なあ、狡猾な空
阿部狐
プロローグ
廊下を逆走すると、スポットライトを浴びている気分になる。
タン、という上履きの乾いた足音に、窓から差し込む茜色の光。午後六時を告げるチャイムが鳴ろうと、夏空は未だに夜を知らない。まるで自分が主役の劇を演じているようだと、浅野優奈は胸を弾ませる。
優奈はスカートのポケットから、一枚の手紙を取り出した。数分前、自分の下駄箱で見つけた手紙だ。ハートマークの付いた便箋が、優奈の動揺を誘う。
午後六時十分ぴったりに、一年一組の教室に来てください。富岡竜星より。
優奈は、その手紙を十数回も読み返している。たとえ古典的なラブレターだろうと、中学一年生の女子を喜ばせるには充分な効力があるらしい。
優奈を呼び出した竜星は、クラスでも声の大きい男子の一人だ。一年生ながらにサッカー部のレギュラーを務めており、中体連の地区大会優勝に貢献した立役者だった。当然女子からの人気は高く、竜星はサインを書くために油性ペンを持ち歩いていた。毎週のように告白されており、毎回断っていたという噂も流れている。
そんな富岡くんが、わたしを呼び出すなんて。
高揚する気持ちを抑えきれない。しかし、なぜ自分を呼び出したのか疑問でもあった。優奈はサッカー部のマネージャーでもなければ、竜星と同じ小学校でもない。言葉を交わしたのは、せいぜい二・三回程度。
その一方で、優奈は、授業中に男子の視線を感じる瞬間があった。うなじを突き刺すような、鋭く尖った視線。その正体について、優奈は「富岡くんの視線であってほしい」と願っていた。
一年一組の教室は校舎の端にある。優奈が教室に着く頃には、校庭にも廊下にも、優奈以外の生徒はいないようだった。というのも、午後六時の段階で、生徒は下校する必要があったのだ。それ以降、校舎にいてはならない。
つまり、わたしたちは、二人で良くないことをしている。その思い込みが優奈をそそらせた。
手が震えるほどの背徳感を覚えながら、優奈は扉に手をかけた。ぐいと力を入れて、横に引く。しかし思うように開かない。手が入り込めるほどの隙間は作れるが、それまでだ。扉に鍵はないので、何かが引っ掛かっているに違いない。
優奈は、中にいると思われる竜星に「開かないよ」と言おうとした。しかし、声を出せば、校舎にいる先生に聞こえるかもしれない。せっかく竜星に呼び出されたというのに、大人が来てしまっては興ざめだ。規則は子供だけで破るから胸が躍るのだと、優奈は思い直す。
そこで、もう一つの扉に目を向けた。片方の扉を塞ぐということは、もう片方を開けてほしいということだ。優奈は大人しく従うことにする。
もう一つの扉は、開かないどころか、片足が入る隙間すらあった。分かりやすいなあ、と優奈は苦笑いを浮かべる。少しばかり辟易しながらも、優奈は扉に手をかけて、ゆっくり横に引いた。
その瞬間だった。優奈の目の前を、拳ほどの石が落下する。黒板消しを落とす要領で、石が落ちてくる。それは優奈の上履きに衝突して、何事もなかったかのように、教室の方へと転がっていった。
扉に挟めるほどの石なのだから、そこまでの重量はなかったようだ。優奈は顔こそしかめたものの、怪我を負ったわけではなかった。
とはいえ、優奈が機嫌を損ねたことに変わりはない。一度舌打ちをしてから、自分をおびき寄せて石を落とした犯人を、この目で見てやろうと奮い立った。
そこで教室を覗いてみると、カーテンが閉まっている。電気は点いていない。そこで電気を点けても、誰の姿も確認できなかった。そもそも、石を落とすイタズラを仕掛けるなら、犯人は、ターゲットを見られる場所に待ち伏せているはずだ。しかし教室にも廊下にも人はいない。
ふと転がった石に視線を向けたとき、優奈は目を疑った。石の一部分が赤いのだ。鮮やかな赤というよりかは、くすんだ赤褐色。思わず「血だ」と声を漏らす。
顔を左に向けると、扉が視界に入ってきた。優奈が開けられなかった方の扉だ。机が二つ積み重なっており、扉を開けるためのスペースを封じている。
悪趣味だ、と優奈はため息をつき、顔を下に向けた。すると、自分が水溜まりの上に立っていることを知った。いや、水溜まりではない。それは赤褐色だった。
優奈は吐き気に襲われながらも、血が流れ出した場所を探し始めた。歩く度に、ぺちゃり、という上履きの湿った足音が鳴る。目か、耳か、口か。優奈は何を塞ぎながら歩けばいいか分からなかった。
優奈は、廊下側の壁に手を当てる。おもむろに足を踏み出す。ぬちゃり。血を見ないように、真っ直ぐと前を向いて歩いた。
突如、何かを蹴ったような感触があった。それは、ふざけて友達を蹴ったときの感触に似ていた。人がいるんだ、と優奈は理解する。
ゆっくりと視線を下げたとき、優奈は目を見開く。途端に力が抜けて、膝から崩れ落ちた。血が飛び散り、彼女のスカートを赤く染めた。口を動かそうにも、痙攣してままならない。それから優奈はうつ伏せに倒れ込み、ようやく自由を取り戻した唇を震わせて、感情のままに絶叫した。
教室の床、優奈の衣服をも浸食する血の持ち主は、紛れもなく、富岡竜星だった。
竜星は、うつ伏せのまま、頭から血を流している。それがとめどなく流れるからか、むしろ生命力すら感じさせた。既に事切れているというのに。頭部には二箇所の損傷があり、そのうちの一箇所は著しく抉れている。
日焼けした手足には、傷の一つも付いていない。カーテンの隙間から入り込む斜陽の光を、鏡のように反射している。四肢だけでも動き出してほしいと、優奈は血まみれの中で思った。
「ねえ。わたし、富岡くんに呼ばれて来たんだよ……」
優奈は、目を赤く腫らしながら、竜星の肩を揺すった。返事はない。もはや竜星は空っぽなのだと、改めて現実を突きつけられる。
震える腕を動かしながら、優奈は竜星の首に手を回した。太い首と、大きな肩。憧れだった竜星が、今だけは自分のものになっている。
少しだけ浮いた竜星の下の床には、ぼやけた字ながらも、油性ペンで「空」と書かれていた。その「空」の文字こそが、竜星の遺したダイイングメッセージなのだと、優奈は瞬時に悟る。自分に託された、犯人への手がかり。
黒板と向き合う、三十二の机と椅子。それらが一セット消えてしまうことに、どれだけの時間で慣れるのだろうか。優奈にはまだ分からない。
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