1-2
ふと意識が
見慣れた天井が目に入り、リリーは勢いよく起き上がった。
聞き慣れてしまった
体に少しの痛みもないと驚きつつも、自身の胸に目を落とした。
貫かれたはずの胸に傷はなく、包帯すら巻かれていない。
(私、助かったの……? あの状態から……?)
当たり前の疑問に内心首を傾げながら、住み慣れた自室を見回す。
(まさかとんぼ返りすることになるとは思わなかったわ)
そのためリリーは王宮の自室に運ばれたのだと納得した。
(こんな
二階最奥に位置するリリーの部屋は、物置のような狭さだ。
事実、客室の方が広いだろう。清潔感こそあれど、母に与えられていた部屋と大差ない。
続き部屋のない一室は置ける家具も限られてしまい、片手で数えられるほどしかない。
寝台の右側にはドレッサー、呼び鈴と水の満ちたグラスが置かれたサイドテーブル。
寝台の左側には年代物のローテーブルが一つ。それを
バルコニーへと続く窓からは温かな陽光が部屋に降り注いでいる。
コツコツと小さな足音が聞こえ、ノックもなく開いた扉から赤色の侍女服が揺れる。
「お目覚めですか? リリアンナ様」
「アメ、リア……?」
「どうしました?」
部屋に入ってきたのは、
肩まで伸びたくすんだ金髪から灰色の瞳が覗く。
王宮侍女と違い赤色のお仕着せを着ているのは彼女がリリー専属侍女だという
スペンツァーが見つけてきたアメリアは
馬車が襲われた時も、彼女はリリーと共にいた。
「よかった。無事だったのね」
リリーは胸を
「なんのお話ですか?」
不思議そうな顔をしながらも近づいてきたアメリアへ、意を決したリリーは問いかける。
「あなたが助けを呼んでくれたのよね?」
「リリアンナ様が助けを呼ばれるような事態があったのですか?」
衝撃的な出来事を忘れるような記憶力でないのは、彼女と過ごした日々の中で理解している。だが、悪ふざけで冗談を言う
リリーは
「な、にを言っているの? 馬車で襲われたでしょう?」
「襲われてなどおりません。悪い夢でも見られたのではありませんか?」
「……夢?」
「はい。ですがいつまでも夢うつつではいられません。しゃんと目を覚ましてください」
顔を清めるために
(夢? 本当に?)
あまりにも生々しすぎる
冷たい剣が刺さった感覚も、
死が
「リリアンナ様。お早く。予定が
アメリアに
水桶を覗き込むため
喉からひゅっと音が漏れる。
慌てて水桶を覗き込めば、盗賊に襲われる前と変わらない自分が映っていた。
水面に映るアレキサンドライトのピアスが揺らめく。
緑に輝くピアスの奥に違う色が見える気がするが、光の加減でそう見えるだけだろう。
(どうして付けっぱなしなの……?)
