第35話 ふと檸檬の香りがした
ようやく思い出せた。長い長い三日の旅が終わりを告げた、そんな気分に浸れている。
しかし現実は残酷で、どうにも私は「人殺しの再来」をやってしまったのではないかという後悔に苛まれている。エンパスに、私はもう必要なかったのではないかと。
別にわかっている。
意図しない人殺しであったと、これは事故であると、LPTとヘッドスペースギアと私の間に起きたミスであると、私の元に背負うべき責任がないことも、わかっている。
やってしまったことは仕方ない。それも一つの過去であり、事実であり、この手に残る傷である。
泣き疲れたあとのように頭が痛い。ぼんやりとした思考の中で、私は無意識に、そして半年ぶりに、カーテンと窓を開けてベランダに出た。
ワンルームのマンション四階から見える景色はほぼ壁だった。少し離れた先にある高い建物の壁を見つめることになる。あれもマンションだっただろうか。
ちょっと目線を下げれば道路や街頭、その奥に見える住宅街の並びを見ることができる。深夜帯に足を突っ込んだであろう時間帯、並大抵の一軒家には明かりは灯っていなかった。それに対して向かいの建物のそれぞれの部屋には明かりがついている。
冷たい風が火照った頬を撫でては去る。心は凪いでいる。頭はすっきりしていくが、鼻は依然として詰まったままだ。
暗闇から影がのそりと動き出して、私の隣に並ぶ。姿形こそ曖昧だが、影も私の一部であることを知っているからこそ、妙な安心感があった。ひとりなのに、ひとりじゃない。言うなれば、幻覚の一つ。
『やっぱり私は人殺しだったね』
私は驚いて、目を見開いたまま固まってしまった。
今まで自責の言葉を向けてきたことはあっても、こんな風に語り掛けてくることは無かった。よっぽど今の私は精神が参っているらしい。
「……そうみたいだ」
『この半年、辛かっただろう? 私もすごくつらかった』
やはり私の一部なのだと再確認するが、どうにも現実のように思えない。
『もう、終わりにしない? 犯罪者でいるのは辛いからさ』
ああ、そうか。こいつは――私は自分のことをどこかしらで殺したいと、ずっと思っていたのか。
『楽になろう? いっそ、ここからダイブしてしまおうか。きっと楽しいよ』
影の言葉に対して、私は返事をしなかった。
『ねえ、何か言ったらどう? 私はあなたの最大の……理解者だしさ』
冬の外の空気は凍てつくような寒さだった。ただ少し風を浴びただけなのに、身も心も冷え切ってしまった。
『相談にも乗るよ。楽な方に導いてあげる』
「寒い。中に入る」
『……流石私、すごく自分勝手だね』
部屋の中に入って影が部屋の中に入ってくる前に窓とカーテンを閉めた。幻覚なのだから追い出しても意味は無いのだけれど、私は生きるという意思をもって抵抗する。
もう死ぬ気はない。明確に一線を引いたとも言える。
しかし、別の考えはずっと残っている。
――こんな犯罪者はエンパスにいるべきでない、と。
エンパスは心地の良い空間だった。関係性も、空気感も、その全てが好きだった。私がその全てを享受しているように、私も他の皆にそれらを与えている。その与える側に害ある者がいてしまったら、私の大好きなエンパスが崩れていってしまう。そんなのは、嫌だ。
私は再びパソコンの前に座った。ゲーマー向けのトークアプリである〈チョコチャット〉を起動する。
〈チョコチャット〉というアプリは通話やチャットができるのだが、他の機能としてフレンドが何のゲームをやっているか、などオンライン状況が把握できるものだった。
恐ろしいほどたくさんの通知が溜まっていた。エンパスとしてのグループチャットにも、個人に対してでも、未読のメッセージが「+999」と表示されるくらいには放置していたということになる。
フレンド欄にはエンパスしかいない。その全てがオンラインになっており、「Log:// Phantom Trigger をプレイ中」と表示されていた。見慣れた画面であり、懐かしいと感じる。
「……ん、あれ?」
気づくのにワンテンポ遅れてしまった。
フレンド全員がオンラインになるはずが無いのに。今日はまだ三日目の一時過ぎ。
レモネードは、まだ受験のはずでは? なのにどうしてオンラインで、また、LPTの世界にいるんだ?
「おかしい。まだ今日……せめて今日の夜とかに帰ってくるんじゃ」
今日の夜、という言い方をするとまた難しい話だが、午後六時以降と定義しよう。
受験を目前に控えて前夜で詰め込むという勉強法こそあるが、睡眠時間を減らしてしまうため結果が良くなるどころか悪くなる可能性だってある。聡明なレモネードならそれぐらいわかっていそうだが、こんな時間にログインしているからには何か理由があるはずだ。
もしそれが、私のせいだとしたら?
私のせいでログインしているのであれば、早く私もログインして早急に問題を解決しなければならない。
『待て、私。またお前は――』
「うるさい。失せろ」
影の語りに気を取られる訳にはいかない。
レモネードはどこか献身的な部分がある。行き過ぎたものは自己犠牲とも呼ばれるが、今回はまさにそれのように思えた。
彼には彼の人生を大切にしてほしいという思いが、私の中の問題よりも上回る。
――レモネードに、会わなければならない。
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