神様の日常 (2)


 キッチンは照明がオンになっていて、階段や廊下に比べると明るい。キッチンは一般的な家庭用調理場と、それから食事用のテーブルと椅子がある。椅子は四脚あるが、オレはいつも出入り口に近い椅子しか用いていない。そして、その椅子の目の前に朝食が準備されている。もちろん、一人前だ。アンは飲食物を必要としない。オレは誰に遠慮することもなく、椅子に座り、朝食を眺めた。やや白いトーストが二枚。食パンは六枚切りを購入しているので、これで三分の一斤だ。固焼きの目玉焼きが一つ、少しコゲ気味のベーコンが数切れ、ボイルしたブロッコリーが少々、それにコンソメのスープが一杯だ。アンはオレの横を抜け、オレの視界の隅に収まる位置に控えた。主従らしく、同じテーブルを共にすることはない。アンはあくまでオレのメイドとしての立ち振る舞いを崩すことがない。それに、オレは何故か少し安心する。目の端にアンが直立不動でオレを待っているこの時間が、オレは愛しく感じていた。


 オレは食前のお祈りを軽く済ませ、スープから口にした。スープは熱めで、唇を、口内を、喉を、食道を熱しながら通り抜ける。ちなみに、この朝食のセットは春夏秋冬変わらない。今は冬だから熱めのスープは悪くないが、夏にこの温度は少しキツイ。


「今日もいつも通り、少し辛いな」


 そうぼやきながら、オレは用意された朝食にそれぞれ手をつけていった。トーストは焼きが足らず、目玉焼きとベーコンは焼き過ぎている。個人的な好みを言えば、トーストは少し焦げが目立つくらい焼き、目玉焼きは半熟くらいが望ましい。昔はアンにアレコレ注文をつけたが、何故か改善されず、今では諦めている。早食いというわけではないけれど、それほど多量の食事でもない。オレは数分で皿を空け、最後のトースト一切れを口に運ぶ。


 それにしても、トーストとは人類の発明の中でも優れたものだと思う。原料は小麦粉と水だ。パン生地を作って酵母を加え、発酵させ、焼く。それだけなのだが、まず、発酵という手段がずば抜けた発想だと思う。もちろん偶然なのだろうが、偶然にしては出来過ぎだ。これこそ、神の御業だろう。そんな奇跡の一品であるトーストを咀嚼しながらオレはずっと傍に立っていたアンに声をかけた。


「アン。今日のオレの予定はどうなっている?」


 虚空を見つめていたアンの視線が、オレの方へと向けられる。アンにはオレの家事周りの手伝いと共に、仕事の秘書的な庶務を任せている。しかしながら、アンドロイドであるアンは完全な存在とは程遠く、その仕事のほとんどでオレがフォローを入れなければならない。例えば、この食事の後片づけはアンがしてくれるが、食器用洗剤がなくなっていても、アンは構わない。水洗いで済ましてしまう。痒い所に手が届かない、それがアンだった。


 だから、こうしてアンに予定を尋ねつつも、オレはオレの把握できる範囲でちゃんと今日のスケジュールを管理していた。だが、生憎とその予定を書き綴っている手帳は自室に置きっぱなしだ。えっと、今日の予定はどうだったかな……。


「はい。お昼に一件、来客の予定がございます」


 アンがとても静かな口調で答える。その声は凛とした朝の空気にとてもよく似合っていて、静かにキッチンの空気と混じって消える。


「お昼――ああ、マダム・サファイヤか……」


 オレの脳裏に恰幅のいい女性の姿が脳裏に浮かぶ。そうだった。今日の仕事の予定は一件だけだった。

 マダム・サファイヤはいわゆる「お得意様」だ。オヤジに代わって仕事を回すようになってからついた客で、仕事内容は難しくないのだが、支払いの羽振りがいい。マダム・サファイヤの仕事をこなせば、一日の収益としては十分である。オレの工房の資金源の一つだった。


「用件はいつも通りメンテナンスかな?」

「そのようにご連絡を受けております」


 マダム・サファイヤは定期的に個人所有のアンドロイドのメンテナンスの仕事を持ってきてくれる。「マダム」の二つ名通り既婚女性だが、旦那さんは国外で働いているらしく、家事全般をアンドロイドが担っているらしい。主に成人男性で顔立ちのよいタイプのアンドロイドを好む傾向がある。それから、半年に一回くらいの頻度で、大きな仕事の依頼もある。アンドロイドの顔や体型の変更などである。整形外科医の手術並みの時間と集中力と接客対応が求められる代わりに、一回でその月丸々の収入を得ることができるため、ちょっとした臨時ボーナスみたいなものだ。


 お得意様なのでこれくらいの情報は有しているが、適度に踏み込まない関係を維持することが、お互いに上手くやっていくコツだ。


「マダム・サファイヤの来店予定は午前十一時だったかな? それとも十一時半だったか?」

「前者です。三日前の午後四時にお電話をいただき、本日の午前十一時にお越しになるそうです」

「分かった。じゃあ、マダム・サファイヤが着いたら呼んでくれ。オレはそれまで部屋で過ごすよ。朝食、ご馳走様」

「承知いたしました。神様」


 皿を洗い、水気をふき取った後、食器棚に収納するのは、アンの朝の最後の仕事だ。食器用洗剤はつい先週新品にしたばかりなので、後はアンに任せても大丈夫だろう。ちなみに、アンはオレの相手をする以外は、大抵キッチンで「待機」の状態になっている。朝、オレの起床を待っていたように。本来ならアンはオレの家庭教師的な仕事も担う予定だったのだが、オレがカレッジを中退し工房を継いだので、勉強を教えてもらうことはなくなった。そのため、アンと過ごす時間は現状でもかなり絞られていた。炊事、掃除、それから洗濯、それがアンの今の主な仕事だ。オレと関わるのは食事の前後と、オレの部屋と作業室の掃除について指示を出す時くらいだ。オレはアンを憎からず思っている。いや、これは誤魔化しだ。オレはアンに愛情を抱いている。ライクではなくラブだ。ただ、対物性愛ってわけではない。アンドロイド、すなわち「モノ」であるアンに対し、オレは家族のような情を抱いていた。例えるなら、母親や姉のように。ただ、オレが物心ついた時には母親はいなかったし、姉弟もいないので、それは想像に留まる。でも、きっとオレの抱いている温かな感情は、悪いものではないだろうという確信はあった。言葉にはしないし、言葉にしてもムダだろうけど、オレはアンに感謝している。オレがここまで育ったのは、オヤジだけのお陰ではない。アンがいたから、オレは生きてこられたんだと思う。古いことわざに、子供が生まれたら犬を飼いなさい、というものがあるらしい。子供が赤ん坊の時は子供を守ってくれ、子供が幼少期には子供の遊び相手になり、子供が少年期には子供の理解者になり、子供が青年になると自らの死によって命の尊さを教えてくれる、と。アンは生まれた時からオレを見守ってくれ、オヤジに代わって遊び相手をしてくれ、オレの身の回りの世話をしてくれている。命の尊さはオヤジに教えてもらった。うん。オレは恵まれている。

 などと感傷的なことを考えつつ、オレはアンをキッチンに残し、自室へと戻った。

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