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 ふと意識がじょうし、重いまぶたを開ける。

 見慣れた天井が目に入り、リリーは勢いよく起き上がった。


 聞き慣れてしまったしんだいきしむ音がひびく。

 体に少しの痛みもないと驚きつつも、自身の胸に目を落とした。

 貫かれたはずの胸に傷はなく、包帯すら巻かれていない。


(私、助かったの……? あの状態から……?)


 当たり前の疑問に内心首を傾げながら、住み慣れた自室を見回す。


(まさかとんぼ返りすることになるとは思わなかったわ)


 の度合いからして、近くの修道院では対処できるはずもない。

 そのためリリーは王宮の自室に運ばれたのだと納得した。


(こんなせまい部屋に医者を招いてしまうなんて少し恥ずかしいわね)

 二階最奥に位置するリリーの部屋は、物置のような狭さだ。

 事実、客室の方が広いだろう。清潔感こそあれど、母に与えられていた部屋と大差ない。

 続き部屋のない一室は置ける家具も限られてしまい、片手で数えられるほどしかない。

 寝台の右側にはドレッサー、呼び鈴と水の満ちたグラスが置かれたサイドテーブル。

 寝台の左側には年代物のローテーブルが一つ。それをはさむように二人けのソファーが一つずつ置かれている。少しくたびれてはいるが、来客のない部屋には十分だ。

 バルコニーへと続く窓からは温かな陽光が部屋に降り注いでいる。

 コツコツと小さな足音が聞こえ、ノックもなく開いた扉から赤色の侍女服が揺れる。


「お目覚めですか? リリアンナ様」

「アメ、リア……?」

「どうしました?」


 部屋に入ってきたのは、おけを手に持った侍女のアメリアだ。

 肩まで伸びたくすんだ金髪から灰色の瞳が覗く。

 王宮侍女と違い赤色のお仕着せを着ているのは彼女がリリー専属侍女だというあかしだ。

 スペンツァーが見つけてきたアメリアはゆうしゅうで、侍女が一人しかいない中でもしっかりと仕えてくれている。

 馬車が襲われた時も、彼女はリリーと共にいた。


「よかった。無事だったのね」


 リリーは胸をろす。盗賊から無事逃げられたようでほっとした。

「なんのお話ですか?」


 あんもつかの間で、続いたアメリアの返答にリリーは固まった。

 不思議そうな顔をしながらも近づいてきたアメリアへ、意を決したリリーは問いかける。


「あなたが助けを呼んでくれたのよね?」

「リリアンナ様が助けを呼ばれるような事態があったのですか?」


 衝撃的な出来事を忘れるような記憶力でないのは、彼女と過ごした日々の中で理解している。だが、悪ふざけで冗談を言うあいだがらでもない。

 リリーはのどの奥がひりつくのを感じながら、言葉を押し出す。


「な、にを言っているの? 馬車で襲われたでしょう?」

「襲われてなどおりません。悪い夢でも見られたのではありませんか?」

「……夢?」

「はい。ですがいつまでも夢うつつではいられません。しゃんと目を覚ましてください」


 顔を清めるためにみずおけが差し出される。


(夢? 本当に?)


 あまりにも生々しすぎるかんしょくに、夢だと断言できない。

 冷たい剣が刺さった感覚も、泥濘ぬかるみの生温かさも、現実だと説明されたら信じられる。

 死がい寄る感覚をせんめいに思い出してしまい、リリーはぶるりとぶるいした。


「リリアンナ様。お早く。予定がまっております」


 アメリアにかされ、水桶をさらに突き出される。

 水桶を覗き込むためうつむいたひょうに、かたぐちから手入れの行き届いたミルキーホワイトの髪が流れ落ちた。

 喉からひゅっと音が漏れる。

 は盗賊の手から逃れるため切り落としたはずで――。

 慌てて水桶を覗き込めば、盗賊に襲われる前と変わらない自分が映っていた。

 水面に映るアレキサンドライトのピアスが揺らめく。

 緑に輝くピアスの奥に違う色が見える気がするが、光の加減でそう見えるだけだろう。


(どうして付けっぱなしなの……?)


 救出されたのであれば、りょうの時にピアスは外されるだろう。

 夢だとしても、ピアスを付けたままる習慣もない。そもそもピアスはアクセサリースタンドに置いてあったはずだ。

 疑問に思いながらも顔を清め、ごわついたタオルを受け取って顔をぬぐう。


「今日の予定は?」

「本日はモントシュタイン帝国の新皇帝陛下がごとうちゃくされる予定です。スペンツァー様からは移動をする時は手早く。あと執務室から出ないようにとおおせつかっております」