救出されたのであれば、
夢だとしても、ピアスを付けたまま
疑問に思いながらも顔を清め、ごわついたタオルを受け取って顔を
「今日の予定は?」
「本日はモントシュタイン帝国の新皇帝陛下がご
「う、そ……」
「明日は夜会ですので、今日中にできる限りの執務を……。リリアンナ様?」
リリーの反応にアメリアから困惑した声が漏れる。
いやに喉が
脈打つ音が耳にこびりついて離れない。体が
影が落ちたかと思えば、心配そうなアメリアと目が合った。
いつの間にか握り込んでいたシーツを優しくほどかれる。
「あまり顔色がよくありませんね。……確か今日の執務は明日の分ばかりのはず。ですから今日は一日お休みになってください」
「へ?」
リリーは初めてかけられた言葉に戸惑いを隠せない。
弱りきった表情のリリーに、アメリアは決定だと言わんばかりに語気を強める。
「明日まで長引いては困ります。今日の予定は全てキャンセルしておきますので、安心して
「……わかったわ」
頷いたリリーを満足そうに見た後、アメリアは慣れた手つきで片付けを始める。
「食事もいらないわ。声をかけるまで部屋に入らないでちょうだいね」
「承知しました」
持ってきた物を全てまとめ、一礼をしたアメリアの背中に声をかける。
「ありがとう。アメリア」
「礼には
余計な一言を残してアメリアは退室した。
「まったく、アメリアったら。まぁアメリアがお金にうるさいのはいつものことね」
静まり返った部屋で
ぼすんと音を立てて寝台へ背中から倒れ込む。
小さく息をついて、腕で両目を覆った。
「夜会が明日って、どういうことなの? 私は新皇帝を招いた夜会には参加したはずよ」
似合いもしないオレンジのドレスを着て婚約破棄されたこと、昨日のように思い出せる。
実際、リリーの体感では一日しか
「婚約破棄されて、殿下の隣には……。あぁもう! 嫌なことを思い出したわ」
禁色のドレスを与えられた
リリーの努力を一夜にして無に帰した彼女は幸せそうだった。
「私だって、認められさえすれば禁色を着られたのに……」
呟いた願いが
雑念を
「追い出された後、盗賊に襲われて――」
そこまで思い出し、がばりと起き上がる。
「そうよ! ピアスにお願いしたわ!」
もしかしたらこれが母の言っていた不思議なことかもしれない。
「クロノス様が守ってくれたのね。きっと予知夢で危険を知らせてくれたんだわ」
それ以上の説明が思いつかない。考えれば考えるほど泥沼にハマってしまいそうだと、直感的に感じながら、リリーは見て見ぬ振りをした。
「もし夜会での仕打ちが本当なら、罪状に関連する
賭博場開張図利罪なら、王国のどこかに賭博場があるはずだ。
「王族の耳に入るぐらいだもの。城下で聞き込みをすれば簡単に場所が割れそうね」
寝台から降り、貴族らしくないワンピースへ
「
バルコニーへと足を進めながら、独りごちる。
自室の周りに衛兵は来ない。ザルな警備態勢のため、リリーならその気になればいつでも抜け出せた。今までやらなかったのは、公女としての体面を考えたからだ。
「私が関わっていないと証明すればいいんでしょう? 見つけてやろうじゃない。動かぬ証拠を」
リリーはバルコニーの
目の前の木の枝を
起き上がったリリーはワンピースについた土を払い、堂々と歩き出した。
赤い瞳に決意を灯したリリーを楽しげに眺める視線があることに気がつかずに。
*****
城下町の表通りへ行くため、リリーは城門の近くを通りかかった。
「なんでだよ!!」
フードを深く被り
「どうかお願いです! 俺達の妻子をどうか!」
「
「王子殿下でも構いません!」
「えぇい! 国王陛下も王子殿下も
言い争いをする男性達はお世辞にも健康とは言えない
その中でも一人だけ
「もう半年になるんだ! まだ見つからないなんて職務
「我々も忙しいのだ! 一つの事件ばかりに注力はできない!」
彼らを遠巻きに見ていた男性へリリーは声をかける。
「すみません。彼らは?」
「
そうなんですねと返事をして、リリーはもう一度褐色の彼を見る。
(褐色の肌は公国よりもさらに遠い異国の……)
リリーの疑問を感じ取ったのだろう。男性が話を続ける。
「この国に
「そうだったんですね。お気の毒に……」
「あぁ。嘆願書を王子殿下に出しても返事一つないんだから、彼も大変だよ」
「嘆願書を、殿下に……?」
スペンツァーの公務は、リリーが全て肩代わりをしている。
だというのに、嘆願書の存在をリリーは知らなかった。一度も見た覚えもない。
(どういうこと? 殿下が私に見つからないよう隠した? 何のために?)
