第2話 恐怖症
「マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる」
というのは、
「一周回って、元の場所に戻ってくる」
という発想と似たところがあるのではないか?
と考えられる。
しかし、
「時空の捻じれ」
という発想があるのだが、それを考え、異次元を創造した時、
「メビウスの輪」
であったりする、
「時空の捻じれ」
という発想が、現実味を帯びてくると考えた時、
「一周回っても、同じところに戻ってくる:
という発想はありえないのではないか?
という考え方をしている場合もあるというのであった。
特に、
「タイムパラドックス」
というものにおいて、この問題がいかに難しいかということを考えると、
「過去に行った時のタイムパラドックス」
というものを考えさせられることがあるのだった。
というのは、
「自分が過去に行った時」
ということで、
「過去を変えてはいけない」
ということを考える。
「過去に行って、過去を変えてしまうと、ビックバンが起こって、宇宙が破滅する」
などと言われたことを思い出した。
もちろん、大げさなことなのだろうが、
それこそ、
「タイムパラドックスというものを引き起こしてはいけない」
という教訓のようなものだということなのであろう。
一つ言われていることとして、
「親殺しのパラドックス」
ということをいわれているという。
それは、
「自分が、タイムマシンを作って、過去に行った」
ということを前提に考えた場合のことである。
まず、
「自分が生まれる前の父親か母親を殺した場合」
あるいは、
「親が出会うところを邪魔した場合」
などということで、
「親殺しのパラドックス」
と言われることがある。
それがどういうことなのかというと、
「生まれる前に、親が結婚しなかったり、親を殺してしまったりすれば、自分が生まれてくることはない」
ということから始まって、
「自分が生まれてくることがなければ、タイムマシンに乗って、自分が過去に行くこともない」
ということになる。
「そうなると、自分が生まれてくるということになり、結局タイムマシンに乗って、過去に来るという歴史は変わらない」
ということである。
これが、
「親殺しのパラドックス」
ということになるのだが、
これは、基本的に、
「歴史は性格に繰り返される」
ということへの、
「矛盾をついた」
という話である。
だから、
「歴史というのは、どこを切っても同じになるように、時を正確に刻んでいるということのように、正確なものだ」
ということを大前提に動いていることになる。
しかし、もう一つのパラドックスとして言われていることとして、
「過去に向かって、過去を狂わせたとして、今度は、未来に戻ることができた場合の可能性の問題」
であった。
それが別の考えとして、
「過去に戻って、過去を狂わせた瞬間に、ビックバンが発生して、世界がそのまま消えてしまう」
という考え方とは別の考え方があるのであった。
それは、
「過去が変わったことで、別の世界線というものが登場し、その別の可能性のまま、世界が成り立っていく」
という考え方である。
これがいわゆる、
「平行世界」
であったり、
「平行宇宙」
と言われる、
「パラレルワールドの世界」
と考えられるのである。
未来への可能性というのは、
「無限に存在している」
という考え方であり、
その可能性があることから、
「過去を狂わせると、未来が、その狂った状態において、別の可能性の世界が開ける」
ということになるのだ。
だから、
「パラレルワールド」
というものが本当にあるのであれば、別の考え方が出てくる。
つまり、
「過去に戻って過去を変えてしまえば、その瞬間消えてしまうという可能性」
という場合と、
「そこから、未来に戻った時、自分が旅立った元の世界ではない別の世界が広がっている」
ということで、その世界を元に戻すには、
「狂ってしまったその瞬間の元をたつしかない」
ということで、
「いかに、過去の時代に戻らなければいけないのか?」
ということになるのである。
それを考えた時、
「パラレルワールドというものを、いかに選択して、未来をつないでいくということがどれほど難しいのか?」
ということになる。
だとすれば、この世界が、今までこれだけの歴史を育んでこれたのだから、
「ビックバン」
という考え方をすれば、世界は、
「表裏の二つしかない」
ということになる。
つまりは、
「オールオアナッシング」
ということで、
「存在するか?」
あるいは、
「消えてなくなるか?」
ということの、
「どちらかでしかない」
ということになるであろう。
それを考えた時、
「たくさんの可能性が無限に存在している宇宙があるのだ」
と考えた方が、辻褄が合っているということになるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「タイムパラドックス」
というのは、
「パラレルワールドを証明する」
ということの、一種の、
「段階を経ての、一つの理屈」
といえるだろう。
すべてのことに、
「裏と表がある」
ということであったり、
「無限の可能性が潜んでいる」
ということを考えると、
「パラレルワールド」
というものが、
「信憑性がどんどん高くなってきている」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「四次元という次元の世界は、パラレルワールドではないか?」
と考える人もいるだろう。
しかし、
「無限に世界が存在している」
ということを考えると、
「無限に世界が存在しているということであれば、人間も無限に存在する」
ということになる。
そうなれば、
「無限に存在している世界というのは、すべての人が共有する世界ということなのだろうか?」
と考えるのであるが、それを追求すると、すべての可能性に無限を求めるというのは、無理があることだということになるだろう。
そうなると、
「一人だけにおいて、無限の可能性があると考えると、理屈は信憑性を帯びてくる」
といってもいいだろう。
この理屈というのは。
「パラレルワールドごとにおいて、こっちの世界では、この人はいるが、向こうの人はいない」
という、人間の存在から違う可能性まで考慮に入れるということから、その時初めて、
「無限の可能性」
という言葉を口にすることができる。
ということではないだろうか?
