第三章 GOGO! サライソ

第20話 3-1_林檎の部屋「おはようございます」



 いつも、林檎Bは携帯端末の振動がフローリングを叩くより0・2秒早く目覚める。

「おはようございます」

 誰もいない部屋で囚人のようにお辞儀してから朝日の中に身体を起こす。カーテンを買う気はない。

 フトンは持ち運びしやすい小型タイプで、冬に使うには薄っぺらいものだった。

 室内には折りたたみ式のテーブル以外大した家具もなく、畳んだ布団を窓辺の日向へ滑らせ置きっぱなしにしても何の不自由もない。

 部屋の隅の小さな冷蔵庫がかすかな唸りを響かせている。

 仮住まいといった様子をつくろう気もない部屋だったが、壁だけは雑然としていた。

 そこは上も下も新聞や雑誌の切り抜き記事で埋め尽くされ、モザイク画のようになっている。

 何年も前の事故の記事だとか、ある記者の告白文、探し犬の情報サイトをプリントアウトしたものだったりと、一貫性がないように見えた。

 また、それとは別に何種類もの新聞紙のスクラップが保管してあったりもする。

 いつものように、林檎Bは壁の記事を一つ一つ確認していく。

 日光が林檎Bの顔を照らしている。血圧は最低値に違いなく、腕も顔も真っ白に見える。

 壁の中で最も異彩を放っているのは、とあるヘヴィメタルバンドのヴォーカル『シャイターン本田氏』の写真付きの記事である。

 雑誌から切り抜いたカラーのページで、見出しの断片から分かるのは、それが何かの制作発表の時の写真らしいこと。シャイターン本田氏の両脇に一人ずつ少女が立って緊張気味の笑みをたたえていることである。

 一人は赤みの掛かった短髪にすらりとした印象の十二、三歳ほどの女の子。もう一人の方は別の記事に隠されていて見えなかった。

 林檎Bはその記事に向かって、もう一度頭を下げる。

「おはようございます」


 これらの儀式が終わると、林檎Bは冷たいフローリングにお尻を落として柔軟体操を始める。

 筋を伸ばしたりしながら青アザを指で押して具合を探ったりもする。あちこち痛む身体のチェックでもある。とはいえ骨折や肉離れがあったとして、本人は痛み止めと抗生物質を飲むくらいしか対処する気がなかった。

 体操が済むと、今度はベランダ硝子へ向かって倒立をする。

 踵がふれるとガラスがたわむのが分かった。林檎Bはそのまま姿勢を維持して思考に入る。

 逆立ちは考え事をするときの癖でもあった。


 思い出すのは昨夜のことである。

 黄色パーカーの男を狩る途中で不覚にも意識を失った。

 そのせいで乱入者の二人に住所も名前も知られてしまっている。別れる前に、明日、つまり今日の夕方に会う約束をした。身元を知られている以上すっぽかしても無駄である。街から出るという選択肢もあったが、望みは薄そうだ。

 あの二人の背後には特殊技能を持つ組織の存在が窺える。河尻市から逃げても手配犯のように逃げ続けることになるだろう。

 組織を相手にするくらいなら、まだ若いあのヘチ子たちを丸めこむ方が、まだ可能性もあるのではないか。林檎Bはそう考えていた。

 今ならまだ大事にはならないはず。

 相手はまだ願いを叶える匣――ディスコの存在を知らないのだから――そう彼女は誤認しているのだった。

 その時、ガラスの向こうから「ハイィ~」という変な声が聞こえた。

「キエエエ! びっくりした!」

 正位置に着地して見ると、ベランダにカラスが一羽いて、クチバシでガラスを叩いている。羽根の一部だけが白くなっていて、そこだけ逆さまのハート、孔雀の瞳模様、あるいはペン先のように輝いて見える。少し前、怪我している所を保護した個体だった。

 彼女はベランダを開け追い払おうとした。

「お前か。怪我が治ったんなら野生に帰れよな~。あれは一時の気の迷い。勘違いされたら迷惑なんですけど」

 カラスは「けけけ」と笑ってきかない。

「キエッ」

 林檎Bがゴリラのポーズで脅すが、カラスは翼で同じポーズをとって「おいっす」みたいな声を上げるばかりで、一向逃げようとしない。

「呼んでも、もうゴハンとかはあげないから。うんちもしないでよね」

 林檎Bは溜息をついてベランダを閉める。こいつの怪我の世話で彼女はしばらく『狩り』へ出かけられなかった。

「こっちは止まったら終わりなんだからね」

 独り言をつぶやきつつ携帯端末を操作する。

「とにかく敵の情報を集めなくちゃね。できれば弱みを握りたいけれど」

 河尻市の情報を検索して、あの二人の学校を調べようとしているのだ。

 二人の格好。校章はちゃんと確認できなかったが、古風なデザインの制服だったから見つけやすかった。


 朝食のカロリーメイト(フルーツ味)を食べ終わる頃には、二人の通う学苑のホームページまで辿り着いていた。

早良五十さらいそ城ヶ丘学苑』河尻に戦前から存在する中高一貫校である。

「よし」

 林檎Bは素早く潜入準備を整える。

 祖父からもらった着物コートは憶えられているだろうから、とある事情で持っていたインバネスコートに鳥打ち帽という伝統的探偵ファッションを装着。常備薬をジャッと口の中へ放りこみ、目をつむって瓶詰めの薬液で飲み下す。最後にゴリラのポーズで気合いをいれた。

「約束は夕方。その前に不意打ちで……決める」

「せや」

 ベランダでカラスも同じポーズをとる。

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