普段仕事をしないスペンツァーが、自ら誘拐事件解決のために嘆願書を持ち出したとは考えにくい。何か裏があると思うのは自然なことだろう。
(帰ったら殿下を問い詰めなくちゃ)
リリーがそう心に決めていれば、男性が眉を下げて囁く。
「お
「えぇ。ありがとう」
お礼を伝え、リリーは表通りへと足を向けた。
かつて馬車から見た城下町はもっと活気があったはずだ。溢れかえらんばかりの人が行き交っていた表通りからは、人の姿がほとんど消えていた。
だが
果物や野菜のような
光をまとうのはそれだけではない。異国から持ち込まれた
(……見られている?)
肌にひりつくような視線を感じ、リリーは買い物をするフリをしながら歩みを止めた。
(きっとスリ目的ね。誘拐事件を解決してないから、治安が悪化しているのかしら?)
事件の解決は騎士団への、ひいては国への
(とりあえず私の
均等に並べられた装飾品を見るだけと思っていたが、無骨な短剣に目が
短剣の中でも小ぶりで、ドレスの中に仕込んでいても気がつかれないだろう。
(使い勝手がよさそうだわ。襲われるのなら、あらかじめ準備しなければいけないわね)
ゆったりと財布を取り出し、短剣を
財布をしまい、リリーが再び歩き出した瞬間。横からすっと手が伸びてきた。
手を摑み、相手を睨み付ける。
「捕まえた。観念しなさい。スリ犯」
摑んだ手の主は若い男性だ。二十代くらいだろうか。
冬の湖のように冷たいアイスブルーの切れ長な瞳と視線が
美の神に愛されたその容姿は、一度見たら忘れられないだろう。
暴力的な美を真正面から浴びたリリーは思わず息を吞んだ。
(スリなんてしなくても、微笑むだけで世の女性達が
高身長だがほどよく
マントの
どこかの騎士のような服装だが、マントの下の衣服にはシミ一つない。
(やっぱりスリをするようには見えない)
摑んだ手に剣だこがあったのも、スリではないかもしれないと思う要因だった。
「おい」
「いつまで摑んでるんだ。いい加減離せ。それに俺はスリじゃない」
「だったらなんで私に手を伸ばしたのよ。ずっと見ていたでしょう?」
疑問が解消されるまで離すまいと彼の手を握り込む。
すると彼は呆れたようにため息をつき、
「俺はただお前がスリに
王国に来てから護衛をつけられたことは片手で数えられるほどしかなかった。
その上、リリーは今、城を抜け出しているのだから護衛がつくはずがない。
「私に護衛なんて……っ!?」
「あ、おい!?」
「いいから、動かないで!」
陽光を浴びてきらめく金髪も、亜麻色の髪も夢で見た嫌な光景と結びついて心臓に悪い。
彼の陰に隠れながら、表通りを仲
「
「まぁ。一年先まで予約が取れないあの?」
「そうだ! 行きたいと言っていただろう?」
「覚えていてくれたの? ミア、
どうやらスペンツァーとミアで間違いないようだ。
二人を観察しながら、リリーは内心呆れていた。
(どうして殿下とラングレー令嬢が……。いえ、
今出て行き、ミアとの関係を問い詰めてもスペンツァーは反省しない。それどころかリリーが公務を
(よかった。気づかれたら厄介だもの)
笑い合うスペンツァー達を見送り、リリーはほっと息を吐いた。
「ずいぶんと
「え?」
耳元で囁かれ、
え上がりそうになった。
「ひゃあ!?」
今まで握っていた手を離し、
あわてふためくリリーを
逆光のせいか、彼の楽しそうな笑みが
「こんなひと気のない路地裏に連れ込んで、いったい何をするつもりなんだ?」
「な、なにもしないわよ!」
「そりゃあ残念だな。こんな風に――」
彼の手が肩に乗ったと理解した時には、すでに壁に押しつけられていた。
目を見開くリリーを、彼は感情の読めないアイスブルーの瞳で見下ろしている。
「――
彼は
(
リリーが見上げれば、彼の
「なんだ、口づけでもしてくれるのか?」
「なっ!? そ、そんな、は、はしたないことしないわ」
溢れ出る色気にクラクラしてしまい彼の顔から視線を落とす。
ざわついた心を落ち着けるため視線を
(
龍紋様で思い出すのはただ一つだけだ。
「モントシュタイン帝国……?」
「あ? あぁ、これか」
自身の長剣に目をやった彼はつまらなそうにリリーから離れた。
「これって扱いをしていい物ではないでしょう?」
「俺が俺の物をどう扱おうが勝手だろ」
「答えて。どうして帝国民、いいえ。皇帝に近しい人間がここにいるの?」
モントシュタイン帝国は、人間と
そのため、建国当初から龍が
直後、今まで栄えていた帝国の経済は
国民達は
皇太子が新たな皇帝として君臨し、全ての紋様を龍へ戻すと帝国は落ち着きを取り戻していったらしい。
なかなか
前皇帝の年齢を考えれば、皇太子はすでに
若さゆえの価値観か、優秀な人材であれば
目の前の彼も皇太子――否、新皇帝の目に留まった有能な人材なのだろう。
「ふぅん? なぜそう思う?」
「その飾り房。帝国の禁色じゃない。禁色を
「いやぁああ!!」
「ったく、手間をかけさせやがって」
吐き捨てた声から甲冑をまとう人物が男なのだと悟る。
振り返った甲冑男がリリー達に気付き走り出した。
「あ、待ちなさい!」
路地のさらに奥へと足を進めれば、嫌でも路地の雰囲気が目につく。
そんな目を覆いたくなるような光景が
表通りとの温度差にリリーは思わず喉を鳴らす。だが、足を止めるわけにはいかない。
「意外だな。
「怖いわよ。でもあの女性を助けるのが最優先だから、怖がっている暇はないわ」
彼の顔を盗み見れば、不敵な笑みを浮かべていた。
「違いない」
「あなたは逃げてもいいのよ」
「嫌だね。それに俺にも関係があるからな」
「? 誘拐事件は王国の問題よ。あなたが首を突っ込む必要はないわ」
「ふっ。
「丸腰じゃないわ。さっき買った短剣があるもの」
マントの中から短剣を覗かせれば、彼は楽しげな声で笑う。
「強気だな。そういう女は嫌いじゃない」
「そりゃあどうも」
「俺はジーク。あんたは?」
名をたずねられ、リリーは言いよどむ。
「……リリーよ」
本名を告げるわけにもいかず、
「なぁ。リリー」
「いきなり呼び捨て? ……まぁいいけれど。なに?」
「紋様が変わったのはつい一ヶ月前だが、それはあんたが帝国の内情にも
「っ、それは……」
言葉に詰まる。自分で
笑いを押し殺すような声が聞こえ、ふとジークを見上げれば小さく肩を揺らしていた。
「からかったの!?」
「どうだろうな? そら、追いついたみたいだぞ」
あからさまに変えられた話題にむっとしつつも、視線で示された先へ目を向けた。
甲冑男が逃げ込んだのは、異質な二階建ての建物だ。
路地奥のさらに奥。あると知らなければ訪れない場所に、その建物はあった。
一階の窓ガラスは
「変な建物ね」
「だな。気づいているか? あんた見られてるぞ」
「分かっているわ」
この場所に来てからずっと見られている。
リリーが視線を感じた方を見上げれば、三階の窓から睨む瞳と目が合った。
テラコッタの瞳が驚いたように見開かれ、マルベリー色の髪が慌てたように窓辺から離れていく。見覚えのある髪色。母譲りのその色の持ち主は――。
(ソフィアお姉様? こんな所で何を……?)
