積まれ、机に置くことが
スペンツァーが執務を行っていないのは明白だ。しかし
「まったく。こんな所で
呆れながら机の上に目をやり、リリーは絶句した。
「
机の上には幼児向けの
「十八にもなってまだ一人遊びを……? 国王陛下が
もしリリーが
その時
「これが
不敬罪にもなりかねない言葉を
半分ほど目を通した
「ラングレー領付近の
次々と出てきたのはラングレー領に関する
冬になると人の高さまで雪が降り積もるラングレー領は決して豊かな土地ではない。
作物が育たぬ土地ゆえに、家の中でできる仕事が主で金属の加工や装飾品の加工、刺繍などが税収を支えている。だが
「まったく……」
さっと目を通した可決済みの書類に思わず笑ってしまう。
王都への通行税および王都通行時の検問
一見ラングレー領に関係のあるものばかりだが、リリーは違和感を覚えた。
「採掘は問題ないとして、色々免除されているのはどういうことかしら? 免除しなければならないほど
先刻会ったミアは困窮している人間の顔ではなかった。
有名な針子のドレスにいたっては、オーダーで作るとなると金貨百枚はくだらない。
「
机の上を確認し終わり、リリーは引き出しに手を伸ばす。
一つ一つ開けていくが、引き出しの中には何一つ書類が入っていなかった。
散らかりきった部屋と空っぽの引き出しのアンバランスさに、リリーは首を
「……こういう物には
開けた引き出しの底を一つずつ叩けば、一番下の引き出しの音が明らかに違った。底の端を押せば、簡単に底が開く。
隠された底には、
「不用心ねぇ。二重底に隠すって
呆れながらも、リリーは引き出しから書類と手紙を全て取り出す。
その際に指先に硬い物が当たった気がしたリリーは、それを拾い上げた。
「なぜ旧モント
手に取ったそれは、
「旧硬貨は全部回収したってジークが言っていたのに……。まさか…… !? 」
嫌な予感に息を
「――っ!?」
開けっ放しの窓からナイフを振り上げた赤い侍女服のアメリアが
見覚えのあるナイフを持つ彼女に、リリーは一瞬反応が遅れた。
(焼け落ちるカジノで私達を襲ったのは……)
リリーの視界で真っ赤なスカートが揺れる。それは
積み上げられた書物をなぎ倒してしまい、頭を庇った
今、この時、一秒の
「
感情の読めない灰色の瞳がリリーを見つめる。
「ここが
「……関係ありません。私が
「今まで襲ってこなかったのにどうして今なの? ……なんて聞く気はないわ。当ててあげましょうか? 二重底に気がついたから、でしょう?」
リリーの言葉を合図に、アメリアが飛びかかってくる。
ただ
「あらあら。図星かしら? それと、あまり見くびらないでほしいわね!」
刀身の短いナイフは小回りが
(ナイフを落とさないどころか表情すら変わらないなんて、流石は暗殺者ね)
アメリアは眉一つ動かさず、侍女服の中から新しい
その際にどこかへ忍ばせたのだろう。彼女の手にはすでにナイフは
アメリアが一振りすれば
(小回りの利くナイフを捨ててリーチのある長剣に変えた。絶対に逃がさないつもりね)
ナイフであれば余裕のあった間合いが覆された。数歩詰めれば間合いに入ってしまう。
リリーはさらに距離を取るため
「っ!」
「なっ!?」
「私に防がれたのがそんなに意外?」
勝ち
「
「
力をかけられ、燭台がみしっと嫌な音を立てる。蝋燭が刺さったままの燭台は武器にするには
重心をずらし、アメリアの体勢が
横
「私を殺せって命令したのは殿下かしら?」
「知ったところで、ここで死ぬのですから意味がありませんよ」
「そうとも限らないわよ?」
強気に笑ったリリーは、一度離れた間合いを一足飛びに詰める。勢いをそのままに突きを繰り出すが、簡単に避けられてしまう。
トリッキーなリリーの
(もう少しで武器が使えなくなると思ってから、太刀筋が単調になってきたわね。そうよ、もっと
時間がかかればかかるほどリリーにとって都合がいい。
数度
好機とばかりに足下から長剣が迫る。リリーはすんでのところでのけぞって避けるが、ミルキーホワイトの髪がはらりと散った。気にもとめず、そのままバク宙で距離を取る。
「もうおしまい?」
余裕の表情を作り、リリーは笑う。ハッタリも、
「ちょこまかとっ……!! 逃げ回っているだけのくせに」
「敬語が外れているわよ。気をつけなさい」
わざとアメリアを
長剣を受け止めたリリーは初めて鍔迫り合いに応じた。力加減を調整し
素早く足下を確認し、均衡を崩すようにリリーは
一度も押し返されなかったアメリアは油断していたのかほんの少しだけよろめく。
(今!!)