「う、そ……」

「明日は夜会ですので、今日中にできる限りの執務を……。リリアンナ様?」


 リリーの反応にアメリアから困惑した声が漏れる。

 いやに喉がかわく。心臓が嫌な音を立てて軋み、どうの音がやけに大きく聞こえる。

 脈打つ音が耳にこびりついて離れない。体がどろぬまに落ちたように重く感じる。

 影が落ちたかと思えば、心配そうなアメリアと目が合った。

 いつの間にか握り込んでいたシーツを優しくほどかれる。


「あまり顔色がよくありませんね。……確か今日の執務は明日の分ばかりのはず。ですから今日は一日お休みになってください」

「へ?」


 リリーは初めてかけられた言葉に戸惑いを隠せない。

 弱りきった表情のリリーに、アメリアは決定だと言わんばかりに語気を強める。


「明日まで長引いては困ります。今日の予定は全てキャンセルしておきますので、安心してりょうようなさってください」

「……わかったわ」


 頷いたリリーを満足そうに見た後、アメリアは慣れた手つきで片付けを始める。


「食事もいらないわ。声をかけるまで部屋に入らないでちょうだいね」

「承知しました」


 持ってきた物を全てまとめ、一礼をしたアメリアの背中に声をかける。


「ありがとう。アメリア」

「礼にはおよびません。わたしはお給金のためにしているだけですから。今度のボーナス、楽しみにしていますね」


 余計な一言を残してアメリアは退室した。


「まったく、アメリアったら。まぁアメリアがお金にうるさいのはいつものことね」


 静まり返った部屋でつぶやいた声は、予想以上に弱々しかった。

 ぼすんと音を立てて寝台へ背中から倒れ込む。

 小さく息をついて、腕で両目を覆った。


「夜会が明日って、どういうことなの? 私は新皇帝を招いた夜会には参加したはずよ」


 似合いもしないオレンジのドレスを着て婚約破棄されたこと、昨日のように思い出せる。

 実際、リリーの体感では一日しかっていないはずだった。


「婚約破棄されて、殿下の隣には……。あぁもう! 嫌なことを思い出したわ」


 禁色のドレスを与えられたれんな少女がのうに浮かんでしまう。

 リリーの努力を一夜にして無に帰した彼女は幸せそうだった。


「私だって、認められさえすれば禁色を着られたのに……」


 呟いた願いがかなえられることはないと、リリーは知ってしまった。

 雑念をはらうように城を出た後の出来事を思い出す。


「追い出された後、盗賊に襲われて――」


 そこまで思い出し、がばりと起き上がる。


「そうよ! ピアスにお願いしたわ!」


 もしかしたらこれが母の言っていた不思議なことかもしれない。


「クロノス様が守ってくれたのね。きっと予知夢で危険を知らせてくれたんだわ」


 それ以上の説明が思いつかない。考えれば考えるほど泥沼にハマってしまいそうだと、直感的に感じながら、リリーは見て見ぬ振りをした。


「もし夜会での仕打ちが本当なら、罪状に関連するせつがあるってことよね?」


 賭博場開張図利罪なら、王国のどこかに賭博場があるはずだ。


「王族の耳に入るぐらいだもの。城下で聞き込みをすれば簡単に場所が割れそうね」


 寝台から降り、貴族らしくないワンピースへえて準備を整えた。


えんざいで修道院送り? 冗談じゃないわ」


 バルコニーへと足を進めながら、独りごちる。

 自室の周りに衛兵は来ない。ザルな警備態勢のため、リリーならその気になればいつでも抜け出せた。今までやらなかったのは、公女としての体面を考えたからだ。


「私が関わっていないと証明すればいいんでしょう? 見つけてやろうじゃない。動かぬ証拠を」


 リリーはバルコニーのようへきに足をかける。落ちれば命はない高さだが、リリーはおくすることなく飛んだ。

 目の前の木の枝をかんしょう材代わりに使い、勢いを殺す。地面へと飛び降り、足から太もも、太ももから背中へと一回転しながら衝撃を逃がす。

 起き上がったリリーはワンピースについた土を払い、堂々と歩き出した。

 赤い瞳に決意を灯したリリーを楽しげに眺める視線があることに気がつかずに。



*****



 城下町の表通りへ行くため、リリーは城門の近くを通りかかった。


「なんでだよ!!」


 ふくまれた大声に、リリーの肩が揺れる。

 フードを深く被りけんそうのする方へ目を向ければ、門番に男性達が詰め寄っていた。


「どうかお願いです! 俺達の妻子をどうか!」

たんがん書のお返事をいただけないでしょうか!? どうか国王陛下にお取り次ぎを!」

「王子殿下でも構いません!」

「えぇい! 国王陛下も王子殿下もいそがしいのだ!! 散れ!!」


 言い争いをする男性達はお世辞にも健康とは言えないふうぼうで、やつれた顔をしていた。

 その中でも一人だけたいのいいかっしょくはだをした男は、そっせんして門番に詰め寄る。


「もう半年になるんだ! まだ見つからないなんて職務たいまんじゃないのか!?」

「我々も忙しいのだ! 一つの事件ばかりに注力はできない!」


 彼らを遠巻きに見ていた男性へリリーは声をかける。


「すみません。彼らは?」

がい者が百人をえたゆうかい事件、その被害者の会の人達だ。褐色の男が代表だよ」


 そうなんですねと返事をして、リリーはもう一度褐色の彼を見る。


(褐色の肌は公国よりもさらに遠い異国の……)


 リリーの疑問を感じ取ったのだろう。男性が話を続ける。


「この国に婿むこりしたらしいんだが、妻子が誘拐された可哀想かわいそうなやつでな」

「そうだったんですね。お気の毒に……」

「あぁ。嘆願書を王子殿下に出しても返事一つないんだから、彼も大変だよ」

「嘆願書を、殿下に……?」


 スペンツァーの公務は、リリーが全て肩代わりをしている。

 だというのに、嘆願書の存在をリリーは知らなかった。一度も見た覚えもない。


(どういうこと? 殿下が私に見つからないよう隠した? 何のために?)


