1-3


 リリー達が案内されたのは、二階の一番奥にある部屋だ。

 寝台とサイドテーブルしかない殺風景な部屋だが、至る所にバラが飾られていた。

 バラを模した蝋燭が木の板で閉ざされた薄暗い部屋をほんのりと照らす。

 一階よりもさらに甘ったるいにおいが充満しており、リリーは思わず顔を歪めた。

 隣の部屋からは時折、獣のような声が聞こえる。部屋に来る前にも同じような声が漏れていたが、リリーは何をしているのかさっぱり理解できない。

 先ほどからジークは眉を寄せ、何をするわけでもなく壁に背を預けて立っている。

 リリーは寝台に腰掛け、こうの声を上げた。


「これ、どうしてくれるのよ」


 リリーはピンク色に染まった袖口を見せつけるが、ジークは動じない。


「二階に来たかったんだろ? 何が不満だ?」

「この服! ベトベトなんだけど! 結構気に入ってたのに、もう」


 得体の知れない物を一度でも口に含みたくなかったリリーは、酒を袖口に流し込むというあらわざを使い、なんとか乗り切った。薄暗い場所でしか使えない手法だが、効果は絶大だ。


「なんだ。そんなことか」

「お気に入りって言葉が聞こえなかったのかしら?」

「聞こえている。そうだな、これが解決したら服を贈ってやる。……嫌か?」

「へ? い、嫌とかそういう問題ではなくって……」

「ならどういう問題があるんだ?」


 ためすような視線に、リリーは呆れたようにねんを口にする。


「あなたも貴族なら婚約者の一人や二人いるでしょう? しっを買うのはごめんだわ」

「婚約者が何人もいてたまるか」

「ふふっ。今のはなおね」


 心底嫌そうなジークに、リリーは怒りも忘れ思わず笑ってしまった。


「機転のいたいい判断だったと思うぞ。飲んだら無事じゃいられなかっただろうしな。酒もこの匂いもある意味、人間にとって毒だ」

「毒……?」


 首を傾げたリリーにジークは頷いた。


「あぁ。理性をかしてしまうような物だ。使いすぎれば生きたしかばねと化す」

「……やけに詳しいわね」

「万が一のために少し毒には慣らされているからな」

ぶっそうな育ちね」

「ふっ。俺に興味がいたか?」

「全然」


 やれやれと肩をすくめたジークが話を戻す。


「つれないな。それで、アレを飲んでいたらどうなっていたか、分かるか?」

「今の流れで分かる要素なんてあった?」

「あっただろ。……あんた、さては箱入りだな?」

「? 箱入りでなくても分からないと思うわ」


 首を傾げるリリーをジークは信じられないという顔で見、さらにため息をつかれた。


「な、なによ」


 むっとジークを見れば、彼は何かを思いついたような目をしていた。

 嫌な予感にひくりと頰が引き攣る。

 ジークが近づいてきたかと思うと、リリーは瞬く間に寝台へと押し倒された。

 ミルキーホワイトの髪が散らばり、二人分の体重がかけられて寝台が軋む。

 両手をやわらかなとんい付けられ身動きが取れない。どれだけリリーが力を込めようと、彼の腕はびくともしなかった。


(え? なんで?)


 目の前に迫るジークの顔に、リリーは困惑しきった表情を浮かべる。

 状況についていけない頭に、背をなぞり上げるような色の声が降ってきた。


「リリー」


 自分の名前でなくなったかと錯覚しそうなほど甘い声に、リリーは全身がで上がる。


「顔真っ赤。可愛いな」

「な、なっ!」

「ここはこういう場なんだよ」

「へ?」


 つやのある声とは裏腹に、アイスブルーの瞳は冷め切っている。


「さっきのアレは自分の意識関係なくまぐわいたくなる類いの物だ。この甘ったるい香りも同じような効果があるだろうな」

「そ、そんなわいな……!! 言い方ってものがあるでしょ!」

「あ? これでもオブラートに包んだ方だろ。これ以上どう言えと? おしべとめしべがくっつく所か? 箱入りにも限度があるだろ」

「だ、だからって、こ、こんなはしたない体勢になる必要……」


 小さくなっていくリリーの声に、ジークは呆れた顔で肩をすくめる。


「はいはい。わかったわかった」

「何がわかったのよ!」


 しゅうを紛らわすように大きな声を出すが、ジークはひょうひょうとしている。

 かと思えば、優しく抱き起こされるのだから、リリーはますます混乱してしまう。


(この人が何を考えているのか、全く分からないわ)