同腹の姉であるソフィアがいる場所は何の建物だろうか。
「知り合いか?」
「えぇ。ちょっとね」
少し目を見開いたジークが、すぐに表情を消してしみじみと呟く。
「ふーん? ……似てねぇな」
その言葉はリリーの耳には届かなかった。
「ねぇ、あの建物、何の店かしら?」
「あそこか? 喫茶王冠だな。貴族が好んで行く高級店で、面白い場所ではないぞ」
「喫茶王冠……?」
つい先ほど聞いた単語に、リリーは納得する。
(いかにも殿下やソフィアお姉様が好きそうな店だわ)
それよりも、とリリーは目を異質な建物へと向ける。
「私はこれから甲冑男が入った建物に乗り込むつもり。引き返すなら今のうちよ?」
「はっ。冗談だろ?」
好戦的に口角を釣り上げたジークはまるで得物を見つけた獣のようだ。
「じゃあ
ジークが異質な建物の扉を開く。そこにはリリーの知らない世界が広がっていた。
むせ返りそうなほど
薄暗い室内の天井には品のないシャンデリアが飾られていた。ゴテゴテと装飾の付いたそれに火は灯
ともっていない。代わりに照明の役割をしているのは
テーブルではビリヤードを。カウンターではトランプやルーレット。
(カジノ!? やっぱりあったのね……!)
王国ではカジノは全て違法である。そのため今の今までカジノの存在すら気がつかなかったリリーに罪を全て
(深入りは危険だわ。でも、冤罪の原因であるこの場も見ておきたい……)
無意識に歯を食いしばっていたのだろう。ぎりっと口内に響いた音で我に返る。
ジークに目を向ければ、なぜか彼もこちらを向いていた。
思わず視線を
(まるで仮面
さっと室内を見回すが甲冑男の姿はない。奥へ目をやれば階段を見つけた。
(二階に上がったのかしら?)
階段に目を向けていると、後ろから伸びてきた手がリリーの鼻と口を覆い隠す。
視線だけで見上げれば、ジークも同じように鼻と口を隠すように覆っていた。
「あまり
「それってどういう……」
「ようこそ! 会員証の提示をお願いします!」
リリーの声を遮るように話しかけてきたのはドアマンだ。
(会員証?)
初めて来たのだから、リリー達が会員証を持っているはずがない。
どうする? と目で
「さっき甲冑を着た人がここに来たと思うのだけれど、知らないかしら?」
「甲冑を着た……? いえ。見ておりません」
顔半分が隠れた仮面のせいで表情が読めない。
出入り口はリリーの後ろにある扉しかないため、見ていないというのもおかしな話だ。
だが、これ以上何を聞いたとしてもドアマンは答えてはくれないだろう。
「そう。変なことを聞いたわね」
「いえ。それで会員証を……」
ドアマンが言いかけたと同時に、後ろの扉が開いた。
「お二人さん。先に行かないでおくれよ。一緒に楽しむって約束したじゃないか」
現れた褐色の男は、旧知の仲のようにジークの肩を抱く。
(この人、被害者の会の……? ジークとどういう関係なの?)
