問題編

「富岡くんが殺された」

 次の月曜日、担任の松原は、重々しい口調で言った。松原は教員歴三年の新米で、常日頃から騒がしい生徒を窘めていた。しかし、その日の朝の会は最初から静まり返っていた。松原をからかうのは竜星の役目だったことを、優奈は思い返す。

 優奈を含めた一年一組の生徒は、二階にある空き教室に移動させられた。一組の教室は、事件から二日以上経った今も、立ち入ることを許されていない。

「犯人は、まだ捕まっていない」松原が拳を震わせる。「残りの三十三人は、絶対に僕が守ってみせる」

 優奈は、竜星が遺した「空」の文字を思い返していた。赤褐色に紛れる、黒色のダイイングメッセージ。自分ですら見つけたのだから、警察が見逃すはずがない。そして、現場が一年一組の教室だった以上、担任の松原が知らないはずがない。しかし松原は、一度たりともそのことを口にしなかった。

 優奈は考える。先生は、あえて黙っているのではないだろうか。もし本当にクラスメイトが犯人ではないと考えているなら、「空」について何か知っていることがないか尋ねるはずだ。しかし先生は尋ねない。

「ひとまず朝の会を終わらせよう。浅野さん、号令お願い」

 日直としての責務を果たしながら、優奈は、松原が「空」を隠したがっているのだと悟る。殺人によってクラスの一員を失いながらも、しかし有力な証拠である「空」のことは生徒に知らせない。矛盾を孕んだ松原の行動に、とっかかりを覚える。

 優奈は考えた。つまり、このクラスの中に犯人がいる。

 竜星は決して頭の冴える男ではなかった。しかも頭を殴打されていた。それならば、「空」は特別な暗号ではなく、単純に犯人の名前の一部だと考えられる。

 一年一組で、空に関連する名前を持つ人物となると、三人の容疑者が浮上する。渡辺夜空(よぞら)、竹田空澄(ますみ)、進藤空良多(あらた)の三人だ。

 夜空は、いつも竜星とつるんでいた。部活も竜星と同じくサッカー部。校庭で仲睦まじくボールを蹴っている二人の姿を、優奈は何度も見かけていた。夜空が竜星を殺害する動機など皆無に等しいのだが、しかし容疑者の中で最も竜星と密接な関係にあったことも否定できない。

 対して空澄は、誰とも必要以上に関わらないような生徒だった。たいていは自分の席で読書をしており、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。部活には所属していないものの、学級委員を務めている。それも自発的ではなく、誰も委員に立候補しなかったため「私がやります」と気を利かせた結果だ。社交的ではないものの、周りを見る目はある。

 一方、空良多に周りを見る目はなかった。学級委員を決める会議でも、空澄が立候補するまで、自分はやりたくないと文句を言い続けていた。その性格からか、クラスでの交友関係は浅い。所属している科学部でも距離を置かれている。対する当人は、自分を腫れ物のように扱う部員たちを見下していた。

 この三人の誰かが犯人なのだと、優奈は確信した。そして犯人を見つけてやろうと思い立った。どこか犯人を庇おうとする松原への反抗心と、竜星に向けられた悪意の正体を、自分の目で確かめるためだった。

 一時間目が始まるまで、五分程度の時間があった。優奈は聞き込みをするために、まず夜空に目を遣る。彼は友人の竹本と話していたが、その表情や声色はひどく暗いもので、目の下に隈ができていた。体裁的な談笑だ。今の夜空に聞き込みはできないだろうと、優奈は思い直す。

 次に空澄へと視線を向けると、ちょうど目が合った。それから空澄は立ち上がって、つかつかと、優奈の元へ歩み寄ってくる。頭の中を見透かされたようで、思わず優奈は身構えてしまう。難癖を付けられそうで不安だったのだ。