 じとりと彼を見ていれば、ジークが横に座り肩をすくめた。


「あんたは見た目によらずごうじょうだな。というか、めんえきがないってレベルじゃないぞ。婚約者とそういう雰囲気になるだろ、つう

「ならないわよ!」

「は? あんた、自分の顔見たことないのか?」

「それ、馬鹿にしているの? けんなら買うわよ」

「買わなくていい。なんでこんなに可愛い婚約者を持っていながら手を出さないんだ?」


 真剣に考えているのか、ジークの口は止まらない。


けか、ぼくねんじん……へたれか?」

「ちょ、ちょっと待って。私にりょくがないのは自分がよぉく分かっているわ」

「は?」

「婚約者とついのドレスも、装飾品だって贈られたことないもの。私なんかが着飾ったところで無駄だってことでしょ?」


 白昼堂々行われていたスペンツァーの浮気も、元を辿ればリリーに魅力がないからだ。


「あんたの婚約者、見る目ねぇな」


 ジークの指がリリーの頰をなぞる。


「こんなに可愛いのに」


 そう言ったジークは、すくい上げたミルキーホワイトの髪に口づけた。

 今まで体験したことのないようなスキンシップのあらしに、リリーはそっとう寸前だ。


「少なくとも俺の知る限り、機転が利いて度胸もある女はいない。だから誇れ。あんたは十分魅力的な女だ」

「っ」

「努力のたまものだろうな。仕草一つとっても品の良い動きだ。どうすれば相手にそう見られるか、体にたたき込んできたんだろう? その姿勢、素直に尊敬する」


 ジークの言葉が、すとんと心に落ちる。

 魅力がない。努力が足りない。そう言われ続けたリリーにとって、初めての評価だった。

 彼の言葉には、積み上げられたじゅを溶かすだけの力があった。れきの中にまってしまった心にうるおいをもたらし、傷つかないよう閉ざした心に染み渡る。

 リリーは初めての正当な評価に救われた気がした。


「あれ、なんで……」


 嬉しいはずなのに、視界が歪む。ポタポタと手のこうらす涙に一番驚いたのはリリー自身だ。意識とは別に溢れる涙を押しとどめるため袖口で拭おうとするが、よごれた袖口では拭うこともままならない。

 もちろん驚いたのはリリーだけではなかった。

 ジークも予想外だったようで、困惑した顔をしている。


「どうして泣くんだ……?」

「ごめっ、なんか止まらなっ」

「あー。俺は何も見てないから安心しろ」


 ぐいっと引き寄せられ、ジークの肩に顔を押しつけられた。

 幼子にするようにぽんぽんと背中を優しく叩かれ、さらに涙が溢れる。

 えつが漏れないようジークの肩へ顔を押しつければ、ぎこちなく頭を撫でられた。

「これは独り言なんだが」


 長い指が優しくリリーの髪をく。


「良い女っていうのは、失った時初めて気づくんだよ」

「なによ、それ」

「ただの独り言だ。あぁ、独り言ついでにもう一つ。俺の目的は、帝国にはびこるにせがねの出所を突き止めることだ」


 とうてい信じられない言葉がジークの口から飛び出した。

 涙に濡れた顔を隠すのも忘れ、ジークを見る。彼の表情にからかいの色はいっさいない


「どういうこと……? 贋金?」

「両替された金とこれを比べてみれば分かる」

「さっきのモント銀貨……?」


 財布から銀貨を取り出せば、ジークから同じ鷹紋様のモント銀貨を手渡される。

 げんな顔をしながらも、両方を比べる。

 ジークから渡された物も、両替をした物も、大きさや側面のギザは変わらない。


(重さが、違うような……)