 普段仕事をしないスペンツァーが、自ら誘拐事件解決のために嘆願書を持ち出したとは考えにくい。何か裏があると思うのは自然なことだろう。


(帰ったら殿下を問い詰めなくちゃ)


 リリーがそう心に決めていれば、男性が眉を下げて囁く。


「おじょうちゃんも気をつけるんだぞ」

「えぇ。ありがとう」


 お礼を伝え、リリーは表通りへと足を向けた。

 かつて馬車から見た城下町はもっと活気があったはずだ。溢れかえらんばかりの人が行き交っていた表通りからは、人の姿がほとんど消えていた。

 だがりょうわきに並ぶ屋台はしょうこんたくましく、様々な商品をこれでもかと並べている。少しでも通行人の目を引こうとふうが凝らされているのだろう。

 果物や野菜のようなしんせんな食べ物や、肉や魚、チーズなどのくんせいびんに入った調味料は陽光を浴びてキラキラと輝いている。

 光をまとうのはそれだけではない。異国から持ち込まれたとうや護身用のたんけん。後ろがける変わった手鏡などが店先を彩っていた。


(……見られている?)


 肌にひりつくような視線を感じ、リリーは買い物をするフリをしながら歩みを止めた。


(きっとスリ目的ね。誘拐事件を解決してないから、治安が悪化しているのかしら?)


 事件の解決は騎士団への、ひいては国へのしんらいだ。それがくずれてしまえば治安が悪化するのはごく当然の流れだろう。


(とりあえず私のさいを取ろうとした時に捕まえましょう。あら?)


 均等に並べられた装飾品を見るだけと思っていたが、無骨な短剣に目がうばわれた。

 短剣の中でも小ぶりで、ドレスの中に仕込んでいても気がつかれないだろう。


(使い勝手がよさそうだわ。襲われるのなら、あらかじめ準備しなければいけないわね)


 ゆったりと財布を取り出し、短剣をこうにゅうする。

 財布をしまい、リリーが再び歩き出した瞬間。横からすっと手が伸びてきた。

 手を摑み、相手を睨み付ける。


「捕まえた。観念しなさい。スリ犯」


 摑んだ手の主は若い男性だ。二十代くらいだろうか。

 冬の湖のように冷たいアイスブルーの切れ長な瞳と視線がからむ。れいこくで、一度も揺らいだことのない意志そのもののようなだ。

 あっとうてきな造形美を形作るりんかくをなぞるように流れる黒髪。

 美の神に愛されたその容姿は、一度見たら忘れられないだろう。

 暴力的な美を真正面から浴びたリリーは思わず息を吞んだ。


(スリなんてしなくても、微笑むだけで世の女性達がみつぐんじゃ……)


 高身長だがほどよくきたえられていると衣服しでも分かる。

 マントのすきから覗く剣にはアイスブルーの飾り房が付いていた。

 どこかの騎士のような服装だが、マントの下の衣服にはシミ一つない。


(やっぱりスリをするようには見えない)


 摑んだ手に剣だこがあったのも、スリではないかもしれないと思う要因だった。


「おい」


 げんそうな声が降ってくる。


「いつまで摑んでるんだ。いい加減離せ。それに俺はスリじゃない」

「だったらなんで私に手を伸ばしたのよ。ずっと見ていたでしょう?」


 疑問が解消されるまで離すまいと彼の手を握り込む。

 すると彼は呆れたようにため息をつき、めんどうくさそうな顔をした。


「俺はただお前がスリにねらわれてたから声をかけようとしただけだ。あと、執拗に見ていたのは俺じゃない。お前の護衛だろ」


 王国に来てから護衛をつけられたことは片手で数えられるほどしかなかった。

 その上、リリーは今、城を抜け出しているのだから護衛がつくはずがない。


「私に護衛なんて……っ!?」


 とつじょ視界に入ってきた金髪と亜麻色の髪に、とっに路地裏へ逃げ込む。


「あ、おい!?」

「いいから、動かないで!」


 陽光を浴びてきらめく金髪も、亜麻色の髪も夢で見た嫌な光景と結びついて心臓に悪い。

 彼の陰に隠れながら、表通りを仲むつまじく歩く二人を見る。


きっおうかんの予約を取っているんだ」

「まぁ。一年先まで予約が取れないあの?」

「そうだ! 行きたいと言っていただろう?」

「覚えていてくれたの? ミア、うれしい! スペン様大好き!」


 どうやらスペンツァーとミアで間違いないようだ。

 二人を観察しながら、リリーは内心呆れていた。


(どうして殿下とラングレー令嬢が……。いえ、な話だったわ。まったく。はくちゅう堂々うわねぇ。私も舐められたものだわ)


 今出て行き、ミアとの関係を問い詰めてもスペンツァーは反省しない。それどころかリリーが公務をおこたっているとかんしゃくを起こすだろう。


(よかった。気づかれたら厄介だもの)


