二章 This is ディス子

第15話 2-1_林檎B目を覚ます「力士とライディーン」



 林檎Bの見る夢は、いつも幾何学的なものと決まっている。

 実際には、過去のさまざまな場面と、付随する思考が無数に展開する。

 それらが因果律の歯車として関連し合う。

 林檎Bはそのすべてを同時に知覚する。

 そのため、すべては複眼生物の見る夢さながら、因果律の万華鏡が展開されるのだった。


 だが、この時は違った。

 悪夢の万華鏡がかき乱され、代わりに何か甘く切ないような、あるいは懐かしいような気配。雑踏と子どものはしゃぎまわる声が立ち上がってくるのだった。

 夢ではなく、それは現実の喧噪だった。

「――んん?」

 まだ夢うつつのまま、彼女は状況を判断しようとした。

 目を閉じた状態で聞き別けられるのは、林檎Bが故あってお世話になっている栄璃エイリ叔母さん、通称「エリさん」のいつも通り溌剌とした声。それと、そう、今日遭遇した謎の古代力士の声だった。

 たしか「つぐね」と呼ばれていた。

「力士と」

「ライディーンの」

「ショートコント」

「本格ちゃんこ」

「わー。ここが噂の本格ちゃんこ店『相撲茶屋ライディーン』かあ。カランカラーン。古代力士一人お願いしま~す」

「योग अग्नि」

「本格インド人出てきちゃったけどだいじょうぶ?」

「はい、力士とライディーン~」

 最後の決め台詞の部分は、二人で声を揃えてポーズまでとっているらしい。

 林檎Bのほうは、このまま寝たふりを続けて、どうにか離脱できないものかと考えはじめていた。とにかく状況が分かるようで分からない。

 ぐつぐつと鍋の煮える音がする。客達の喧噪。頭の下に座布団の感覚。畳の匂い。嗅覚が戻って来たらしい。

 どうやらエリさんの店「相撲茶屋ライディーン」の座敷に寝かされているようだった。

 一体いつの間に、どうしてここまで運ばれてきたのだろう。確か――そこまで思考が及んだところで、林檎Bは飛び起きた。

 蛍光灯の眩しさ。

 目が慣れるのも待たず林檎Bは衣服を探った。

 掛け布団代わりにコートをかぶせられていた。探し物はちゃんとあった。〈匣〉は首から提げた袱紗のなかに収まっている気配である。

 袋を開けて確認したかったが、思いとどまった。

 鍋のフタが躍るテーブルの向こう側、湯気越しに、あの異様に美しい少女が座って林檎Bを観察していた。現実離れした美貌が鍋の所帯じみた風情とまったくそぐわない。

「あー……」

 林檎Bは袱紗から手を下ろす。

 そもそも手探りだけでも確認は不要だったのだ。この数年というもの肌身離さず身につけていたのだから。

 それからコートを探って、どうでもいいサイフや携帯端末を確かめる素振りをして見せたり、服の袖を引き下ろしたり、白々しく前髪を押しつけたりした。

 飛び起きたのは額や体のきずを隠そうとしただけだと、印象づけたつもりだった。〈匣〉の存在に気づかれてはいけない。

「……私ヨダレ垂れてなかった? とかいってみたり……」

 幸い相手は何もいってこなかった。

 それにしても返事すらしないのはいかがなものか。などと林檎Bが考えている間に、エリ叔母とつぐねが近づいて来た。

「あら目が覚めた。遊んでる途中で寝ちゃったんだって? 不眠症だっていってたし、新しい街で疲れてたのかもね」

 とエリさん。

「お前の叔母さんおもしれえなぁ。近場にこんな店あるって知らなかったぜ~」

 というのは古代力士である。

 エリさんがウェーイと拳銃の乱射みたいなポーズを取る。

 なお彼女は一滴も酒を飲んでいない。ナチュラルでこのテンションを維持しており、先ほどのコントのような振る舞いも通常運行という人である。

 叔母と呼んでいるが、実際はよく分からない。林檎Bの遠い親戚に当たるらしい。

 年齢不詳の変わり者で、仕事を辞めて海外留学しただの、そこでデザイナーをやって結婚したとか離婚したとかモンゴル力士と殴り合いをしたとかいう噂があり、最近突然に帰国してちゃんこ料理店を開業したのだった。開業資金がどこから出たのかは謎であるという。

「え~続きまして」 

 エリさん達がコントを再開しようとする。

「待って。いったん整理させて」

 林檎Bは自分のこめかみを拳でぐりぐり押した。

 スカジャン男を狩っていたはずの自分が、なぜここにいるのか。それを思い出そうとする。



 睡った――気を失って店へ運ばれてきたという話だが、林檎Bにはまったく自覚がない。彼女は自分の一日の記憶を辿ってみる。


 今朝は寒くて首が痛んだ。

 予兆と呼べるようなものがあったとしたら、それくらいだ。

 いつも通り街をうろつき、声をかけてきた欲深い男を〈匣の空間〉へ誘いこんだ。自分たちの願いを叶えるため、それは必要なことだ。

 そう。そこでこの二人が現れたのだ。不思議な切紙を使う冷たい宝石みたいな少女と、西洋人形みたいな顔の古代力士。

 まず、あの空間から出られるはずがないのだ。

 闘いが終わるまで、つまり摩訶まか曼珠沙華まんじゅしゃげを刈り尽くした最後の一人になるまで、あの空間は閉じたままのはずだった。

 あの時二人の頭には摩訶=曼珠沙華の光輪は現れていなかった。〈匣〉の所有者という訳でもないらしい。

 林檎Bが思うに、この「ヘチ子」の奇妙な力で〈匣の空間〉へ横入したのだ。同じようにして出てきたという事だろうか?

 二人はしきりに〈メイキュウ〉という言葉を口にしていた。〈匣の空間〉のことをそう呼ぶらしい。

 力士の方が参加者――「なぜパン」などと名づけていた――を倒したところは憶えている。

 そのあと確か――林檎Bは〈匣〉を使って逃げようとした。

 そのあとの記憶がない。

 もしかしたらエリさんのいうとおり不眠で倒れたのかもしれなかった。そのあと連絡先を探して「ライディーン」へ連れてこられた、のかもしれない。


 さらに記憶を辿るに、二人は林檎Bのしていた狩りを咎めに来たようだった。しかし〈匣〉も〈摩訶=曼珠沙華〉の事も知らないようだ。まだ〈匣〉を奪われていないという事はそういう事だ。二人はこれが〈願いの叶う匣〉であると知らないのだ。林檎Bはそう判断する。

 つまり、上手く言い逃れすれば、匣を奪われる危険はないわけである。何とか誤魔化すしかない。

 そう決意したとき、湯気の向こうで美しい影が揺らいだ。

「目が覚めたところで話をしよう。要件は分かっていると思うが」

 熱のない焔のような声だった。

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