 僅かに両替した旧モント硬貨の方が軽く感じる。そして、リリーは決定的な違いを見つけてしまった。

 鷹紋様が異なっているのだ。

 両替された方はかぎ爪が三本あり、ジークから渡された物にはかぎ爪が二本しかない。

 こうみょうに作られたそれは、よく見ることがなければ気がつかないだろう。


「気づいたな」

「これ、って」

「あぁ。間違いなく贋金だ。帝国内で出回った物と同じ、な」


 がんがんと頭をづちで何度もなぐられるような痛みがリリーを襲う。

 涙を流したせいで頭が痛いのか、ジークの言葉に頭が痛くなったのか、分からなかった。


「いきなり龍紋様に変わったのは……」

「ふっ。そうだ。これを使えなくするためにやった。それに旧モント硬貨は全て回収済みでな。国際社会では使えない。だというのに、まだ手元にある旧モント硬貨で取引したいと言っている国が一つあった」

「ま、さか」

「そのまさかだ。会員制の違法カジノ。ここで使われているのはどこから湧いて出たのか分からない贋金。ディアマント王国はよほど我が国をろうしているとみた」


 嘲笑を浮かべるジークの瞳は背筋がこおり付きそうなほど冷たい。先ほどまでリリーを慰めていた優しさは感じられず、その変わり身の早さは同一人物か疑いたくなるほどだ。


「そ、そんな、外交問題どころの話じゃないわ。国際条約に反する大事件よ」


 狼狽するリリーを見たジークは、り詰めた空気を変えるようにかろやかに笑った。


「あんたは関係なさそうで安心した」

「……私を疑っていたの?」

「あぁ。だがわくは晴れた。リュビアン公国第四公女リリアンナ・フォン・リュビアン」


 隠していたはずの身分を言い当てられ、リリーは咄嗟に反応できなかった。

 息を吞んだリリーに、ジークは言葉を続ける。


「調査の結果、誘拐事件の件数と贋金の流入数が比例しているとわかった」

「それって……」

「十中八九、関係があるだろうな。疑ってくださいと言っているようなものだ」

「その話、私にしてよかったの?」


 国家を揺るがす可能性が高い事件だ。他国の姫に話していい情報ではない。


「ん? 別に構わないさ。あんたは俺の味方になるだろ?」

「簡単に言うわね」

「俺の判断に間違いはない。知ってしまえば、あんたは見過ごせないはずだ。知らぬ存ぜぬではいられない。違うか?」


 この短時間でリリーの性質をかんぺきかされていた。

 黙り込んだリリーの頭をわしわしと撫でながら、ジークが笑う。


「無言はこうていだな。さてと、あんたもそろそろ落ち着いたよな? 手伝え」

「……仕方ないわね。いいわ。あなたと手を組んであげる」

「ふっ。じゃあこんな所、早く出るか」

「えぇ。ねぇ、少しくさいような……。まさか!」


 立ち上がったリリーは足早で扉へと近づき、ドアノブに手をかけ――


「っ、熱っ!?」


 手のひらが焼き付く感触。あり得ない痛みに手を引っ込めたリリーはドアノブを睨んだ。

 いつの間にかリリーの後ろに立っていたジークから、心配そうな声が聞こえた。


「おい、だいじょうか」

「えぇ。問題ないわ。それよりも」

「あぁ。甘ったるい匂いのせいでここまで気がつかなかった。ちょっと下がってろ」


 一歩リリーが下がったことを確認したジークは、扉に向かって勢いよく回しりを食らわせた。バキッ! と盛大な音を立ててかいされた扉の隙間を縫ってこくえんが入り込む。

 素早く部屋を出たジークがろういちべつし、盛大に舌打ちをした。


「やはり火事か。窓を突きやぶるより、階段を降りた方が速い。行くぞ!」


 ジークの破壊力に目を丸くしていたリリーだったが、手を摑まれた痛みにうめいた。


「! 悪い」

「大丈夫よ。行きましょう」


 廊下に出た途端、視界に飛び込んでくる赤が本能的な恐怖を駆り立てる。


(どうしていきなり火事が起きたの!?)