「浅野さんが、第一発見者なのよね」

 優奈の懸念とは裏腹に、空澄は声を和らげた。

「どう、ちゃんと眠れたかしら」

「まあ、うん。大丈夫」空澄とはあまり話さないので、返事がぎこちない。

「そう、良かった。私は眠れなくて。お兄ちゃんにも心配をかけてしまったの。高校の勉強も忙しいって言っていたのに。本当に悪いことをしたわ」

 優奈は首を傾げた。どうして空澄が眠れなかったのだろうか。空澄は竜星とほとんど関りを持っていなかったはずだ。そう不思議に思っていると、空澄の方から切り出した。

「現場に『空』という文字があったらしいのよ。それで、昨日も一昨日も家に警察が来たの。ほら、私の名前って、空澄だから」

 空澄はスカートの汚れを払いながら、更に続ける。

「渡辺くんと進藤くんも大変だったみたい。だから第一発見者の浅野さんも心配だなって思ったけど、眠れたならよかった」

 第一発見者の優奈には、アリバイがあった。放課後から午後六時まで、ずっと三階の自習室にこもっていたのだ。そのことを、自習室にいた松原や他の生徒が覚えていた。

「いいなあ、疑われないのって」空澄が言う。「私はすぐに家に帰ったの。見ている人もいた。それでも疑われるから、勘弁してほしいって思ったわ」

 授業の開始を告げるチャイムが鳴る。空澄は「じゃあね」と言って、自分の席に戻るのではなく、廊下へと出ていってしまった。

「あれ、竹田はトイレか」

 教壇に立った松原が、教室中を見渡す。優奈が「そうです」と答えると、松原は軽く頷いただけだった。空澄が授業を抜け出してトイレに行くのは、今に始まったことではない。

 空良多は頬杖をつきながら、一つ大きなため息をつく。警察の事情聴取に疲れたということを、誰かに労わってほしいと訴えかけるように。


 その日の授業は、セミの抜け殻のように中身がないと、優奈は感じていた。給食の味がしなかったとき、ようやく自分が寂しいのだと気付いた。

 竜星からのラブレターは、未だにスカートのポケットに入っている。それに触れるたびに、自分は竜星と手を繋いでいるのだと思えて、ほんの少しの間だけ妄想に浸ることができた。都合の良い空想には溺れる方が幸せだと、優奈はしみじみと感じる。

 昼休みを迎えて、優奈は階段を下っていた。事件現場に向かうためだ。階段を下る足音が、右耳から左耳に流れる。先週まで普通に歩いていた廊下が、ひどく懐かしいもののように思える。

 数日ぶりに訪れた一年一組の教室は、立入禁止の黄色いテープで囲われていた。二つの扉はどちらも開かず、教室の前には、夜空が一人で立ち尽くしている。友人の竹本は一緒ではない。

 優奈が「渡辺くん」と声をかける。夜空は大きく息を吐いてから、ゆっくりと優奈に顔を向けた。

「来ると思ったよ、浅野」

 その言葉が、優奈にとっては不思議だった。自分は事件の第一発見者で、それ以上でもそれ以下でもない。それどころか、事件のことを忘れたいと思うあまり、優奈は教室に近付かなくなるはずだ。しかし夜空は自分が来ることを予期している。

「どうして、来ると思ったのか教えて」

 夜空は「まあ」と言葉を濁す。それが優奈には不愉快でたまらなかった。弄ばれているような心地がしたのだ。

「黙らないでよ」優奈は眉をひそめる。「自分から言い出したのに、言わないって卑怯だよね」

「言うよ。言うけど、怒らないって約束してくれ」

 優奈は首を縦に振りながら、余計な手間をかけるなと苛立った。松原といい、夜空といい、大事なことを隠したがる。人が亡くなった以上、綺麗事は言っていられないというのに。優奈には、他人の心理というものが、方程式よりも理解できなかった。

「簡単に言うと、俺は、ラブレターのことを知っている」

 そう言われた瞬間、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。恥ずかしくなった理由を説明できるほど、優奈は大人びた女子でもなかった。ひとまず怒りを露わにしようと試みたものの、夜空との約束を破ることになってしまうので、結局は押し黙るしかない。

