第32話 「どこにあるかわからない」状態

「トラウマってさぁ、あの事件全部含めて? それとも誹謗中傷の方? 両方?」


 誹謗中傷のトラウマは癒えつつある。その自覚はあった。


 なぜならば鍵穴天覗やトパースがその向き合い方、対処の仕方を教えてくれたからである。そのアドバイスを受け入れて、心に馴染ませつつある段階だが、それでも幾分かマシになった。


 今ならSNSも見られるかもしれない。我が家が汚すぎるせいで、パソコンやスマホに辿り着けないだけで。


「誹謗中傷はマシになったよ。鍵穴天覗とかトパースに色々、アドバイスをもらったから」

「うーん? じゃあ余計にわからない。正直俺は何でそんなに苦しんでるのかわからないんだよね」


 神成の顔が強張った。トパースが息を呑んだ。雪柳の口が少し開いたままになった。私の頭の中は空っぽだった。

 鼠氏から攻撃しようという気配を全く感じ取れなかったから、心の準備をしていたなかった。



「だって、ヨミは最初から誰のことも殺してないじゃん。そうでしょ?」




 私に足りなかったピースは、直接事件を思い出すような不意打ちだった。


「――っ!」


 居ても立っても居られなくなり、私は慌てて立ち上がる。ぐらりと視界が歪み、立っていられなくなるがそれでも仲間から距離を取ろうと、離れようと必死だった。


「このっ……ノンデリっ!」


 トパースが鼠氏を叱る。もはやそれに対して何か感情を抱くことは無く、胸の奥底からどろどろと湧き出る苦しさで周りが見えなくなっていく。


 神成はリビングから去った。


 雪柳は私の傍に来ようとするが、彼の伸ばした手を振り払い、なんとか近づけまいとする。


「わた、私は……運良く捕まってないだけの、ひと、人殺しで……もうそれが、世間に知られてて」


 ぼろぼろと零れる涙。震える声を必死に絞り出す。


「違う、そんなことないわ。ヨミちゃん、落ち着いて……」

「わ、私のせいじゃ、じゃないってわかってても、罪の意識は、根深く、植え付けられてしまって」


 過呼吸。必死に、必死に生きようとする私が、嫌いだ。

 そのまま死んでしまえと、何度、何度願ったことか。


「現実も、ネットにも、私の居場所が無いの。だから『エンパス』しか、もう……」


 エンパスの場に居てはいけないと、何度考えたか。

 そこしかないのに、そこを手放すのはどうかど、最後の正常な意思で踏みとどまった。

 言うなれば、命綱。





「私の未来はとっくに摘まれて、私は私の死を想うしかないの」

 ――誰かの今日を摘み、誰かの死を想え。




「天使の輪を、白い翼を失った開拓者は、虚無の中で死にゆくことしかできないの……」

 ――全ての価値は空にある。空から離れれば虚しさしか残らない。




 ありとあらゆる光や動きが強い刺激に感じられて、それらすべてに耐えられない。

 重くのしかかってくるような酷い頭痛と耳鳴りに意識が向き、仲間たちの声を聞き取ることができずにいる。


 嫌な汗がどろどろと身体を湿らせていく。



 気が付く頃には、現実に引き戻されていた。もう、いつもこうなんだ。






 現実の私も汗でびっしょりだった。背中も、手も、暑いのか寒いのかわからないが、ただ湿って気色が悪い。


 LPTに三十分はログインできない。これもこれでいい機会だと思いながら、そっと身体を起こす。


 死ね、死ね死ね。ゴミ、ゴミ、ゴミ。人殺し、人殺し。


 暗い部屋に濃い影が佇んで、私を責める言葉を呪詛のように呟いている。


「……うるさい」


 それでも声は止まない。ラジオのように聞きながら、やるべきことをやるしかないようだ。


 私が常に使っているベッドの横には、デスクトップパソコンが置かれた机と椅子が置いてある。


 しかし、その周辺はゴミやら書類やら衣類やら段ボールやらが放置されていて、使える状態ではなかった。


 何の後先も考えずに、それら全てを床に落とす。かなりの労力を消費したが、パソコンが使える最低限の状態を確保した。半年ぶりに電源をつける。放置しすぎたせいで動くかどうか、一瞬不安に思ったが、どうやらちゃんと動作してくれたようだ。


 薄暗い部屋、パソコンとヘッドスペースギアの光だけが私を照らす。影がより色濃くなってそこに佇む。


 影は私を責め続ける。それが自責であることはわかっていたが、それでもうるさいものはうるさい。


「うるさい。やめろ」


 影は私の首をそっと掴む。腕を掴む。胴体に腕を通す。どこかに引きずろうとする重さを感じた。


 この部屋には、首を吊るためのロープだって、リスカ用のカッターだってある。



 でもそれらを「どこにあるかわからない」状態にするまで、かなりの時間がかかった。



 自我と狂気のせめぎ合いの末、奇跡的に自我が勝ったおかげだ。


「違う……違う、だめだ、私は……」


 私は殺した? 殺してない? 殺した? 殺した?


 正しい記憶を思い出さなければならない。

 残酷でも、現実でも、それが私の一部であることには変わりない。

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