見覚えのある彼は、城門で門番に詰め寄っていた被害者の会代表だ。
「あぁ。悪い。待ちきれなくてな」
「仕方ないなぁ。はい、これが会員証さ!」
「会員証の提示ありがとうございます。それではこちらをどうぞ」
「どーもー!」
代表は
「お嬢さんもどーぞ」
「あ、ありがとう」
手渡された仮面を付けながら、リリーは代表を改めて観察する。
身長はジークと同じぐらいだろう。ジークとは違って野性味のある顔立ち。王国では
(ジークの知り合いなのは確かよね。さっき城門で見た時と全然雰囲気が違うわ)
リリーの視線に気がついた代表が口を開く。
「ぼく、レヴェリー。よろしくね、可愛いお嬢さん。あ、そこ段差あるから気をつけて」
「あ、ありがとう」
「ん」
自然な動作で差し出されたジークの手に自身の手を重ねる。
仮面を付けた三人は奥へと進んだ。
勝った、負けたと盛り上がる室内を進みながら、リリーはやっぱりと納得した。
(会員制なのは
全身を舐め回すような視線は感じるものの敵意は感じられない。
同じような視線をジークも感じているようで、先ほどから僅かに眉を寄せている。
「ジークがこんな可愛い子を連れてくるとは思ってなかったよ」
「うるさい」
「まったまたぁ! 照れることないじゃないか! ぼくとジークの仲なのにさ」
「……
冷たくあしらわれてもめげないレヴェリーに、リリーはつい口元が
気が緩んだリリーを
「やっぱりお嬢さんには笑顔が似合うや! ジークもそう思うよね?」
「はぁ。レヴェリー。甲冑を着た男だ」
「もー。まぁいいや。
そう言ったレヴェリーは、ひらりと手を振ってカジノの奥へと消えた。
(え? さっきまでそこにいたのに、あの目立つ容姿を見つけられないなんて)
リリーが目を丸くしていると。ジークの腕が腰に回った。力強く引き寄せられ、リリーの口から
「ちょ、ちょっと。レヴェリーはどこに……」
「放っておけ。そんなことよりも、これからどうするかを考えた方がいいんじゃないか」
「やっぱり
「それはアレに任せておけ。手出しは無用だ」
「そうは言っても甲冑男を追いかけて来たのよ? 他に何をすればいいの?」
「来たからには何かゲームをしないとな。ほら、すでに怪しまれている」
もっともな言い分に反論の余地はない。
先ほどから視線が厳しいものに変わっていると、リリーも感じていた。
(せめて女性だけでも見ていないか聞こうと思っていたけれど、これは無理そうね)
声をかけられるような雰囲気でないのは明らかで、無理に強行すれば余計目立ってしまう。そのためリリーはゲームに興じる人達に声をかけるのを断念した。
(ジークはああ言っていたけれど、やっぱり少しは私達も捜すべきじゃないかしら?)
階段に目をやり、どうにかして上がれないかと思案する。
(二階も怪しいと思うのだけれど……)
リリーが階段を見ていると気がついたのか、ジークが呆れたようにため息をついた。
「その様子じゃ二階がどういう場所か、想像もついていなそうだな」
「どういうこと?」
「まぁいい。行きたいなら連れていってやる。その代わり一ひと
「わ、わかったわ」
リリーは人の集まるテーブルまでエスコートされ、ジークが引いた
目の前の緑色のテーブルはディーラーが代わったばかりのようで準備中だった。
リリーはゲームの用意を進めるディーラーへと目を向ける。
身長の低い男性だ。短く切り揃えられた
(男性が爪を塗るなんて珍しいわね)
ルーレットの前に立つディーラーが小さなボールを握ると、手元を照らす蝋燭の光で金色の腕時計がきらめく。
(あら? あの腕時計、どこかで……?)
腕時計は値段が高く、
「
しかし、リリーが思い出そうと頭を
目の前には赤と黒の数字や文字の書かれた緑色のテーブルがあり、何をする物なのか分からないリリーは周りを観察することにした。
変声期のようなディーラーの
王国の通貨であるディア硬貨でないことに、リリーは眉を寄せた。
(どうして帝国の通貨が使われているの? しかも鷹紋様の硬貨は旧硬貨じゃ……?)