「竜星から聞いたんだよ。あの日、浅野からラブレターを受け取ったって」

「えっ」

 あまりに素っ頓狂な声が出てしまう。先程まで覚えていた怒りと恥じらいも、吐息と共に消えてしまった。

「どういうこと、渡辺くん」

「そのままの意味だろう。浅野がラブレターを届けて、竜星が受け取ったんだ」

 優奈は首を横に振る。スカートのポケットに手を遣って、固い手触りがあることを確認する。ゆっくりと取り出して、それがラブレターだということを確かめる。

 竜星は「優奈からラブレターを受け取った」と言ったらしい。それでは、自分が持っているラブレターは、一体何のために書かれたというのか。

 夜空も状況を察したようだった。優奈のラブレターを覗き込み、「これはあいつの字じゃないな」と眉を曇らせる。優奈も文章に目を遣った。男子が書いたような荒々しい字だが、しかし竜星のものではない。

「おかしいと思ったんだよ。普通、ラブレターにフルネームなんか書かない。せいぜいイニシャルだ。でも、あいつが受け取ったラブレターには、浅野優奈と書かれていた」

「そのラブレターって、今はどこにあるんだろう」

 すると、優奈の横から「探したぞ」と野太い声が聞こえた。竹本の声だ。竜星、夜空、そして竹本は常に三人組で行動していた。部活が一緒だったからだ。

「夜空、そこまで思い詰めんなよ」竹本が声を和らげる。「そりゃあ、もう二度と喋れないけど、お前は悪くないさ。竜星もやりすぎだったんだよ」

「別に、思い詰めてないよ。同情が欲しいわけじゃない。ただ後味が悪いだけで」

「ふうん。まあ、お前らしいな。そういう回りくどいのって」

 優奈は、突然蚊帳の外に放り出されたようで、段々と不愉快になった。つい先程まで話していた相手を横取りされると、腹の虫が治まらない。感情に任せて「ねえ」と語気を荒げる。

「富岡くんが受け取ったラブレターは、今、どこにあるの。教えてよ」

「あいつが破って捨てた」

 夜空が低い声で答えた。ラブレターを破って捨てた。手紙を出したのは自分ではないのに。頭が真っ白になった優奈を見かねて、竹本が言葉を継いだ。

「竜星、毎週女子から呼び出されていたからな。段々調子に乗ってきて、俺たちの前で内容を読み上げてから、手紙を破ることもザラにあったぞ」

「それなのに、告白は丁寧に断っていたらしい。本当に性格悪いんだから」夜空が文句を垂れる。

「先週の金曜日、浅野のラブレターも破られた」竹本が続ける。「そうしたら、夜空が『いい加減にしろよ』って言ってな。段々エスカレートして、結局、決着はつかなかった」

 竹本の話によると、それは午後四時頃だったという。竹本は争いに関わりたくない一心で、二人を置いて帰ってしまったらしい。それから午後八時を回り、学校から電話がかかってきたことで、竜星が亡くなったことを知ったそうだ。

「浅野、探偵ごっこはやめておけよ」夜空が言う。「一歩間違えれば、殺されたのは自分かもしれないんだからな」

 ラブレターに書かれた、午後六時十分ぴったりという時間指定。数分でも早とちりしていれば、自分が犠牲になっていたかもしれない。優奈は背筋を震わせた。

 やがて、夜空たちは去っていく。優奈は二人の背中を見つめながら、夜空の言葉を反芻した。一歩間違えれば、殺されたのは浅野かもしれないんだからな。

 もはや、優奈が竜星に固執する理由はない。竜星が自分を好きではなかったことに加えて、自分名義のラブレターが破られたことを考えれば、百年の恋も一時に冷める。どれだけ美しい夢も、目を覚ませば忘れてしまうように。

 空っぽの優奈をマリオネットの要領で動かしていたのは、「利用された」という屈辱感だった。あのラブレターさえなければ、自分は傍観者だった。高嶺の花が枯れて、それだけでいられた。しかし自分は第一発見者となり、人間の遺体をこの目で観測した。竜星から好かれていなかったという現実を、刃物でそうするように、首に突きつけられた。