 笑い合うスペンツァー達を見送り、リリーはほっと息を吐いた。


「ずいぶんとだいたんだな?」

「え?」


 耳元で囁かれ、おそる恐る視線を上げる。

 くちびるが触れそうなほど近くにあった男の顔に、リリーはつま先から頭のてっぺんまで燃

え上がりそうになった。


「ひゃあ!?」


 今まで握っていた手を離し、しゅに染まった顔を隠すことも忘れてあと退ずさる。

 あわてふためくリリーをおもしろそうに眺めながら、彼はひだりかたを路地裏の壁に預けた。

 逆光のせいか、彼の楽しそうな笑みがきょうあくに見える。


「こんなひと気のない路地裏に連れ込んで、いったい何をするつもりなんだ?」

「な、なにもしないわよ!」

「そりゃあ残念だな。こんな風に――」


 彼の手が肩に乗ったと理解した時には、すでに壁に押しつけられていた。

 目を見開くリリーを、彼は感情の読めないアイスブルーの瞳で見下ろしている。

 あしの間に彼の長い脚が差し込まれ、逃げることも叶わない。


「――せまられることを期待していたんだけどな」


 彼はような笑みを浮かべ、リリーの反応を待っている。しかし、リリーは一瞬にして壁に押しつけられたことに意識が向いていた。


うそ。油断していたわけじゃないのに。この人強い……!)


 リリーが見上げれば、彼のたんせいな顔が目の前にあった。


「なんだ、口づけでもしてくれるのか?」

「なっ!? そ、そんな、は、はしたないことしないわ」


 溢れ出る色気にクラクラしてしまい彼の顔から視線を落とす。

 ざわついた心を落ち着けるため視線を彷徨さまよわせると、マントから覗く長剣が見えた。


さやりゅうもんよう?)


 龍紋様で思い出すのはただ一つだけだ。


「モントシュタイン帝国……?」

「あ? あぁ、これか」


 自身の長剣に目をやった彼はつまらなそうにリリーから離れた。


「これって扱いをしていい物ではないでしょう?」

「俺が俺の物をどう扱おうが勝手だろ」

「答えて。どうして帝国民、いいえ。皇帝に近しい人間がここにいるの?」


 モントシュタイン帝国は、人間とこいに落ちた龍が作った国と呼ばれている。

 そのため、建国当初から龍がえがかれた国旗を使用していた。しかし、前皇帝は自身を龍のまつえいとは認めず、国旗をたか紋様に変えてしまった。国旗だけでなく、こうもすべて。