後ろに立つジークから怒気を感じる。だが口を開く様子はない。
たったそれだけのことで小さなどよめきが起こった。
(え、なに? もしかして高価すぎたかしら? でも銀貨も置かれているし……)
一般的な平民であればディア銀貨一枚で一週間は不自由なく暮らせる。
大金と言えば大金ではあるが、ディア金貨よりもマシだろう。もし
そこまで動揺させるようなお金だろうかとリリーがディア銀貨を見つめていれば、ディーラーから申し訳なさそうな声がかかる。
「申し訳ありません。当店はモント硬貨のみのお取り扱いとなっております。両替が必要でしたらこちらで行いますが、いかがなさいますか?」
「……仕方ないわね」
リリーの手元にはディア硬貨しかない。ディーラーにディア銀貨を渡せば、鷹紋様のモント銀貨が十枚手渡された。手にのった銀貨の多さにリリーは焦る。
(今の相場だとディア銀貨一枚ではモント銀貨一枚にも満たないはず。せいぜいモント銅貨五十枚でしょうに)
しかし二人のやり取りを見ていた周囲の客に驚いた様子はない。
(こんなに安く両替できてしまったら、帝国硬貨の価値が暴落してしまうわ)
手渡されたモント銀貨をまじまじと見つめていると、ジークの手が肩に乗った。
「ここは俺に出させてくれないか?」
そう言いながら彼はテーブルに数え切れない量のモント金貨が入った
目が飛び出そうなほどの大金にリリーが
(何を平然としているのよ!? こ、こんな大金を持ち歩くなんて、本当に何者なの!?)
リリー同様、龍紋様のモント金貨の山に参加者もディーラーも固まっていた。だが、ディーラーはすぐに立て直し
「十分にございます」
「よかった。じゃあそれはしまっておいて」
ジークの行動の意味は分からないが、彼の指示通り鷹紋様のモント銀貨を財布に入れた。
「ほら、リリーがずっとやりたがっていたルーレットだ。好きに賭けて?」
とろけるような優しい笑みと声色で名前を呼ばれる。
リリーが驚きで固まっていると、ジークが耳へと唇を寄せてきた。その唇は綺麗な
「一芝居。俺とあんたは
体勢を戻した彼から本当に恋人になったと
綺麗なアイスブルーの瞳に見つめられ、リリーの胸がどきりと跳ねた。
(噓だと分かっていても顔が良いと恥ずかしくなってしまうわね)
単なる芝居だというのに、リリーの心は正直に反応してしまうのだから笑えない。
「リリー?」
「なんでもないわ」
テーブルに置かれた袋から金貨を一枚取ったリリーは、どこに賭けようかと緑のテーブルへと目を向けた。
多くの賭け金が置かれているのは黒と赤のひし形が描かれた区画だ。その次に多いのは一から十八、十九から三十六と書かれた区画で、順に
(とりあえず、ここに置いてみましょう)
リリーはルーレットのルールを理解していない。人と同じ場所に置いても意味がないと判断し、誰も賭けようとしない数字の書かれた区画へ手を伸ばした。
五と書かれた赤色区画に賭け金を置く。
銀や銅の
満足そうに頷いたリリーとは反対に、参加者は
「ストレート・アップ、ねぇ?
からかいを含んだジークの声が上から降ってきた。
「ストレート・アップ……?」
「なんだ。知らずに賭けたのか?