燭台に刃を滑らせ、鍔迫り合いから抜け出した。長剣が顔の横を掠める。
目を見開いたアメリアに、リリーは燭台を突き出した。
アメリアに触れる寸前。長剣の
勝ち誇った顔で笑ったアメリアが一歩踏み出す。
「残念でし――っ!?」
転がる蝋燭に足を取られたアメリアはバランスを崩し、目に見えた隙を
長剣を
「観念なさい」
「っ、誰が!」
アメリアは最後の
(私を二度も死に追いやったのは、あなただったのね。アメリア)
王国に来た時から、ずっと
気の置けない仲だとリリーは勝手に思っていた。スペンツァーが見つけてきた侍女だと知ってもその気持ちは変わらなかった。行動がスペンツァーに
(なのに今、私はとっても
しかしリリーが長年受けてきた淑女としての教育が直情的な行動を止めていた。
(私を裏切ったことは、この際どうでもいいわ。だけど無関係のジークを巻き込んで、あまつさえ殺したこと、
抵抗のないアメリアへと視線を落とせば、彼女はじっとリリーを見つめていた。
出会った頃から何一つ変わらない彼女の表情に、逆立っていた感情が少し落ち着く。
(アメリアは、まだ私もジークも殺していない。私の怒りを今のアメリアに向けるのは、違う気がするわ。そうよ。今のアメリアの罪は私を襲おうとしたことだけ)
小さく息を吐けば、ぐちゃぐちゃにかき乱された心に
「あなたには二つの
「……は? 正気ですか? わたしはリリアンナ様を殺そうとしたんですよ?」
「私が
アメリアの瞳が
「どうしてそこまで……」
「……きっと
「お
「さっきも言われたわ」
目を泳がせるアメリアに、とっておきの言葉をかける。
「お給金は今の倍出すわよ。決して悪い条件ではないと思うのだけれど?」
「! 分かりました。スペンツァー殿下のことは忘れ、リリアンナ様に忠誠を誓います」
食い気味に頷いたアメリアに、リリーは
「決まりね」
アメリアに突きつけていた燭台を下ろす。念のため弾き飛ばした長剣を拾い、見よう見まねで
立ち上がったアメリアに、もう
「前金としてこのネックレスと指輪を渡すわ」
身に着けていた装飾品を外してアメリアに渡せば、彼女はにんまりと笑った。
「これほどの品ならディア金貨五百枚はくだらないですね。約束通り、リリアンナ様に誠心誠意
「今後のお給金についてはまた話しましょう。いいかしら?」
「もちろんです」
リリーが部屋へ視線を戻せば、二人が暴れた
「私はもう少し探し物をするから、この部屋を元の状態に戻してちょうだい。あと誘拐事件被害者の会からの嘆願書があれば私に持ってきて」
「
二重底から取り出した書類は全てラングレー領に関する物だ。それだけでスペンツァーの
(ってことはこの手紙の山は、やっぱりラングレー令嬢との
手紙の山に手を伸ばし、束ねている紐を解く。
(あらあら? この
本来であれば手紙の
(差出人は……。やっぱり無記名だわ。中を確認したいところだけれど、他人の手紙を
手紙を見つめ、どうすべきかと頭を悩ませる。
リリーの愛用するレターセットは公国でのみ
(わざわざ取り寄せてまで同じ物を使うなんて……やましいことがありそうじゃない?)