 直後、今まで栄えていた帝国の経済はかたむき始める。

 国民達はりゅうじんの怒りを買ったとおびえ、きょうでんせんした結果、内乱まで起きたようだ。

 へいした帝国を立て直したのは、こうたいだと風のうわさで聞いた。

 皇太子が新たな皇帝として君臨し、全ての紋様を龍へ戻すと帝国は落ち着きを取り戻していったらしい。

 なかなかおもてたいに出ない皇太子は、それまで王座を譲られなかったと有名な人物だ。

 前皇帝の年齢を考えれば、皇太子はすでにそうねんに差し掛かっていてもおかしくない。

 若さゆえの価値観か、優秀な人材であればろうにゃくなんにょ関係なくようするやり手だと聞く。

 目の前の彼も皇太子――否、新皇帝の目に留まった有能な人材なのだろう。


「ふぅん? なぜそう思う?」

「その飾り房。帝国の禁色じゃない。禁色をされた人がこんな所で何を――」

「いやぁああ!!」


 とつじょひびいた女性の悲鳴に二人同時に走り出す。

 うすぐら湿た路地の奥で、抵抗する女性をこんとうさせ、かつぐ甲冑が見えた。


「ったく、手間をかけさせやがって」


 吐き捨てた声から甲冑をまとう人物が男なのだと悟る。

 振り返った甲冑男がリリー達に気付き走り出した。


「あ、待ちなさい!」


 路地のさらに奥へと足を進めれば、嫌でも路地の雰囲気が目につく。

 みちばたにはせこけた人のような何かが伏し、地面に落ちた食べ物を犬と人が奪い合う。

 そんな目を覆いたくなるような光景がり広げられていた。

 表通りとの温度差にリリーは思わず喉を鳴らす。だが、足を止めるわけにはいかない。


「意外だな。こわくないのか?」

「怖いわよ。でもあの女性を助けるのが最優先だから、怖がっている暇はないわ」


 彼の顔を盗み見れば、不敵な笑みを浮かべていた。


「違いない」

「あなたは逃げてもいいのよ」

「嫌だね。それに俺にも関係があるからな」

「? 誘拐事件は王国の問題よ。あなたが首を突っ込む必要はないわ」

「ふっ。まるごしでよく言う」

「丸腰じゃないわ。さっき買った短剣があるもの」


 マントの中から短剣を覗かせれば、彼は楽しげな声で笑う。


「強気だな。そういう女は嫌いじゃない」

「そりゃあどうも」

「俺はジーク。あんたは?」


 名をたずねられ、リリーは言いよどむ。


「……リリーよ」


 本名を告げるわけにもいかず、あいしょうを名乗った。


「なぁ。リリー」

「いきなり呼び捨て? ……まぁいいけれど。なに?」

「紋様が変わったのはつい一ヶ月前だが、それはあんたが帝国の内情にもくわしい上流階級だとばくするようなものだ」

「っ、それは……」


 言葉に詰まる。自分でいた種だというのに、空気が重く感じてしまう。

 笑いを押し殺すような声が聞こえ、ふとジークを見上げれば小さく肩を揺らしていた。


「からかったの!?」

「どうだろうな? そら、追いついたみたいだぞ」


 あからさまに変えられた話題にむっとしつつも、視線で示された先へ目を向けた。

 甲冑男が逃げ込んだのは、異質な二階建ての建物だ。

 路地奥のさらに奥。あると知らなければ訪れない場所に、その建物はあった。

 一階の窓ガラスはけものけのてつごうが設けられているが、窓は木の板が打ち付けられており意味を成していない。同じように二階の窓も外から見えないようになっている。


「変な建物ね」

「だな。気づいているか? あんた見られてるぞ」

「分かっているわ」


 この場所に来てからずっと見られている。

 リリーが視線を感じた方を見上げれば、三階の窓から睨む瞳と目が合った。

 テラコッタの瞳が驚いたように見開かれ、マルベリー色の髪が慌てたように窓辺から離れていく。見覚えのある髪色。母譲りのその色の持ち主は――。


(ソフィアお姉様? こんな所で何を……?)


 同腹の姉であるソフィアがいる場所は何の建物だろうか。


「知り合いか?」

「えぇ。ちょっとね」


 少し目を見開いたジークが、すぐに表情を消してしみじみと呟く。


「ふーん? ……似てねぇな」


 その言葉はリリーの耳には届かなかった。


「ねぇ、あの建物、何の店かしら?」

「あそこか? 喫茶王冠だな。貴族が好んで行く高級店で、面白い場所ではないぞ」

「喫茶王冠……?」


 つい先ほど聞いた単語に、リリーは納得する。


(いかにも殿下やソフィアお姉様が好きそうな店だわ)


 それよりも、とリリーは目を異質な建物へと向ける。


「私はこれから甲冑男が入った建物に乗り込むつもり。引き返すなら今のうちよ?」

「はっ。冗談だろ?」


 好戦的に口角を釣り上げたジークはまるで得物を見つけた獣のようだ。

 どうもうな表情にリリーが息を吞めば、ジークからちょうせん的な視線が送られる。


「じゃあせんにゅうといこうか」


 ジークが異質な建物の扉を開く。そこにはリリーの知らない世界が広がっていた。

 むせ返りそうなほどじゅうまんした甘ったるい香りがリリー達をかんげいするように漂う。


 薄暗い室内の天井には品のないシャンデリアが飾られていた。ゴテゴテと装飾の付いたそれに火は灯

ともっていない。代わりに照明の役割をしているのはろうそくだ。

 テーブルではビリヤードを。カウンターではトランプやルーレット。かべぎわではダーツを楽しむ人達がいた。


(カジノ!? やっぱりあったのね……!)


 王国ではカジノは全て違法である。そのため今の今までカジノの存在すら気がつかなかったリリーに罪を全てなすり付け、ごういんに解決しようとしたのだろうか。


(深入りは危険だわ。でも、冤罪の原因であるこの場も見ておきたい……)


 無意識に歯を食いしばっていたのだろう。ぎりっと口内に響いた音で我に返る。

 ジークに目を向ければ、なぜか彼もこちらを向いていた。

 思わず視線をらし、周りへと目をやる。従業員や遊びに興じる人達も皆、顔半分が隠れる仮面を付けており、じょうさぐることはできなそうだ。


(まるで仮面とう会だわ。せんさく禁止の場所ってわけね)


 さっと室内を見回すが甲冑男の姿はない。奥へ目をやれば階段を見つけた。


(二階に上がったのかしら?)


 階段に目を向けていると、後ろから伸びてきた手がリリーの鼻と口を覆い隠す。

 視線だけで見上げれば、ジークも同じように鼻と口を隠すように覆っていた。


「あまりがない方がいい」

「それってどういう……」

「ようこそ! 会員証の提示をお願いします!」


 リリーの声を遮るように話しかけてきたのはドアマンだ。


(会員証?)


 初めて来たのだから、リリー達が会員証を持っているはずがない。

 どうする? と目でうったえかけるが、ジークは焦った様子もなくふむ、と考え込む。

 だまり込んだジークに呆れつつ、リリーは口を開いた。


「さっき甲冑を着た人がここに来たと思うのだけれど、知らないかしら?」

「甲冑を着た……? いえ。見ておりません」


 顔半分が隠れた仮面のせいで表情が読めない。

 出入り口はリリーの後ろにある扉しかないため、見ていないというのもおかしな話だ。

 だが、これ以上何を聞いたとしてもドアマンは答えてはくれないだろう。


「そう。変なことを聞いたわね」

「いえ。それで会員証を……」


 ドアマンが言いかけたと同時に、後ろの扉が開いた。


「お二人さん。先に行かないでおくれよ。一緒に楽しむって約束したじゃないか」


 現れた褐色の男は、旧知の仲のようにジークの肩を抱く。


(この人、被害者の会の……? ジークとどういう関係なの?)


