第4話 1-4_冥宮師の歴史と運命の「雪」



 もう忘れられて久しいことだが、冥宮とは鞘の雅称である。

 正確には、祭儀に用いられる呪具としての鞘をさす。まばゆく強いもの、奉られるべき星辰ほしの如きものとして太刀があり、その星辰を治め得る冥いところを指して、冥宮と呼ばれた。冥宮師とは、元来祭儀用の鞘を造る匠たちを指すのだった。

 花咽かいん家は、そうした鞘造りの家系である。

 冥宮という雅称が妖異の匂いを纏うようになったのは、千年も昔のこと。『神隠しの如き妖異』にその名が使われ始めたのがその初めとなる。他ならぬ冥宮師自身――それも花咽かいん家が呼び始めたのである。


 当時、朝廷を悩ませていた『神隠しの如き妖異』を花咽家が解決した。方法を問われた花咽家の当主は『これは神隠しにあらず』と断定した。そしてこの妖異の原因について『ものごと一切をおさめる宮の歪みが原因である』と断定した。現代風にいえば『時空の歪み』といったところ。『自然現象のひとつである』という含みもあるようだった。

 要するに『鬼神の障りなどではない』といい、続いて花咽家はこうも主張した。

『この宮の歪みは、我らの扱う鞘の空虚と同種のものである』

 これが重要な点で、つまり花咽家は『神隠しの如き妖異』と、呪具としての『冥宮』は同種の現象であるといったのである。

 よって私どもがこれを治めましょう、と。

 こう主張した上で、花咽家は再び妖異を解決して見せた。

 これにより『神隠しの如き妖異』は〈宮隠し〉という正しい名を得、故に花咽家に限った冥宮師には〈宮隠し〉を祓うという新たな役目が加わったのである。名だたる鞘師の中でも〈宮隠し〉を祓う理法を身につけていたのは花咽家だけだった。

 これにより花咽家は、朝廷の中に宮祓いの冥宮師として一定の地位を得た。未来を占うでも暦をあつかうでもなく、政とは距離をおき続けた。それが良いふうに働いたのか、花咽家は長いあいだ国家の中枢近くに居座ることができた。

 丿口へちこう家ができたのは後のことである。


 その歴史のいつからか、花咽家は、本来の仕事としてのめいきゅう造りを続ける本家と、妖異めいきゅうの解体を本職とする分家とに系譜が別れた。

 後者は本家とは血のつながりの薄い技能集団であり、現在となっては血はまったく途切れてしまった。これが宮祓いの冥宮師集団、丿口へちこう家である。

 丿口に鞘造りは許されていない。それは本家だけの仕事である。

 彼らは鞘造りという固定観念から離れ、冥宮くうどうを創る、いう本質だけに注力した。

 冥宮の器が鞘である必要はない。鞘造りが許されないなら、仕事道具は自分たちで創ればよいと考えた。

 丿口家はさまざまな技術者と交わって、そこに冥宮のエッセンスを加え試行錯誤し始めた。主に社会から疎まれたり、本道から外れ迫害された技術者たちを招いた。そのような人たちは丿口家の力添えを喜んで受け入れた。

