第10話 1-10_林檎の冥宮
#
すみれ色の空に、
現実の世界とは、空まで
周囲は現実と同じ、平凡な住宅街に見えた。
だがそこで、試しに家のドアを開けてみようとしたつぐねが、変な声を上げた。
「開かねえ。鍵っていうか溶接されたみてーに動かねえ。ぶっ壊してみるか? でも、この家って
「いや」ヘチ子が否定する。「この風景は現実の世界とは関係がない。冥宮が街の真似をしているだけだ」
「真似?」
「真似は比喩だ。冥宮が意志を持っているというわけではない」
「それは何となく分かるけどよ」
「大きな冥宮は、侵入者の意識を反映して姿を変える。そう教えられた。私も実際に見たのは初めてだが……こんな規模で起こるものなのか……」
「じゃあこの住宅街は赤マフラーの頭の中から出てきた偽物ってことか? あるいはおれらの頭」
「まあ……そういう理解でも不自由はない」
「この家、つうか住宅街もこの空も偽物なのか。そういや現実で通った道とちょっと違くねえか?」
つぐねが振り返って眺める。
確かに、よく見ると家の表札には「猫」「祇園駅」などと有り得ない文字が刻まれているのに気づく。
周囲の建物も、窓が不揃いだったり、隣家と繋がっていたりと非現実的な姿をしている。
見上げれば、電線が綾取りの様な模様を描いていた。
「この住宅、何か変」つぐねが呆れたようにいった。
「冥宮の本質は『迷わせること』だ。『真似』をするとはいっても、それは元通りのコピーにはならないのだろう」
「じゃあ本屋行って少年ジャンプの立ち読みしても意味なさそうだな」とつぐね。
「単独行動して迷っても知らないぞ」ヘチ子がいった。「引き返しても、来た道とは違う風景が続いているはずだし、そもそも私が扉をつくらないと冥宮からは出られないからな」
「おれの命はお前の気持ちひとつか」
「せいぜい機嫌をとっておくんだな」
「へいへい。チョコ食うか?」
「今はいらない」
「そういや空も妙だぜ。流れ星みたいなのがずっと――おああッ危ねえ!」
ポケットからチョコレートを出しかけたところで、つぐねが急に飛び退いた。同時にひっぱってヘチ子を下がらせるのも忘れなかった。
「いったいどうした」腕をさすりながらヘチ子がいう。
「『どうした』っていわれると説明に困っちまうな……これ何だと思う?」
曖昧な言い方をつぐねはした。彼は地面を指さして見せる。
アスファルトの上で果物が砕けている。
甘ずっぱい香りと果汁が広範囲に飛び散っていた。どうやら元は青い林檎だったものだ。
「ど……こから落ちて来た?」
二人は空を仰ぐ。頭上に林檎の木がある、という訳ではもちろんない。
「落ちてくるところを見たか?」ヘチ子が訊ねる。
「いやぜんぜん。とっさだったからな」つぐねも困惑している。「.……本物の林檎だし新鮮だぜ」
「食うな、拾ったものを」
始め、二人は周囲の家から投げられたものかと推測した。しかしそうではなかった。
観察しているうちに、別の果物が、次々降って来たのだ。果物はあちこちに落ちては砕けている。家からではない。もっと高いところからだ。
空には帚星。
あの流れる星が果物なのだ。
「ンな阿呆な! 拳大の隕石でもお前物理的に……」さすがにつぐねも言葉を失う。「燃え尽きるなりクレーター出来るなりのやつだろ」
ヘチ子の答えは単純だった。「ここは冥宮だからな」
迷いこんだ『雑踏』が凝り固まって、羊みたいに歩くような世界のこと。星が果物になって降りそそいでも不思議ではない。
「どんな世界だよ」
「まあ、見た目ほど害はないという事だ」
「メルヘンか? メルヘンなのか? これも赤マフラーの意識を『真似っこ』してこうなってんのかなあ――おっと」
つぐねが声を落とす。赤マフラーが近くに潜んでいるかもしれない。その可能性に思い当たったらしい。
「平気だろう。おそらくもう遠くへ行ってる」ヘチ子は堂々としていた。「こんな異常に出くわしたら、赤マフラーはともかく、連れこまれた男は騒ぐはずだからな。その気配がないという事は、この辺にはいないということだ」
「なるほど……おい、ヘチ子」
つぐねが声を硬くした。何か見つけたらしい。
離れた所に車がある。回りこんでみると壊れているのに気づく。ボンネットがヘコみ、ガラス片が飛び散っている。
二人はさらに果物の残骸を発見した。
「フロントに果物の直撃を受けたんかな?」
「それとも別のもの、例えば人がぶつかるなどしたのか」
多分両方ではないかと二人は結論づけた。
「こっちも見ろよ」つぐねがまた指さす。「グロ注意だぜ」
砕けた柿の実だ。果肉のなかに、種とは別のものが混じっている。血と、剥がれた爪が一枚。
「……どっちのだ?」とヘチ子。
「たぶん女。形とサイズからいってな。バカ息子もシバかれてたらしいし、ここでも争いがあったんだな」
「それで、どっちかが逃げてもう一方が追って行った、というところか」
「ああ。俺らが入ってくるより前にな」
柿の側から続く血痕を見つけた。
指から滴ったのだろう。これを辿って行けば赤マフラーまで辿り着けそうだった。
「果物の流星……当たる確率は低そうだが、対策はしておこう」
追う前にヘチ子は新しい切紙を取り出し、つぐねへも配った。彼女はそれを頭には羽織った。
「これで果物が落ちて来ても大丈夫だ。落下物の衝撃はこの
冥宮の本性は迷わせることである。
それを模倣する冥宮師の技術も同様のことができた。もちろん、それは模倣であるから、本物の冥宮よりはスケールダウンした力になるのだが。
こうした冥宮の模倣物を色々な用途に使用できるのが、ヘチ子の
「行こう」と彼女はいった。
「楽しくなってきたなあヘチ子」
「まあな」
二人は血痕を辿りはじめた。
#
血痕は小学校の建物へ続いていた。
ブラスバンドの演奏が歪んで聞こえてくる。校内に人影はない。これも冥宮の『真似っこ』らしい。
「入るか? ぶっ壊すか?」
玄関の前で、つぐねが張り手を構える。
そのとき上から声が響いた。
女性の声で「お前のマゲもう真っ赤っかじゃねーか」という用途不明の雄叫びだった。
「……どういう人生の局面になったらあんなセリフが飛び出すんだ?」とつぐね。
「屋上だな」ヘチ子が断定する。「行くぞ」
「ファーイ(FIGHT)」
二人は非常階段を見つける。躊躇なく駆け上り、頂上に立ち塞がるドアも、やはり躊躇なしで破壊した。
「ドッソイ!」
ふっとんだ扉を追いかけるようにして、屋上へ飛びこむ。
そこで二人が目にしたのは、黄色ジャンパーの男とガンマンのように相対する、少女の背中だった。
赤マフラーをたなびかせ、少女が油断なく振り返る。
ここで初めて、擦れ違い続けた赤マフラー――林檎Bの瞳と、ヘチ子の瞳が交わったのである。
この時点で、二人はお互いの名さえ知らない。
けれど、視線の絡み合った一瞬、二人はお互いの間に何かが生じたのを確かに感じた。が、けっきょく後々になっても、二人はそれをはっきり名づけられないままで過ごし事になる。それはきっと、凡庸な者なら運命と呼ぶ何かだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます