夢から怪我へ

 ※虫が登場するシーンが含まれていいます。閲覧の際はご注意下さい。




 氷山の一角。


 なぜか、寒さを感じない。


 台地が立つのは、その一角の端。

 自分以外に誰も立っていない。


 目の前の氷には、ところどころ、何かが埋まっている。


 「あ――」

 太陽の光が、差し込んできた。


 するとどうだろう?

 何かが埋まっている氷が、どんどん解けていくではないか。

 台地は目を見開いた。


 一体は、知らない大人の男性だ。

 一体は、白猫。

 一体は、お腹が大きい母・梨絵。妊娠しているのだろうか?

 そして最後の一体は――。


 「ヒッ!!」

 台地は後ずさりした。

 その最後の一つは、水回りで時おり見かける、黒くてカサカサした生き物。


 巨大ゴキブリだ。

 しかも、その手には血の付いた刃物が握られている…!


 「はぁ…! はぁ…! くるな!!」


 台地は逃げた。逃げ続けた。

 ただでさえゴキブリなんて気持ち悪いのに、さらに相手を殺す勢いで襲い掛かってくるなど、まさに悪夢そのものであった。


 「キィィィィィィィー!!!」

 ゴキブリが、あっという間に台地に追いついてしまった。

 ひどく甲高い声。刃物を振り上げ、転倒した台地へと近づく。

 「うわあぁぁぁぁぁー!!」


 ――――――――――


 「あぁぁぁぁ!!!」

 自然と、固く握りしめた拳が、勢いよくどこかの方向へと飛んでいった。


 何かが拳に当たった。

 パリン、と割れる音が聞こえた。


 台地の抵抗は、目が覚めた現実世界にも響いたのであった。

 台地の拳から、ポタポタと血が滴っている。台地は開いた拳を震わせながらうずくまった。


 「いってぇ… クソがっ!!!」


 悪夢だ。

 目が覚めて早々、ものを殴打し、手に切り傷を負ってしまったのだ。

 しかも、割ったのは就寝前に水を飲んだ空のグラス。無残にも破片が砕け散っている。

 台地は、血が滴る手をもう片手で押さえながら、その痛みと熱さに顔をしかめた。


 「台地!? どうしたの、大丈夫…!?」


 先の台地の叫び声を聞いた梨絵が、心配な表情で駆けつけてきた。

 ガラスの割れる音まで響いたなら、息子がケガに見舞われたのではないかと、母が心配になるのも無理はない。

 「!!」

 梨絵は口元を両手で覆った。

 一気に、青ざめた表情を浮かべる。台地はなお、自らの手の止血に必死だった。




 …。




 「悪夢を見たはずみで、殴った先がグラスだったという、ね。まぁ夢を見る見ないは人それぞれだし、もし心配なら、次からは寝床の近くに割れ物を置かない方がいいでしょうね」


 医者に、呆れ気味にそういわれた。

 母とともに、すぐさま向かった病院にて、台地は一通り手当を受けた。

 幸いにも針を縫う程の怪我ではなく、包帯を巻いてもらった事ですぐに止血できたので、あとは本人の希望でこのまま通学が可能であった。




 「関数f(x)の導関数f′(x)を求めることを『微分する』といい、これは関数f(x)の――」


 いつぞやの様に遅刻した台地は、この日の通学を後悔した。


 ――ノートに、文字を書き写すことができない…!

 そう。ケガを負った事で、指を動かせられないほどの包帯を巻かれたのは利き手だ。

 だから、ペンを持つことができない。その問題を考慮しておくべきだった。


 「ではこの問題を… 園田。黒板に書き記しなさい」

 「え? あの、すみません。俺、この通り手をケガしてしまって」

 「お? なんだ、そうだったのか。じゃあ――」


 なんて、教員から指名された時とその断りには、正直かなりの抵抗があったものだ。

 それでも教員は、特に何かケガの面で心配するといった素振りはなく、淡々と別の生徒を指名する。台地は大きな溜め息をついた。




 「なにあれ。何処かで人でも殴ったの?」

 「え、ヤバ。でもなんかさー、あいつ最初見た時からどうも危なそうな感じ出てたよね」

 「うんうん。しかもこの時期の転校でしょ? ぜったい何かやらかしたっしょ」

 「だな。あのオカルトに目ぇつけられる時点で普通じゃねーよ」

 「ねー。こっわ、下手に話しかけんとこ」


 クスクスクス… と、教室の一端からは陰口や笑い声が木霊する。

 明らかに台地のことだ。だけど、台地はあまり気にしない素振りを見せた。


 いつしか、クラスでの台地の印象はガタ落ち。

 だけど、それがどうした? と、彼は鼻で笑っていた。

 いじめが横行しているであろう底辺校のことだ。きっと最初だけだろう。無視を続けていれば、そのうち誰も自分の悪口を言わなくなる。台地はそう見込んだのであった。




 そしてお昼休み。

 一人、食堂のカウンターで弁当を開け、食べようとしたその時であった。


 「あれ? 園田くんじゃない。食堂にも足を運んでいたのね」


 ナオだ。

 部活動を除く、意外な対面であった。

 彼女もまた一人、そちらは食券を買い、書かれた番号が呼ばれるのを待っている。台地は座ったまま、ナオに挨拶した。


 「どうも」

 「こちらこそ。その手は、どうしたの?」

 「あー。ちょっと、朝起きる時のはずみで、近くのグラスを割っちゃって」


 と、気恥ずかしげに説明する。ナオは痛そうな顔をし、隣の席に座った。

 「え」と、台地は僅かに驚いたものだ。まさか、自分の隣を女子が座ってくるとは。


 「そういえば、少し気になった事が」


 ナオが注文した食事が出来上がるのを待っている間、台地はナオに声をかけた。

 少し前に、杯斗から聞かされた部活動の情報だ。だけど、ずっとその事・・・を訊かずにいた。

 「どうしたの?」とナオがいう。台地は、渋々とした表情でこう尋ねた。


 「少し前に、杯斗から聞きました。夢占い同好会は昔、『お悩み相談』もやっていたと」

 「…あぁそれね。うん。確かに最初のうちは、そっちをメインに活動してたんだけど、すぐに寂れちゃって。今はこの通り、自分で自分を占うしか、やる事がなくなっちゃったわ」


 と、意外にもあっさりお悩み相談の存在を明かした。

 あの部活動も、最初は人のために動いていたのか。と、台地は感心したものだ。

 だけど、まだ気になる点が残っている。台地はそれも、物怖じせず質問を返した。


 「それなんですけど。どうして、この学校でお悩み相談をやろうと?」

 「え? それはもちろん…」


 その時、ナオが持っている食券の番号が呼ばれた。

 ナオは先に注文品を取りに向かった。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る