 また冥宮を扱うのに適した才能があることにも気づいて、そうした子どもを集めるようにもなった。


 そうして千年のうちに、さまざまな伎芸の名を冠した丿口家が各地に生まれた。

 例えば、ヘチ子の師である、丿口へちこうイナミは、切紙作家として名の知られた人物である。

 表の顔では、美しい切り紙の作品を発表し続けているが、役目が下れば、鞘の代わりに切紙を繰って自然発生する冥宮を祓う。

 紙にりつけた空洞こそが、剪紙せんし冥宮師の扱う冥宮なのである。

 ヘチ子はこの剪紙冥宮の方式を師から受け継いだ。

 だが彼女が丿口の名を得た現代では、冥宮師の存在意義はすでに薄れ始めていた。

 神隠しの如き冥宮の発生が途絶えたのだ。

 石を投げ入れられた水面がやがて静まるように、冥宮の被害と数は千年をかけて減少していったという。

 冥宮の減退にともない冥宮師も数を減らした。

 そして冥宮はほぼ失われたと思われた今になり、この町で〈宮隠し〉が起こった――と久我はいう。

 河尻はかつて地下に大冥宮があるともいわれた土地だったが、それでも、人を呑みこむような冥宮が発生したのは、実に八十年ぶりである。少なくとも記録の上では。

 久我が神経質になるのも頷けた。

 しかしヘチ子たちの見るところ、彼自身〈大きな冥宮〉の発生を信じているのかは疑わしい。おそらくは半信半疑なのではないか。

 二人はその日の調査を打ち切った。

「というわけで今日は帰るぜ」

「すぐ帰ろう」

 当面の安全は確保できた。疑問や問題点はあるが、緊急性は低いと判断した。

 帰る途中、風邪気味の義弟のために梅ゼリーを買った。

「風邪の時はやっぱゼリーだな。飲みこみやすいし見た目もアガるし。鞠ヰまりぃあんの『梅ゼリー』はな、偶然食った昭和の関取が宣伝したおかげで人気店になったんだぜ」

 つぐねは菓子に詳しい。ところで力士の名前を出したところで閃くものがあったらしい。

「――相撲だ」とつぐねはそう呟いた。

 スモウ。

「何?」とヘチ子。

「バカ息子が繰り返してたっていう呪文だよ。何か知ってると思ったら、あれ相撲の行司がいう口上だよ。祝詞ってのも間違っちゃいねえ」

「ふうん?」

「もっと興味示せよな……」

 つぐねは携帯端末で何かを検索して、ヘチ子へ見せた。

「これよ、これ」

 端末画面には、久我の資料にあった言葉が完全な形で表示されていた。


天地開け始めてより陰陽に分かれ、

清く明らかなるもの陽にして上にあり、これを勝ちと名づく。

重く濁れるもの陰にして下にあり、これを負けと名づく。

勝ち負けの道理は天地自然の理にして、これをなすは人なり……


 方屋開口かたやかいこう。土俵開きの意をもつ儀式において、行司が唱える口上なのだという。

「これを何者かが唱え、それをバカ息子は聞いて繰り返していたわけか」

 ヘチ子も納得したようだった。

 二人はお菓子の袋を手に並んで歩きながら考える。

「でも意味わからんよな。なんでケンカの前に行司の真似事? あっ。例えばこの口上で冥宮がバーと出来上がったりしねえ? 呪文みたいに。お前らだけが冥宮を扱えるとは限らないだろ」

「冥宮師以外にそういう者がいたとしても、人を呑みこむまでの冥宮を創り上げられるとは考えられない」

「イナミさんでも無理?」

 ヘチ子の師のことである。彼女との付き合いはヘチ子よりつぐねの方が長い。

「おそらく出来ない」と弟子は答えた。「たぶん、他の誰にも。例えば剪紙冥宮フリルを使ってあの路地で人を迷わせ、閉じこめることは私にも出来る。しかしそれは冥宮を創るのとは違う。どうやったのかは不明だが、事件現場では確かに〈大きな冥宮〉が開いたはずなんだ」

「ほーん。何も解らんってことか」

「だがその『方屋開口かたやかいこうの人物』なら何かを見たはずだ。そいつが冥宮を創ったかどうかは別にしてな」

「重要参考人ってとこか。そんでそいつが冥宮師っていう可能性は――」

「ない」

「ないすか。まあ、次の目標が決まったな。重要参考人捜しだ。しかし、俺は家の事情で聞き覚えがあったけどよ。あんな口上を暗記してるような人物ってどんなヤツなんだ? 相撲マニアのジジイか? 本物の行司さんか?」

「さあな。それも調査のヒントではあるな」

 話しながら歩いて、二人は公園裏の交差点へさしかかった。そこで〈それ〉と行き逢った。

 対面から歩いて来たのは、袖の広い妙にゆったりとしたコートか何かを着た人物で、黒いふわふわしたものを胸のところで抱いていた。ニット帽をかぶり、真っ赤なマフラーへ顎を埋めていて、女性であること以外顔は判別できない。周囲はもう暗くなり始めていた。

 信号待ちをしていた別の誰かが「ゆき」といった。わずかだが雪が降ってきていた。

「どうなってんだまだ十一月だぞ」

 つぐねが白い息を吐く。

 つられてヘチ子も空を見上げた。それから遅れて、さっきの人が抱えていたのは怪我をした鴉かなにかではなかったか? と思い至った。

 しかし常識で考えて鴉では有り得そうにない。きっと鴉羽に似たファーか何かだったのだろうと考え直した。ちょうど信号が変わって連れが歩きだしたため、後を追って確認まではしなかった。

 しかし何かが、ヘチ子の意識の深いところをくすぐった。ように思えた。香水か何かの匂い――。具体的にそれが何の匂いか嗅ぎ別けるまでには到らなかったけれど、なぜか懐かしいような感覚があった、気がする。


 ヘチ子と林檎Bの第一接近は、こうして不全に終わった。

 ヘチ子は空を見上げていたし、林檎Bも腕のなかの命を見つめていた。いったんは小指を伸ばせばふれあうほどの距離まで接近しながら、二人はすれ違って行った。運命の重力に気づかないまま別れたのだった。

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