 疑問を抱きながらもまだ火の手がない方へと駆けた。背後でうなりを立てる真っ赤な火と

黒煙が、しょうそう感を煽る。

 リリーはポケットからハンカチを取り出し、口を覆った。けむりを吸うのは命を焼く行為だ。

 ジークもアイスブルーのハンカチで口元を覆っていて少し安堵する。アイスブルーのハンカチから龍紋様のしゅうが見えた気がしたが、今はそれにげんきゅうする暇はない。

 二人は全てを燃やしくさんと迫る火の帯から全速力で逃げる。

 ぐるりと一周できる行き止まりがない回遊動線のおかげで、階段へは辿り着けそうだ。


(ただの火事にしては火の周りが早すぎるわ。それに……)


 隣を走るジークと目が合う。


ぐうぜんじゃないな」

「そうね。これはきっと仕組まれた火災だわ」

「贋金を嗅ぎつけたと勘付かれたか、あんたが狙われているか、どっちだろうな?」


 夢での出来事を思い出す。あれは確かに仕組まれたものだった。しかし、この火災とリリーのしゅうげきが関係あると言い切るには証拠が足りない。


「なんでそこで私が出てくるのよ」

「身に覚え、あるんだろ?」

「……ないわよ」


 軽口を叩きながらも、足は確実に階段へと向かう。


「はっ。どうだか。俺はこんな所で死ぬわけにはいかない」

ぐうね。私もよ」


 燃えさかる火がたまに小さなばくはつを起こし、焦燥感を招く。


(あぁもう! 窓さえ機能してれば……!)


 まるで火をつけると決まっていたかのように窓は閉ざされ、逃げ場がない。

 一階の出入り口へ向かうことだけが、この窮地からだっしゅつできるたった一つの打開策だ。

 しょうねつの気配がゆっくりと、着実に近づいてくる。


(見えた!)


 階段の踊り場が見え、体を支配する焦りが僅かに収まった気がした。

 リリーは勢いのまま駆けりようと足を踏み出し――「止まれっ!!」

 ――ジークの腕に止められた。

 そこにあるはずの階段がない。かいぶつがぽっかりと口を開けているような光景に、リリーは息を吞んだ。


「もしこれがあんたを狙ったものだとしたら、どんなうらみを買ったんだろうな?」

「知らないわよ。それに恨む覚えはあっても、恨まれる覚えなんてないわ」

「まぁ恨みはどこで買ったか分からないものだしな」


 ちょう気味に笑ったジークが後ろを振り返り、あせを垂らす。彼にならい後ろを振り返えれば、引き返すことは到底できないほどの火の帯と黒煙が迫ってきていた。


しょう? 冗談じゃねぇ」


 戸惑うことなく一階へと飛び降りたジークがリリーを見上げ、手を広げる。


「来い! 受け止めてやる!」


 彼の言葉に引っ張られるようにリリーは飛び降りた。落ちる視界の端で、赤が揺れる。

 火にあぶられ熱いはずの背に、氷を当てられたような悪寒が走った。


「っ!?」


 頰を走った痛みにリリーは目を見開いた。

 ばちばちと何かが焼かれる音に混じり、舌打ちがまくを打つ。

 空中で体を捻り、二階を見上げるが誰もいない。


「っ、おい!」


 軽い衝撃が背中に伝わる。宣言通りジークはちゃんと受け止めてくれたようだ。


「今、人が……っ!?」


 降ろされたリリーが顔を上げる寸前、ジークに腕を引かれた。瞬間。リリーのいた場所に複数の小さなナイフが突き刺さった。

 見覚えのあるそれにリリーの顔が強ばる。


「足を止めるな。格好の的になる」

「あ、ありが――」

「その言葉は無事に脱出してからだ。つーか、やっぱあんた、狙われてるみたいだな」

「……そうみたいね」


 頷いたリリーは、改めて周りを見回し愕然とした。


(けっして楽観視していたわけじゃないけれど、これはあまりにもっ)


 賭け事を楽しんでいた場所はすでに炎の中だ。その様はまるでなみのようで、物も、人も関係なく吞み込むだろう。燃えたトランプが赤いちょうのようにい、灰となり消えていく。

