Ep.2 柳の下に立つ女には影が無い
第9話 仮想現実に肺は無い
荷物を箱に仕舞った後、私は特にやることもなかったのでリビングへと戻った。
リビングの中心にはこげ茶色のローテーブルが置かれていて、その周りには様々な種類の椅子が置かれている。
私がよく座るのは一人用の深緑色のソファ。この隠れ家で過ごし始めた最初の時からずっと同じ椅子を使っているため、古くなってしまってクッション性が失われつつある。そこに私は腰掛けて、ふぅ、と一息ついた。
「まだ復帰は早かったのかなぁ……、いや、でも今日じゃなきゃ二度とログインできなかっただろうな」
毎日を落ち込んだ気分で過ごしていた。これを「鬱」とか「病み」とかそういう言葉にまとめたくはないが、それに似たようなものだとは思っている。
調子の良い時と悪い時で、できることには大きな差があるのだ。
そりゃあ、調子が良い時はなんだってできる気分で過ごせる。外出もできるし、仕事探しとかやっちゃうし、掃除なんかにも手を出す。今日なんかはすこぶる調子が良かったのだ。だからLPTに戻ってこれた。
調子が悪い時は言わずもがな。何もできない。ベッドから動けない。
「明日の調子次第ではあるか……」
「なにがや、またクヨクヨしとんのか?」
いつの間にか神成が傍に立っていた。自室で着替えたのか、水色とオレンジ色の派手なセーターに服が変わっていた。
「クヨクヨはしてない。てか、その二色好きだね」
「ん? まぁな。明るい色ってテンション上がるやろ。てかヨミも着替えたら? 装備重いやろ」
「もう着替える気力も無くてね。巷で話題の風呂キャンセル界隈と似たようなものさ」
「俺ぇ……、風呂結構好きな方やからそれわからんねんな。感覚が」
「普通に面倒ってこと」
「あーね、ならまぁわからんでもないか」
そう言って神成は煙草の箱をインベントリから出現させた。ライターも出現させた後、慣れた手つきで一本抜き取り、……煙草を吸い始めた。ここ、地下室なんだけども。まぁゲームだから換気を気にしなくていいんだけども。
でも、その様は確かにかっこよかった。煙草を肯定するわけではないが、顔の良い男が毒の煙を吸う様というのはまぁ絵になる。
「現実でもまだ吸ってるの?」
「まあ多少はね。最近は仮想現実の煙草の質も上がってきて、吸った気にはなれるから。リアルで吸ってる量は明らかに減ってきてるけど」
「VRで禁煙できる時代が来たのか……」
私が勝手に衝撃を受けていると、神成は話を続けた。
「ほら、最近あんじゃん。VRの中で飯食った気になって満足してたら、ヘッドスペースギアに無理やり起こされて、現実では飢餓直前だったみたいな話。あれと一緒。現実に戻ったら途端に吸いたくなるから、完全な禁煙とまではいかへんやろうよ」
ヘッドスペースギアとは、LPTをプレイするために必要なVRゲーム機である。
元は医療用のバイタル管理に使われる精密機器だった。ヘルメットのような形で頭を覆い、身体全体の健康状態を常にチェックするというもの。患者さんの急変に一早く気づくことができるという利点のほか、寝たきりの状態でも簡単に装着できるため、今でも現場で使われている。
仮想現実の世界で様々な体験をするためには、ありとあらゆる感覚を掌握しなければならない。VR業界と医療業界の連携が生まれ、長い月日が経ち、ゲームとして作り上げられた。
そんな背景もあったからか、現実の人体のバイタルを常に管理し、異常が生じれば強制的に仮想現実の世界から切り離す。そんな緊急離脱システムが備えられているのだ。
「現実にもその感覚を引き継げたら、禁煙が進むのに」
命の危機でも緊急離脱システムは作動するが、作動すること自体はそれほど珍しいことではない。
前に見た「ヘッドスペースギア 緊急離脱システム作動の原因TOP5」というウェブの記事では、「排泄」が一位だったっけな。誰にでも起こる尊厳の危機だ。きちんと作動してくれないと色々なものを失うことになる。命よりは大事じゃないけど。
「現実にも引き継ぐって言うけどさぁ……。それこそ、VRと現実の区別がつかなくなるんちゃう?」
「それは確かに、一理ある」
でも、神成も私も起きてる時間のほぼすべてを
現実を捨てて、作り物の世界で生きる人たちなんて、皆余程の事情を抱えているのだから。
神成、君にもあるんだろう。現実にいられないくらいの、どうしようもない理由が。
「ちょっと離席」
ゲーム通話の感覚で、神成が立ち上がりそのままキッチンへと行ってしまった。きっと、換気扇の元で煙草を吸うためだ。
私は煙草のにおいを気にしていない。なぜなら『エンパス』にはゲーム内喫煙者が多いから。
神成、雪柳、鍵穴天覗、鼠氏……この四人は現実でもゲーム内でも吸っている。トパースはゲーム内だけだった気がする。レモネードは……そもそも煙草を吸えるような年齢ではないため、LPTでも吸うことができない。
私は今年で二十二歳。吸える年齢だがリアルでもバーチャルでも煙草に興味はない。
「ゆるやかな自殺、か。君は
ぽつりと呟いた。誰に聞かせるでもない独り言だった。
「あー? 何か言ったー⁉」
キッチンからデカい声が響く。デカい声で何かを言われたら、デカい声で返さないといけない。
「何も言ってなーい!」
「あっそー!」
思わず鼻で笑ってしまった。
その直後、ローテーブルの真上に水色の人型の輪郭線が現れる。それは成人女性型モデルの形をしていて、次第に細かいシルエットが出現してくる。その形を見ただけでその人物が誰であるか、すぐにわかった。
「雪柳!」
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