 優奈は思う。もしも犯人が目の前に現れたら、顔面に一撃食らわせてやりたいものだ。

 持っていたラブレターを、思い切り裂いた。ビリリという断末魔が、復讐でも成し遂げたかのように心地良い。はらはらと舞い落ちる紙屑。桜は枯れるものだと、優奈は思い知る。

 空っぽになった復讐心を、屈辱によって紛らわせる。自分自身を追い立てる。


 優奈が階段を上っていたところ、下りてくる空澄とすれ違った。お互いの髪が風で揺れるだけで、言葉を交わすことはない。されど優奈は、空澄がトイレに向かっているのだと信じて疑わなかった。

 二階の教室に戻ると、空良多が一人で「うう」と頭を抱えていた。睡眠不足で参っていたのだ。教室には、他に誰もいない。

「進藤くん」

 優奈が声をかける。空良多は振り向かない。

「進藤くん」

 二度目にして、ようやく空良多は「聞こえている」と不機嫌そうに声を荒げた。目には隈ができている。眠れなくて大変なのだろう、と優奈は他人事のように思う。

「分かっているよ。僕に話しかけるってことは、どうせ富岡のことだろ。もううんざりだ。今週に中文連の発表があるってのに、散々なんだ」

「それは、ごめんね」優奈は謝る。しかし悪いとは思っていない。

「謝って済むなら警察は要らない。そうだ、警察なんか要らないんだ。国家の犬のくせに」

 警察に根掘り葉掘り聞かれたのだろう。内容について訊きたい気持ちはあるものの、しかし好奇心で空良多を傷付けてしまうかもしれない。優奈が逡巡していると、空良多が舌打ちする。

「で、何しに来たの。何もないなら邪魔しないでくれる」

「ええっと……」

 返事を待つこともなく、空良多は机に突っ伏した。これ以上話しかけるな、という意思表示だろう。それはつまり、話したくない理由があるということだ。

「ああ、そう」優奈はわざとらしくため息をつく。「じゃあ進藤くんがやったんだ」

「やってねえよ。何を根拠に」

 腹立たしかったのか、空良多が机を蹴った。机はガタンと大きな音を立てて、揺れ動く。優奈は気後れしながらも、声を震わせて、更に言葉を続けた。

「だって、言いたくないんでしょう」

「事情聴取に疲れただけだ。何度も同じことを喋るのって、面倒なんだよ」

「それなら最初からそう言えばいいのに。察してアピールが本当に下手ね」

「何がアピールだって」空良多が立ち上がる。優奈を見下ろす。「もう一度言ってみろよ」

 優奈は、ゆっくりと、相手の神経を逆撫でするように呟く。「察してアピール」

 空良多の怒りは限界だった。しかしながら、それは優奈の思索した通りだ。

 空良多にとって、優奈は自分を犯人扱いする害悪でしかない。ただ、このまま優奈を無視すれば、状況は更に悪化するだろう。優奈を追い払う唯一の手段は、事実に基づいた主張、つまりアリバイを証明することによって、自分が犯人ではないと認識させることだ。たとえ、空良多自身が犯人だったとしても。

 優奈の懸念としては、空良多が暴力を用いることだった。感情が先走ってしまうと、論理が置いていかれてしまうものだ。理性と感情の天秤は、わずかな重みで傾く。その一点を危惧していた優奈だが、空良多がゆっくりと椅子に座るのを見て、懸念は杞憂に終わったのだと胸を撫で下ろす。