 扉に目を向ければ、ルーレット台や椅子などが出入り口をふさいでごうごうと燃え盛っている。

 意図的に塞がれた出入り口に、殺意を見た。

 よほど青い顔をしていたのだろう。ジークは放心するリリーを𠮟しっする。


「他の出口を探すぞ! 従業員用の裏口ぐらいあるだろ」

「わ、わかったわ」

「よし」


 できる限り炎から遠ざかりながら、裏口を探す。

 リリーは飛び降りてきた階段へ目を向け、不自然に代わったディーラーを思い出した。


「階段の裏!」

「! なるほどな。埋もれてないといいが……」


 腕を引くジークがきびすを返した。釣られてリリーも方向てんかんをする。


「可能性に賭けましょう」

「はっ! しくもここは賭けの場だからな。だとすれば賭け金ベ ットは俺らの命か」


 逆境をものともせず軽口を叩くジークが一歩早く階段裏だった場所へ辿り着いた。だが、そこには扉の影も形もない。あしもとで火の粉が舞い上がる。


「ちっ。俺らの運は悪いからな。そう簡単にはいかないか」

「私はそこまで運が悪いわけではないと思うわよ」

「あんだけルーレット外しておいて運が悪くないって噓だろ?」

「それは……」


 言葉に詰まったリリーを引くジークの手は優しい。


「冗談だ。それに俺だって運が悪いんだ。気にんでも仕方がない。運関係なく、欲しいものは手に入れればいいだけだろ?」

「……そうね」

「でだ、こんだけ焼けてちゃ潜める場所も少ない。あんたを狙ってる敵は逃げ道を確保しているはずだ。いっそ捕まえ――」


 ジークの言葉を遮り、目の前にかみなりが落ちたようなごうおんが地を這う。

 建物が揺れ傾くような衝撃の中、力強く背中を押されたリリーが床に倒れ込む。


「きゃっ!?」

「ぐっ」


 素早く体勢を立て直したリリーの目に飛び込んできたのは、ジークが建材のしたきになっている光景だった。


「ジーク!!」


 建物のほうかいによりよどんだ空気が流れ込む。だがそれはすぐさま熱風に変わった。

 リリーはジークの元へ駆け寄り、彼の上に乗っている建材をどかす。

 顔を歪めながら立ち上がったジークだが足下がおぼつかない。彼を支えるため体に手を回す。ぬるりとした感触にリリーは目を見開いた。

 リリーは傷にさわらないよう気を使いながら、ゆっくりと歩き始める。


「私なんてかばわなくてもよかったのに……。いえ、あの場に行こうと私が言ったからね。ごめんなさい」

「謝るな。体が勝手に動いたんだよ。だから、リリーに責任はない」

「こんな時にばかり名前を呼んで。ずるいわ」

「ふっ。俺はずるい男だからな」


 耳元で小さく笑う音がした。すいてきを溢れ出させないため、リリーはけんに力を入れる。


(泣きたいのは私じゃない。ジークよ。それにこんな所で襲われたら……)


 最悪を想像したリリーの耳に、かすかだが声が聞こえた。


「――――はや――――いそ――――るぞにげ―――― っ!?」


 その声は騎士団長に違いない。それはばくでオアシスを見つけたような、安堵感をもたらした。ジークも気がついたのだろう。安堵するように息を吐いていた。


(きっと騎士団が消火に来たのね! 声を上げればきっと見つけてくれる……!)


 リリーが叫び声を上げようと口を開けたその時。ぞっと、足下から悪寒が這い上がる。


「っ!?」


 ふところから短剣を取り出し構えれば、かんたかい音を立てて弾かれる小さなナイフ。

 心の臓を狙って放たれたそれは殺意のかたまりだ。


「姿を見せなさい!!」

 

 リリーの叫びもむなしく、ナイフは飛び続ける。


「おい。俺を庇わなくていい。離せ。俺も戦える」

「そんなボロボロの体で何を言っているのよ」

「大丈夫だ」


 無理やり離れたジークが剣を抜いた。怪我を負っていても、ブレのない構えだ。


「背中は任せた」

「っ、えぇ」


 リリーとジークが背中合わせで立ち、警戒を強める。しかし、攻撃がみ、物が焼ける音だけが響く。じわじわと這い寄る死の気配を嫌でも感じてしまう。

 甲高い音とともに短剣が地面へと落ちた。


「今度は得物が大きくなったな」


 互いの動きが手に取るように分かるため、かけ声すら必要ない。


(戦いやすい)