そこまで考えると、
「タイムパラドックス」
というのは、あくまでも、一人においてのことであり、下手をすると、
「別の世界が開けた時。その瞬間から、今まで存在していた人が、消えてなくなってしまっていた」
ということが考えられるということではないだろうか?
それが、
「タイムパラドックス」
というもので。
「次元の壁と、無限の可能性によって開けている」
ということであり、
「理屈では証明できない何かがある」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「人間というものが、どういうものなのか?」
というのを、
「他の生物から考えることも可能なのではないか?」
と思えるのであった。
「人間というものは、3つの恐怖症がある」
と言われている。
もちろん、他にも恐怖症というものは、いっぱいあるのだろうが、
「大きく分けて、3つというのは、普通に言われる」
ということであった。
一つは、
「高所恐怖症」
ということが、一番よく言われていることである。
それはきっと、
「一番印象に深い」
ということではないだろうか?
例えば、遊園地の乗り物のように、
「観覧車」
であったり、
「ジェットコースター」
などというものの道具というものが、その恐怖を煽るという感覚があるからこそ、余計に感じるということである。
そして、
「他の恐怖症のように、そんなの当たり前すぎる」
というところまでは行っていないから、そこまで考えることができるに違いない。
と考えられるのであった。
さらに、他の恐怖症というと、まずは、
「暗所恐怖症」
というものである。
これは、
「暗いところが怖いというのは当たり前だ」
というところからきている。
といってもいいだろう。
さらに、もう一つの、
「閉所恐怖症」
というのも、似たようなもので、よく、こちらも、
「似たようなものだ」
と言われるのではないだろうか?
だから、言い方によれば、
「似て非なるもの」
といってもいいだろう。
暗いところも、狭いところも、
「よく似た環境」
というところから、
「同じレベルで、恐怖を感じるものだ」
といってもいいのではないだるおか?
というのは、どちらも、
「お化け屋敷」
であったり、
「サイコホラー」
と似たようなものだということを考えさせられるということではないかという発想からではないだろうか?
特に、昔の木造日本家屋などのトイレなどというと、昔から、
「恐怖の巣窟」
とでいうような伝説があったりする。
ただ、これは日本だけに限ったことではなく、西洋のお城であったり、古い洋館であったり。
さらには、
「墓地」
などは、
「棺桶の中から、恐ろしい化け物が出てくる」
ということで、恐怖だったりするだろう。
特に、昔は、土葬という習慣があったことから、ミイラであったり死んでから、それほど時間が経っていなければ、
「蘇生したものなのか、幽霊なのか?」
ということで、
「恐怖を感じさせられることも少なくない」
というものである。
西洋であれば、
「ドラキュラ」
であったり、
「フランケンシュタイン」
であったりと、恐怖物語があるというものである。
そのほとんどが、西洋の城であったり、洋館であったりすることから、イメージが、
「暗いところ」
ということであり、
狭いところとしては、
「棺桶の中」
というようなところが恐怖と感じさせるところもあるというものだ。
昔の探偵小説などで、たまにあったのが、
「復讐に命を懸けている」
という男がいるとして、その男がどのような犯罪を企てるのかというと、
「これほど、恐ろしい企みはない」
というほどなのではないだろうか。
というのも、その一つとして、
「どこかの狭いところに押し込めて、すぐには死なないようにする」
というやり方だったりする。
たとえば、
「仮死状態にしておいて、途中で蘇生するような薬を飲ませて、蘇生した時には、棺桶に詰められて、土の中」
ということであった。
これが、どれほど恐ろしいということになるのだろうか?
「もうダメだ」
と思っても、死ぬこともできない。
つまりは、自殺をしようとしても、自分を殺す道具もなければ、その広さもない。食料が尽きて、水もなくなる。
そのうちに、息ができなくなって、苦しみながら、
「徐々に徐々に死んでいく」
という実に恐ろしいものである。
分かり切っている、
「死」
というものに対しての恐怖を、迫りくる状況で、どうすることもできず、恐怖から、
「髪の毛は真っ白になり、まったく別の人間に変貌してしまった」
ということで、
「そこから犯罪が起こる」
という。
「これ以上ないというほどの恐ろしい犯罪になる」
ということを、小説にするというのは、
「恐怖小説としては。これ以上の名作はない」
というものになることであろう。
「これが恐怖だ」
と分かっていても、それを自らで文章にするということほど、恐ろしいことはないであろう。
ということだ。
それを考えると。
「閉所」
と、
「暗所」
それぞれに、
「似て非なるもの」
というのは、本当のことなのではないだろうか?