 見覚えのある彼は、城門で門番に詰め寄っていた被害者の会代表だ。

 れ馴れしく話しかける彼に驚いた様子もなくジークは頷いた。


「あぁ。悪い。待ちきれなくてな」

「仕方ないなぁ。はい、これが会員証さ!」

「会員証の提示ありがとうございます。それではこちらをどうぞ」

「どーもー!」


 代表はひとなつっこい笑顔で仮面を三つ受け取ると、慣れた手つきで仮面を付けた。


「お嬢さんもどーぞ」

「あ、ありがとう」


 手渡された仮面を付けながら、リリーは代表を改めて観察する。

 身長はジークと同じぐらいだろう。ジークとは違って野性味のある顔立ち。王国ではめずらしい茶髪と褐色の肌、着古された服のそでぐちからは鍛えられた筋肉が覗く。


(ジークの知り合いなのは確かよね。さっき城門で見た時と全然雰囲気が違うわ)


 リリーの視線に気がついた代表が口を開く。


「ぼく、レヴェリー。よろしくね、可愛いお嬢さん。あ、そこ段差あるから気をつけて」

「あ、ありがとう」

「ん」


 自然な動作で差し出されたジークの手に自身の手を重ねる。

 仮面を付けた三人は奥へと進んだ。

 勝った、負けたと盛り上がる室内を進みながら、リリーはやっぱりと納得した。


(会員制なのはほうだからね。あぁ、もう。視線がねちっこくて嫌になるわ)


 全身を舐め回すような視線は感じるものの敵意は感じられない。

 同じような視線をジークも感じているようで、先ほどから僅かに眉を寄せている。


「ジークがこんな可愛い子を連れてくるとは思ってなかったよ」

「うるさい」

「まったまたぁ! 照れることないじゃないか! ぼくとジークの仲なのにさ」

「……うっとうしいぞ」


 冷たくあしらわれてもめげないレヴェリーに、リリーはつい口元がゆるんでしまう。

 気が緩んだリリーをざとく見つけたレヴェリーは、にんまりと笑った。


「やっぱりお嬢さんには笑顔が似合うや! ジークもそう思うよね?」

「はぁ。レヴェリー。甲冑を着た男だ」

「もー。まぁいいや。じゃ者は退散するよ。じゃっ、お二人さんは楽しみなね~!」


 そう言ったレヴェリーは、ひらりと手を振ってカジノの奥へと消えた。

 またたく間に消えてしまったレヴェリーを探すが、見つけることは叶わない。


(え? さっきまでそこにいたのに、あの目立つ容姿を見つけられないなんて)


 リリーが目を丸くしていると。ジークの腕が腰に回った。力強く引き寄せられ、リリーの口からうわった声が漏れる。


「ちょ、ちょっと。レヴェリーはどこに……」

「放っておけ。そんなことよりも、これからどうするかを考えた方がいいんじゃないか」

「やっぱりさらわれた女性をさがしたいわ」

「それはアレに任せておけ。手出しは無用だ」

「そうは言っても甲冑男を追いかけて来たのよ? 他に何をすればいいの?」

「来たからには何かゲームをしないとな。ほら、すでに怪しまれている」


 もっともな言い分に反論の余地はない。

 先ほどから視線が厳しいものに変わっていると、リリーも感じていた。


(せめて女性だけでも見ていないか聞こうと思っていたけれど、これは無理そうね)


 声をかけられるような雰囲気でないのは明らかで、無理に強行すれば余計目立ってしまう。そのためリリーはゲームに興じる人達に声をかけるのを断念した。


(ジークはああ言っていたけれど、やっぱり少しは私達も捜すべきじゃないかしら?)


 階段に目をやり、どうにかして上がれないかと思案する。


(二階も怪しいと思うのだけれど……)


 リリーが階段を見ていると気がついたのか、ジークが呆れたようにため息をついた。


「その様子じゃ二階がどういう場所か、想像もついていなそうだな」

「どういうこと?」

「まぁいい。行きたいなら連れていってやる。その代わり一ひとしば付き合え。いいな?」


 を言わさぬこわいろに、リリーは頷いた。


「わ、わかったわ」


 リリーは人の集まるテーブルまでエスコートされ、ジークが引いたへとこしける。


 目の前の緑色のテーブルはディーラーが代わったばかりのようで準備中だった。

 リリーはゲームの用意を進めるディーラーへと目を向ける。

 身長の低い男性だ。短く切り揃えられたれいな金色の髪と仮面から覗く灰色の瞳は王国ではよくある色彩だ。彼が白いぶくろをはめ直す際に黒くられた爪が見えた。


(男性が爪を塗るなんて珍しいわね)


 ルーレットの前に立つディーラーが小さなボールを握ると、手元を照らす蝋燭の光で金色の腕時計がきらめく。


(あら? あの腕時計、どこかで……?)


 腕時計は値段が高く、ゆう層であっても簡単には購入できないだろう。そのため、付けているだけで立場を理解できてしまう品物だ。


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 しかし、リリーが思い出そうと頭をなやませる暇もなくゲームが始まってしまった。

 目の前には赤と黒の数字や文字の書かれた緑色のテーブルがあり、何をする物なのか分からないリリーは周りを観察することにした。

 変声期のようなディーラーのかすれた声にかき立てられ、参加者がテーブルに硬貨を置き始める。置かれた硬貨は銀貨や銅貨の違いはあれど、全て鷹紋様のモント硬貨だ。

 王国の通貨であるディア硬貨でないことに、リリーは眉を寄せた。


(どうして帝国の通貨が使われているの? しかも鷹紋様の硬貨は旧硬貨じゃ……?)