 胸がどきりと高鳴った理由がリリーには分からなかった。しかし、その永遠に続けばいいと思うほどのきょうとうはあっさりと終わりを告げる。


「―― っ」


 ジークが痛みに呻く。庇おうとしたリリーをけんせいするように小さなナイフが襲いかかった。一回り以上大きな短剣をさばいてきたことがあだとなり、反応が遅れてしまう。

 肩を掠めた小さなナイフが床に突き刺さり、リリーがジークから目を離した、その瞬間。

 炎とは違う赤がリリーの顔を濡らす。生温かな赤にジークへと視線を戻せば、彼の胸に深々と長剣が刺さっていた。


「ジークっ!!」

「……あ? ごふっ」


 剣から滴る赤と、ジークの体を伝う赤が床で混じり合う。足下で揺れる赤色のスカートしか見えないが、敵は女性だと悟った。

 無情にも剣を引き抜かれ、ジークが力なく崩れ落ちる。床に倒れ込む寸前で抱きめたものの、彼の体は予想以上に重い。体勢を崩したリリーはジークと共に倒れ込む。


「早く、逃げろ」

「馬鹿なこと言わないで! あなたを置いて逃げるほどくさってないわ!」

「っ、ばか。やめろ。見れば分かるだろ、めいしょうだ」


 リリーは自身のスカートを裂いて、ジークの傷口に巻きつける。


「そんなことない! あなたは大人しくしていて」


 どれだけ押さえても一向に止まる気配がない血は足下に血だまりを作り続けていた。


(この感覚、私は知っている……?)


 夢の光景を思い出してしまい、リリーは頭を振る。

 ジークの背を壁に預ければ、彼は青い顔で口を開いた。


「ばか、か、あんたは……。早く、逃げろ。まだ、狙われて……」

「馬鹿はどっちよ! 絶対、死なせないんだから」

「なぜ、助けようとする。俺が死んでも、あんたには、関係ない、はずだ」

「人を助けるのに理由がいるの!?」


 その言葉にジークが僅かに頰をやわらげた。


「……おひとし」

「好きに言ってなさい」


 ふと、リリーの脳裏に大切な人に片方を渡してねと言っていた母の言葉が浮かんだ。


「これ持っていて」

「おい、これ、は」


 右耳から外したアレキサンドライトのピアスをジークに握らせる。

 彼は初めてリリーを認めてくれた、大切な人だ。ピアスを渡しても問題ないだろう。


「母の形見なの。くしちゃ嫌よ。あなたが助かった時に返してもらうから」

「お、れは……」

「―― ひと――――ぞ!!」


 二人の声が聞こえたのだろう。壁の向こうから騎士団長の慌てる声がした。

 しゃくねつが、すぐそばまで迫っている。リリーは体中の水分という水分がじりじりとがっていくのを感じていた。焦りと絶望が、リリーの肌を焦がす。

 ジークの剣を拝借したリリーは剣を構え、神経をませる。

 不意に聞こえた足音に反射的に振り返ってしまったのは、集中が仇となった結果だ。

 しまった、と思った時にはすでに目前にナイフが迫っていた。


「ぅぐっ」


 かんいっぱつのところで身を捻れば、額に激痛が走る。流れる血が目に入り、よく見えない。


「リ、リー」


 それはリリーが剣を構え直した直後。かんを覚え、下を見れば――


「―― へ?」


 ―― むなもとから剣が生えていた。

 それを目に入れた瞬間、突如リリーを襲う激痛が、血の塊を口から溢れ出させた。

 剣が引き抜かれ、受け身も取れず地面に顔がぶつかる。

 リリーから流れる血と交じる真っ赤な泥濘を辿れば、力なくだつりょくしたジークの手がすぐそこに見えた。


(あれ、ジーク?)


 ジークを視線だけで見れば、光のないアイスブルーの瞳がリリーに訴えかける。


(私のせいでって言っているみたい。その通りだわ。別の場所で会っていたら、きっと、いい戦友になれていたかもしれないのに。この人を、私が巻き込んだ。私が、死なせた)


 言うことを聞かない指をジークの手に絡める。やたらと重くなった瞼でゆっくりと瞬きをして、声を絞り出した。


「ジー……ごめ……」

「気づかな――――生きら―― 残念で―― リ―― 様」


 月光を浴びたアレキサンドライトのピアスが輝き、リリーは二度目の死をむかえた。

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