「さっ!?」
ルールも
(だから誰も置いてなかったのね。人のお金でなんてことを……)
リリーの顔に焦りが浮かぶ。
「
ディーラーの合図でボールがルーレットへと転がった。
軽い音を立てボールがルーレット内を転がり続ける。ゆっくりと勢いが落ちていき、五と書かれた赤色のポケットへ入りかけ、隣の黒の十で止まった。
残念がる声と嬉しそうに
「惜しかったな」
「はずれははずれよ」
「ならもう一回だ」
「うぇ?」
モント金貨を五枚握らされ、リリーの口から変な音が漏れた。
頰が引き
「笑顔が引き攣ってるぞ」
「誰のせいよ。誰の」
「そりゃ俺のせいだろうな」
「分かっているなら、そんな大金渡さないで」
「たかだかモント金貨五枚が大金ねぇ? あんた本当に貴族か?」
「う、うるさいわね」
顔を寄せ合いニコニコと会話するリリー達は、端から見れば仲睦まじい恋人同士の
にしか見えないだろう。
ひそひそ会話するリリー達の前をディーラーが一度横切り、戻ってきた。
「いいから。もう少し付き合え」
「あとで返せって言われても返せないわよ?」
「俺がそんな小さい
「……見えないわね。もう、分かったわ」
モント金貨五枚を握りしめ、リリーが前を向けばディーラーがゲームの始まりを告げる。
「
先ほどのディーラーとは違い、少し高めのハスキーな声色で合図が行われた。
「!」
ディーラーの声に反応したのはリリーだけではなかった。
先ほどディーラーが横切った時に入れ替わったのだろうか。中性的なディーラーに参加者が色めき立つ。
ジークが参加者に交じって
周りに関しては彼に任せ、リリーはディーラーを観察する。
長い灰色の髪を一つにまとめた見た目のせいで性別の判断がつかない。女性のように
(あら、こんな所で赤色の瞳を見るなんて珍しいわね)
リリーとディーラーの目が合う寸前、リリーはモント金貨五枚を全て二十八へと置いた。
大金に視線が向いた隙に情報を
ジークが少し息を吞んだが気にしない。
「さっきのディーラーは?」
「階段の裏に消えていった。従業員用の部屋でもあるんじゃないか?」
「確かに。ねぇ、ワンプレイでディーラーが代わることはよくあるのかしら?」
「粗相をしたのならあり得るが、
店のルールをしっかりと説明できるディーラーだった。だというのに、ディーラーが代わるのはあまりにも不自然だ。
「
ディーラーの合図でルーレットが回り出す。ボールをルーレットへと転がす手には手袋がはめられておらず、よほど焦って交代したのだと
ルーレットの音に紛れてジークが口を開いた。
「それと客が一人増えている。こんな奥まった場所だ。そうそう客は増えない」
「そうね。たまたま来られたとしても、会員証がなければ追い返されるだけだもの」
「だから把握もしやすかった。あぁ、一応聞いておく。あんた、命を狙われる覚えは?」
「……は?」
時が止まった気がした。周りの音が遠のき、鼓動が早くなる。
体に刺さった剣の冷たさ。ぽっかりと胸に開いた穴から血が流れ、命が零れる感触。
夢で見た死の感覚が
「悪い。嫌なことを聞いた」
リリーのただならぬ様子に、何か思うところがあったのだろう。
ジークは顔をリリーの頰に
(な、なななな)
なんとか口から溢れそうになった
》
「このゲームが終わったら酒を
「なんでそんなことを……?」
「わかったな?」
「え、えぇ」
「いい子だ」
優しげな声にジークから視線を逸らせば、笑った気配がした。
(絶対からかわれているわ!)
スキンシップに慣れていないとバレているのか、リリーが困っているのを楽しんでいると感じるのは気のせいではないだろう。
「ほら、ボールが止まるぞ」
カツカツとボールがルーレット内を跳ね、二十八へと吸い込まれる。が、またしても勢いは止まらず、隣の七へと
「
明らかな
(顔が良いと自覚している男はこれだから……)
むっと唇を突き出し、リリーはテーブルに
リリーの様子に満足したのか、楽しそうに笑ったジークがディーラーに声をかけた。
「君。彼女に合う酒をもらえるかな?」
「かしこまりました」
独特な注文の仕方だと眺めていれば、バラの形をしたグラスが目の前に置かれる。中を確認すれば、ピンク色のどろっとした液体が入っていた。明らかに酒の見た目ではない。
(これを? 飲むフリ?)
リリーは内心げんなりした。得体の知れない飲み物に口を付ける
ジークが何を
ばす姿が
(責任、取ってもらうんだから!)
リリーは
次の更新予定
死に戻り公女は繰り返す世界を終わらせたい 藤烏 あや/ビーズログ文庫 @bslog
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