 後ろに立つジークから怒気を感じる。だが口を開く様子はない。

 け金を出さなければ始まらないとリリーは財布からディア銀貨を一枚取り出した。

 たったそれだけのことで小さなどよめきが起こった。


(え、なに? もしかして高価すぎたかしら? でも銀貨も置かれているし……)


 一般的な平民であればディア銀貨一枚で一週間は不自由なく暮らせる。

 大金と言えば大金ではあるが、ディア金貨よりもマシだろう。もしりょうがえするとなるとディア金貨一枚でディア銀貨が百枚必要だ。

 そこまで動揺させるようなお金だろうかとリリーがディア銀貨を見つめていれば、ディーラーから申し訳なさそうな声がかかる。


「申し訳ありません。当店はモント硬貨のみのお取り扱いとなっております。両替が必要でしたらこちらで行いますが、いかがなさいますか?」

「……仕方ないわね」


 リリーの手元にはディア硬貨しかない。ディーラーにディア銀貨を渡せば、鷹紋様のモント銀貨が十枚手渡された。手にのった銀貨の多さにリリーは焦る。


(今の相場だとディア銀貨一枚ではモント銀貨一枚にも満たないはず。せいぜいモント銅貨五十枚でしょうに)


 しかし二人のやり取りを見ていた周囲の客に驚いた様子はない。


(こんなに安く両替できてしまったら、帝国硬貨の価値が暴落してしまうわ)


 手渡されたモント銀貨をまじまじと見つめていると、ジークの手が肩に乗った。


「ここは俺に出させてくれないか?」


 そう言いながら彼はテーブルに数え切れない量のモント金貨が入ったふくろを置いた。

 目が飛び出そうなほどの大金にリリーがろうばいしてしまう。


(何を平然としているのよ!? こ、こんな大金を持ち歩くなんて、本当に何者なの!?)


 リリー同様、龍紋様のモント金貨の山に参加者もディーラーも固まっていた。だが、ディーラーはすぐに立て直しこうべを垂れた。


「十分にございます」

「よかった。じゃあそれはしまっておいて」


 ジークの行動の意味は分からないが、彼の指示通り鷹紋様のモント銀貨を財布に入れた。


「ほら、リリーがずっとやりたがっていたルーレットだ。好きに賭けて?」


 とろけるような優しい笑みと声色で名前を呼ばれる。

 リリーが驚きで固まっていると、ジークが耳へと唇を寄せてきた。その唇は綺麗なを描いたまま、リリーにしか聞こえない音量で囁く。


「一芝居。俺とあんたはこいびと。いいな?」


 体勢を戻した彼から本当に恋人になったとさっかくしそうな視線を向けられる。

 綺麗なアイスブルーの瞳に見つめられ、リリーの胸がどきりと跳ねた。


(噓だと分かっていても顔が良いと恥ずかしくなってしまうわね)


 単なる芝居だというのに、リリーの心は正直に反応してしまうのだから笑えない。


「リリー?」

「なんでもないわ」


 テーブルに置かれた袋から金貨を一枚取ったリリーは、どこに賭けようかと緑のテーブルへと目を向けた。

 多くの賭け金が置かれているのは黒と赤のひし形が描かれた区画だ。その次に多いのは一から十八、十九から三十六と書かれた区画で、順にぐうすうすうと書かれた区画。一から十二、十三から二十四、二十五から三十六と分かれている区画は人気がない。


(とりあえず、ここに置いてみましょう)


 リリーはルーレットのルールを理解していない。人と同じ場所に置いても意味がないと判断し、誰も賭けようとしない数字の書かれた区画へ手を伸ばした。

 五と書かれた赤色区画に賭け金を置く。

 銀や銅のたかがまばらに輝く台の上。金色に輝く一柱の龍が静かに主張している。

 満足そうに頷いたリリーとは反対に、参加者はしっしょうを漏らす。


「ストレート・アップ、ねぇ? ずいぶんと強気だな」


 からかいを含んだジークの声が上から降ってきた。


「ストレート・アップ……?」

「なんだ。知らずに賭けたのか? 賭けベット金三十六倍だ」

「さっ!?」


 ルールもじょうせきも、何も理解していないリリーだが、当たれば一枚の金貨が三十六枚となって返ってくると理解できた。同時に当たる確率が非常に低いことも。


(だから誰も置いてなかったのね。人のお金でなんてことを……)