「分かった。知っていることは全部話すから、もう二度と富岡の話題を出すなよ」

 優奈は首を縦に振る。それから、どのタイミングで嘘が混じるかを聞き逃さないために、意識を集中させた。

「あの日、僕は理科室にいたんだよ。しかも二階のね、二階」

 優奈は、なぜ空良多が二階を強調したのかすぐに理解できた。事件現場が一階だからだ。

「進藤くんは、一回も理科室から出なかったんだ」

「いや」五秒ほどの沈黙。「一回も出なかったわけではない」

 意味ありげに語る空良多に、優奈は辟易する。「じゃあ、どこに行ったのか教えて」

 空良多は、鞄から『世界の樹木』と書かれた図鑑を取り出した。

「図書室だよ」その図鑑を机に乗せる。「これがその証拠。五時半くらいに借りた」

 優奈は、少しだけ不自然さを感じ取った。どうして五時半に借りたのだろうか。科学部の活動に使うなら、もっと早めの時間に借りた方がいいはずだ。なぜなら六時には帰らなければいけなかったから。

 三十分かそこらで行える樹木の実験など、優奈が思いつく範囲では一つもない。

「ああ、そうそう」空良多が続ける。「校庭を見ていたら、怪しいやつがいたんだ」

「怪しいやつ」あまりに抽象的な言葉なので、優奈は思わず復唱する。

「ちゃんと見れなかったんだけど、まあ聞けよ」

 空良多は足を組み、優奈に向き直った。

「僕は、理科室の窓から校庭を見ていた。サッカー部や野球部がね、まあうるさく練習しているんだ。その中で、一人だけ学ランを着ているやつがいたら、不自然に思わないかな」

「えっ、どうなんだろう」優奈は首をかしげる。「見学していた可能性もあるよ」

「最初は僕もそう思った。でもおかしいんだよ、そいつ。校庭の倉庫から出てきたと思ったら、何も持たずに、逃げるように校庭から走り去ったんだ」

 優奈は「そう」と相槌を打った。倉庫は物資を保管する場所だ。しかし出てきた人物が何も持っていなかったとなると、逆に何かを置いたと考えるのが妥当だろう。

「その生徒が、倉庫に入るところは見ていなかったんだね」

 空良多が首を縦に振った。つまり、置かれた「何か」は不明だということになる。

「これで僕は犯人じゃないって分かったよな」空良多は、再び机に突っ伏す。「富岡の話題はおしまいだ。もう関わらないでくれ」

 これ以上引き出せる情報はないだろう。優奈は大人しく自分の席に戻った。

 昼休みも終わりに近付く。額に汗を浮かべた男子たちが、次々と教室に入ってくる。竜星の姿はどこにもない。そうだ、竜星は殺されたのだ。優奈は改めて認識する。

 放課後、校庭の倉庫に足を運ぼう。置かれた「何か」を探し出して、犯人を特定してやろう。竜星のためではなく、尊厳を踏みにじられた自分自身のために。

 優奈が拳を握る。優奈の横顔を、夜空がじっと見つめている。


 机を持って動くことは、力の弱い優奈には拷問でしかなかった。

 放課後を迎えて、掃除の時間になった。優奈の通う中学校では、床を傷付けないために、机を持って運ぶことを義務付けている。ところが、力のない一部の生徒には、大変な苦労がかかった。何度も生徒総会で話に上がったものの、とうとう義務が覆ることはなかった。

「俺がやるよ、浅野」

 最近では、机を持てない生徒の代わりに、力のある生徒が運ぶことになっている。優奈の机を運ぶのは、たいてい夜空の役割だった。

「ブラック校則だよなあ、本当に」夜空は苦々しく笑う。「生まれ持った力なんか、どうにもならないってのに」

 優奈は、決して「ありがとう」とは言わなかった。その代わりに「ひどいよね」と同調した。理不尽な校則によって窮屈な思いをしているということを、松原や他の生徒にも共有するためだ。一方の夜空も、見返りを求めていたわけではなかった。