それに比べて、
「高所恐怖症」
というのは、
「確かに、高所恐怖症という人は多いが、閉所恐怖症や、暗所恐怖症のように、冷静に考えると誰もが感じること」
ということになるのではなく、
「高いところも、怖くない」
という人も多いということなのではないかと考えるのだ。
狭いところや暗いところは、人間の本能的に怖い」
ということを感じるのだが、
「高いところ」
というのは、
「自分が、以前高いところから落ちた」
というような経験があるということから、
「高いところが怖い」
という潜在意識として感じるものだといえるのではないだろうか。
ただ、その割には、
「高いところから落ちたという経験はないのだが」
という人も、高所恐怖症だったりする。
実際に、高いところから落ちたという経験をしたことがある人が、
「本当にそこまでたくさんいる」
といえるのであろうか。
それを考えると、
「高いところから、どのように怖いということを感じるのかというと、やはり暗さや狭さというよりも、何が怖いのかを考えると、経験がないと分からないこと」
と考えられる。
そうなると、考えられることとして、
「遺伝子の影響なのではないか?」
といえるのではないか?
ということであった。
つまりは、
「今の自分が経験したことではなく。ご先祖様の誰かが経験したという恐怖体験であったりしたものが、遺伝子というものによって、自然と受け継がれてきたものだ」
と考えると、ありえないことではないといえるのではないだろうか。
実際に、恐怖体験であったりしたことであったり、前世の記憶というものが、そういう問題であったりと考えると、
「遺伝子の影響」
というものと、
「見たことがないはずなのに、どこかで見たというような意識が思い出される」
というような、
「デジャブ現象」
などというものが、
「そういう現象から、証明できるのではないか?」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、科学では証明されていないが、
「何かの絵で見た思い出と、実際に潜在意識で見たことがある記憶との狭間で、自分の記憶の辻褄を合わせようとして、見たこともないはずのものを、前に見たことがあるというような感覚にすることで、自分の中だけで納得させるために、ウソの記憶を作り上げた」
という理屈だと考えると、
「別に、間違っていない」
と思うことで、
「自分だけが信じていればいい」
というつじつま合わせをすることで、
「まわりの辻褄を合わせることが、真実ではない」
ということであり、
「事実を無理矢理に真実にしてしまう」
ということはない。
と考えられるのではないかということであった。
だから、
「遺伝子」
という発想も、ある意味、
「勝手な妄想を、辻褄合わせとして自分に納得させればいい」
ということから出来上がった現象で、
「その辻褄合わせが、いずれは、まわりが信じてくれる」
という感覚から、これも自分を納得させようという、
「一種の理屈」
ということになるのであろう。
それを考えると、
「高所恐怖症」
というのも、かつての、
「先祖であったり、前世であったりの記憶が、自分には残っている」
ということだと考えると、
「他の意識を遺伝子というものの影響だということを納得させるということのために、高所恐怖症であったり、他の恐怖症も、辻褄を合わせるために、無意識に、自分を自分が利用しているということなのかも知れない」
といえるのではないだろうか。
そういう意味では、
「高所恐怖症」
と、
「それ以外の二つの恐怖症」
というのは、大分類としては、分けることができるというもので、その小分類として、今度は、
「閉所と、暗所」
ということになるのであろう。
恐怖というものを考えた時、
「明らかに、高所だけは意識して考えることだ」
といえるのだった。
ただし、これら三つを並べた時、それぞれに、似た距離であることを感じる。
「ほぼ正三角形に近いものだ」
ということであるのだが、だからといって。
「三つ巴」
というような関係でもないのだ。
そのわりに、それぞれに共通点はなく、力の均衡は保てているのに、三つ巴ではないということであった。
それはやはり、
「閉所と暗所が近いところにあり、そこから少し距離を置いたところに、高所が存在している」
ということであった。
正三角形に見えているが、その均衡は明らかに違う。そこで考えられるのが、
「それぞれに抑止力を保つために作られた、三すくみという関係」
というものを思い出した。
三すくみというのは、それぞれ、片方とだけ、
「有利、不利」
というそれぞれの関係が、
「まるで、たすきに掛かっている」
という関係から、
「先に手を出すと、絶対に生き残れない」
という法則が成り立つことで、それぞれが、手を出すことができないという、
「抑止力」
という関係になるということで、それぞれの頂点は、歪な形をしているが、その、
「抑止力」
という力は、絶対的なものなのだ。
ということになるのであった。
それを考えると、
「暗所」
「閉所」
「高所」
のそれぞれの力関係は、
「何を持って証明されるのだろうか?」
ということになるのであった。
これら、恐怖症というものが、
「三すくみ」
というものを形成しているということであるならば、その根底にあるものが、ある意味においての、
「抑止力」
というものになるということであった。
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