 リリーの顔に焦りが浮かぶ。


締め切りですノーモアベット


 ディーラーの合図でボールがルーレットへと転がった。

 軽い音を立てボールがルーレット内を転がり続ける。ゆっくりと勢いが落ちていき、五と書かれた赤色のポケットへ入りかけ、隣の黒の十で止まった。

 残念がる声と嬉しそうにはずむ声が参加者から発せられる。


「惜しかったな」

「はずれははずれよ」

「ならもう一回だ」

「うぇ?」


 モント金貨を五枚握らされ、リリーの口から変な音が漏れた。

 頰が引きったリリーのさいな変化を逃さず、ジークはいたずらな笑みを浮かべる。


「笑顔が引き攣ってるぞ」

「誰のせいよ。誰の」

「そりゃ俺のせいだろうな」

「分かっているなら、そんな大金渡さないで」

「たかだかモント金貨五枚が大金ねぇ? あんた本当に貴族か?」

「う、うるさいわね」


 顔を寄せ合いニコニコと会話するリリー達は、端から見れば仲睦まじい恋人同士のたわむ

にしか見えないだろう。

 ひそひそ会話するリリー達の前をディーラーが一度横切り、戻ってきた。


「いいから。もう少し付き合え」

「あとで返せって言われても返せないわよ?」

「俺がそんな小さいうつわに見えるか?」

「……見えないわね。もう、分かったわ」


 モント金貨五枚を握りしめ、リリーが前を向けばディーラーがゲームの始まりを告げる。


賭けてくださいブレイスユアベット


 先ほどのディーラーとは違い、少し高めのハスキーな声色で合図が行われた。


「!」


 ディーラーの声に反応したのはリリーだけではなかった。

 先ほどディーラーが横切った時に入れ替わったのだろうか。中性的なディーラーに参加者が色めき立つ。

 ジークが参加者に交じってばやく顔を上げ、自然な動作で辺りを見渡した。

 周りに関しては彼に任せ、リリーはディーラーを観察する。

 長い灰色の髪を一つにまとめた見た目のせいで性別の判断がつかない。女性のように身体からだの線が細いのも要因だろう。仮面から覗く赤色の瞳とあごのほくろがとくちょう的だ。


(あら、こんな所で赤色の瞳を見るなんて珍しいわね)


 リリーとディーラーの目が合う寸前、リリーはモント金貨五枚を全て二十八へと置いた。

 おもわく通り、目もくらむような大金にどよめきが上がる。

 大金に視線が向いた隙に情報をり合わせるため、リリーは彼の頭を片手で引き寄せる。

 ジークが少し息を吞んだが気にしない。


「さっきのディーラーは?」

「階段の裏に消えていった。従業員用の部屋でもあるんじゃないか?」

「確かに。ねぇ、ワンプレイでディーラーが代わることはよくあるのかしら?」

「粗相をしたのならあり得るが、ていねいな接客だったからな。ありえない」


 店のルールをしっかりと説明できるディーラーだった。だというのに、ディーラーが代わるのはあまりにも不自然だ。


締め切りですノーモアベット


 ディーラーの合図でルーレットが回り出す。ボールをルーレットへと転がす手には手袋がはめられておらず、よほど焦って交代したのだとうかがえた。リリーはボールよりもディーラーの整えられている爪につい目がいってしまう。

 ルーレットの音に紛れてジークが口を開いた。


「それと客が一人増えている。こんな奥まった場所だ。そうそう客は増えない」

「そうね。たまたま来られたとしても、会員証がなければ追い返されるだけだもの」

「だから把握もしやすかった。あぁ、一応聞いておく。あんた、命を狙われる覚えは?」

「……は?」


 時が止まった気がした。周りの音が遠のき、鼓動が早くなる。

 体に刺さった剣の冷たさ。ぽっかりと胸に開いた穴から血が流れ、命が零れる感触。

 夢で見た死の感覚がよみがえり、リリーの体から血の気が引いていく。


「悪い。嫌なことを聞いた」


 リリーのただならぬ様子に、何か思うところがあったのだろう。

 ジークは顔をリリーの頰にこすり付ける。それはなぐさめようとして行われた行動だろうが、リリーは別の意味でぎくりと体をこわばらせた。


(な、なななな)


 なんとか口から溢れそうになったせいは飲み込んだが、スキンシップが|過《か

じょうだ。


「このゲームが終わったら酒をたのむ。飲むフリをしてったと口にしろ。わかったな?」

「なんでそんなことを……?」

「わかったな?」

「え、えぇ」

「いい子だ」


 優しげな声にジークから視線を逸らせば、笑った気配がした。


(絶対からかわれているわ!)


 スキンシップに慣れていないとバレているのか、リリーが困っているのを楽しんでいると感じるのは気のせいではないだろう。


「ほら、ボールが止まるぞ」


 カツカツとボールがルーレット内を跳ね、二十八へと吸い込まれる。が、またしても勢いは止まらず、隣の七へとはじかれた。


ぜつみょうに運が悪いな、あんた」


 明らかなちょうしょうだが、顔の良さのせいで、ただ呆れて笑っているようにしか見えない。


(顔が良いと自覚している男はこれだから……)


 むっと唇を突き出し、リリーはテーブルにひじをつく。

 リリーの様子に満足したのか、楽しそうに笑ったジークがディーラーに声をかけた。


「君。彼女に合う酒をもらえるかな?」

「かしこまりました」


 独特な注文の仕方だと眺めていれば、バラの形をしたグラスが目の前に置かれる。中を確認すれば、ピンク色のどろっとした液体が入っていた。明らかに酒の見た目ではない。


(これを? 飲むフリ?)


 リリーは内心げんなりした。得体の知れない飲み物に口を付けるこうは勇気がいる。

 ジークが何をたくらんでいるのか分からない。しかし、彼は自信があるのだろう。背筋を伸

ばす姿がまぶしい。そんな自信のある態度は頼もしくもあり、少し羨ましくもあった。


(責任、取ってもらうんだから!)


 リリーはかくを決めてグラスを呷る。そして、指示通り「酔っちゃった」と口にした。



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死に戻り公女は繰り返す世界を終わらせたい 藤烏 あや/ビーズログ文庫 @bslog

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