「浅野」夜空は声を潜める。「竜星の件、まだ探っていないよな」

 いきなり竜星の名前が出たものだから、すぐに返答できない。優奈は黙りこくる。

「探っているのか」

 もはや否定できないと考えて、優奈は首を縦に振った。夜空は腰に手を当てて、ため息をつく。失望した、とでも言わんばかりに。

「分かったよ。じゃあ俺も行くからな」

 夜空が捜査に参加するのは、優奈にとっては都合が悪かった。なぜなら夜空も容疑者の一人だから。捜査に加わりながらも、証拠を隠蔽する可能性があった。

 しかし空良多のときと違い、「容疑者だから」と煽って夜空を怒らせるメリットはない。本人を前にして首を横に振ることもできず、結局、受け入れざるを得なかった。

 夜空は、空澄の机を運ぶ竹本に「今日の部活は休む」と伝えて、優奈の隣についた。学ランの袖をまくり、鼻息を荒くしている。やる気に満ち溢れているようだ。

「ねえ、浅野さん」

 二人が廊下に出たところで、声をかけられた。空澄だった。

「盗み聞きして申し訳ないけど、犯人捜しをしているのよね」

「うん。そうだけど」嫌な予感がする。

「私も一緒に連れて行ってよ。『空』のこと、いい加減はっきりさせたいの」

 厄介なことになったと、優奈は頭を抱えたくなった。容疑者が二人も捜査に参加するなんて、無茶苦茶だ。ただし今回は断る理由がある。夜空は竜星の友達だったが、空澄はそうではない。空澄は野次馬と変わらないのだと指摘すればいいのだ。

 優奈が断ろうとしたとき、空澄が「ねえ」と優奈に耳打ちする。

「『空』のつく名前の人を疑っているんでしょ」

「えっ」優奈は返答に窮する。

「それなら、なおさら私がいるべきよ。渡辺くんが犯人だったら、浅野さん、危険な目に遭うかもしれないわ」

 もっともだ。しかし空澄が犯人という可能性も否定できない。夜空も空澄も来なければいいのだが、それを面と向かって言えるほど、優奈は図太い神経を持ち合わせていない。

「お互いに監視すればいいの」空澄がささやいた。「私が渡辺くんを、渡辺くんが私を見ていれば、何も起こるはずがないわ」

 結局、その提案を受け入れることにした。夜空にも事情を話したところ、不満そうな顔をしながらも了承してくれた。唯一不安なことは、空澄が犯人で、お互いを監視するという提案自体を利用されることだ。とはいえ、身の安全は保障された。優奈は少し冷静になる。

 優奈は二人に、証拠を探すために校庭の倉庫に行く、という趣旨を伝えた。「警察が既に回収しているかもしれない」と夜空が言うものの、かといって他に情報もないので、結局は一度足を運んでみよう、という流れになった。

 優奈たちは校庭に出た。サッカー部と野球部の声が響く。意識して声を張り上げないと、近くにいる空澄にすら声が届かなかったほどだ。

 夜空は項垂れて、顔を隠そうと振る舞っていた。練習を休んでいる罪悪感があるからだろうと、優奈は推し量る。ところが、実際の夜空は、ありとあらゆることを回想していたのだった。

 夜空は思い返す。入学当初から頭角を現す竜星と、平凡でしかない自分。一年生ながらにボールを蹴られる竜星と、道具を磨くだけの自分。黄色い声援が不平等だと、十三歳の子供にして理解していた。自分は、誰よりもサッカーと向き合ってきたつもりだったのに。