封筒はすでに開けられているため、リリーが中身を見たとバレないだろう。
たったそれだけで、リリーは差出人が誰なのか理解した。
「……ソフィアお姉様」
公国の第一公女であり、リリーの姉であるソフィアが愛用している香水の
この香水は、母の名を
(特注品で使用者はソフィアお姉様だけだと
ソフィアとは母が
姉妹仲は良くないだろう。しかし、たった一度だけソフィアから手紙をもらったことがある。それはソフィアが王国に近い辺境の領主になったという内容だった。返事をしたが、文通が続くことはなかった。最初で最後の姉妹の手紙をリリーは今でも大切にとってある。
(どうしてソフィアお姉様と殿下が手紙のやり取りを? ラングレー令嬢ではなく?)
二つ折りに畳まれた便箋を広げる。
二枚にわたって
言の葉に乗せた愛が
一文字の
(まさかソフィアお姉様の恋文だったなんて。もしこの手紙が見つかっても、無記名なら私が出した物だと思うでしょうし……)
リリーの眉間に皺が寄る。
自身の愛用するレターセットが姉の
(用意
リリーにはスペンツァーの
「リリアンナ様」
「きゃあ!?」
真横で聞こえた声に、リリーの肩が大きく
声がした方を向けば、呆れた顔のアメリアが手に書類を持って
彼女の言いたいことは分かる。先ほどまで命のやり取りをしていたのだ。
もちろんリリーは手紙を読む前までは警戒をしていた。しかし、ソフィアの手紙は警戒を忘れるほどの衝撃だった。
「こちらを」
「これは……嘆願書!! お
差し出された書類を受け取るため、そっと手紙を元に戻す。リリーは
(
探していた嘆願書を受け取れば、その他の書類も重なっていた。
書類をめくり、目を通したリリーは言葉を失った。
有名な針子からの
脳裏に浮かぶのは、純白のドレスを着たミアだ。
(
アメリアが心底嫌そうな顔で大きなため息をついた。
「こんなにお金があるならもう少しお給金を上げてくれてもいいのに」
彼女らしい物言いに、リリーは思わず口元が緩む。
「そうね、たった一人にこんな大金を使うよりも……」
書面に書かれた金額を改めて確認し、目を
「ちょっと待って。こんな金額、殿下の私財でも
幼い頃から計画性のないスペンツァーに
直接スペンツァーに渡される予算は
「いったいどこから、こんな大金が……?」
小国であれば財政が傾いてしまうほどの金額を、スペンツァーはミアに
「あ、こちらも落ちていましたよ」
手渡されたのは一枚の旧モント金貨だ。リリーが金貨を受け取ると、アメリアはまた作業に戻っていく。
その様子を横目で見ながら、
足下から上ってくる寒気が背筋に張り付く。
そんなまさか、という感情と、納得する感情が交じり合い、胸中を渦巻いた。
(私財では賄えないドレスの金額に、贋金。それにジークのあの言葉……)
『旧モント硬貨は全て回収済みでな。国際社会では使えない。だというのに、まだ手元にある旧モント硬貨で取引したいと言っている国が一つあった』
ジークを疑っていたわけではないが、このような形で彼が正しいと理解することになるとは、リリーは想像もしていなかった。
(もし殿下が主犯なら全て説明がつく。あら? 贋金を使っているのはカジノも……)
思考が口から零れ落ちる。
「
一度目の生で告げられた罪は、全てをリリーに押しつけるためだったのかもしれない。
嫌われている自覚はあったが、まさか自らの罪を擦り付けるほどだったとは。
「そう。私ってそんなに都合のいい女だったってわけ。
怒りにも似た気持ちが心の一角に燃え上がる。
リリーは
「上等じゃない。絶対に思い通りになんてさせないんだから!」
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