 だから、自分よりも活躍する竜星のことが、取り込みたいほどに羨ましくて、吐きそうなほどに嫌いだった。

 表彰台のような関係。たとえ隣に立っていようと、差は一段ではない。それは持つ者と持たざる者の対比なのだと、最も繊細な部分で理解している。

 夜空は、部活を休んで正解だったと思った。もはやサッカーを続ける気力はなく、空っぽになった自尊心を紛らわせる方法さえも見つからなかったからだ。

 眠れない日が続く。夜空は、確かに竜星を嫌っていた。しかし憧れでもあった。憧れが消えて、本当に良かったのだろうか。竜星を嫌っていた自分は正しかったのだろうか。

「あら、進藤くんがいる」

 ふと空澄が呟いた。優奈が顔を向けると、空良多が校庭の木と向き合っている。学ランの上から白衣を羽織っており、様になっているな、と優奈は思った。

「難癖をつけられる前に行こう」夜空が先を急いだ。

 三人は、倉庫の前へと辿り着く。夜空が扉に手をかけると、耳障りな音を立てながらも、いとも簡単に開いた。「鍵はかかっていないみたいだ」と夜空が言う。

「渡辺くん、私たちは入らない方がいいんじゃないかしら」

 空澄には、自分が容疑者だという自覚があるようだ。優奈もやんわりと「そうかも」と同調する。夜空は文句を言いながらも、大人しく従った。

 優奈が一人で倉庫に入る。洞窟のように暗い空間だ。床には、ほつれたグローブや、折れたバット、空気の抜けたサッカーボールが散乱している。他にも金づちやドリルといった工具や、座椅子の骨組みまである。リサイクルショップみたいだ、と優奈は思った。

 それもそのはずで、数十年前に技術室が火事で消失したときに、臨時で建てられたのがこの倉庫だった。その名残として、至る所にコンセントがある。野球部員が隠れてゲームをしていた、という事件もたまに発生しているという。

「何かあったか」夜空が声をかける。「暗くて奥まで見えないんだ」

 優奈は倉庫から出て、「際立つものはなかったよ」と答える。

「際立たないものはあったのね」空澄が問いかけると、優奈は首を縦に振った。

 特徴的なものがなかったとなると、空良多が目撃した人物は、一体どのような意図があって倉庫に入ったのだろうか。本当に目撃したのだろうか。そもそも、そのような人物は本当に存在したのだろうか。

 情報源の空良多を探すために、優奈は辺りを見渡した。しかし、視界に白衣がちらつくことはない。どこかへ消えてしまったのだろうか。

「どうしようかしら」空澄が首をかしげる。「警察に任せるのも一つの手よね」

「馬鹿言えっ。俺たち、その警察に散々疑われたんだ。あいつらに任せておけるかよ」

 感情を露わにする夜空を横目に、優奈は情報を整理することにした。

 午後六時十分、二箇所の損傷。積み重なった机のバリケード、「空」の文字。破られたラブレターに、夜空と竜星の対立。校庭から走り去った、存在不明の人物。そして、倉庫に立ち寄った目的。

「ああ」

 優奈は息を吐くように笑った。夜空と空澄は、怪訝そうな表情を浮かべる。気でも狂ったのか、とでも言わんばかりに。

「どうしたんだよ」

 夜空の問いかけにも応じない。二人が気味悪そうに見守っていると、優奈は、前触れもなく駆け出した。二人は反応することもできずに、とうとう置いてきぼりにされた。

 校庭を疾走すると、スポットライトを浴びている気分になる。

 タン、という砂の乾いた足音に、校庭を照らす茜色の光。試合終了を告げるホイッスルが鳴れば、サッカー部は地面に寝転がる。わたしだけの校庭。まるで自分が主役の劇を演じているようだと、優奈は胸を弾ませる。

「竹本くん」

 優奈は、校庭のベンチに座っている竹本の元に駆け寄った。周りの生徒たちが囃し立てるのも、優奈の耳には入らない。頭に浮かんだ仮説を証明するのに精一杯なのだ。

「渡辺くんって、富岡くんからどういう風に呼ばれていたのか教えて」

 急に質問されたものだから、竹本は分かりやすく狼狽する。「急になんだよ」とまごついても、周りの喧騒にかき消される。

 やがて竹本は落ち着きを取り戻し、優奈の目を見据えた。

「あいつは、ヨルと呼んでいたよ」

 優奈は、仮説が正しかったことを確信した。細くて頼りない糸が、互いに絡み合って、大きな糸を演出していたのだと知った。しかしこれは演出でしかない。一本がほつれてしまえば、それは音を立てて瓦解する。

「どうして、こんな簡単なことに気付かなかったんだろう」

 優奈は、窓越しから一年一組の教室を見た。古びた箱庭のように思えた。

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