5.あなたの心に触れたなら
「……あれ?」
とある日の朝。わたしが森の魔女などと呼ばれる少女と暮らし始めてから、数日が経ったある日のこと。目が覚めたわたしを出迎えたのは、朝食の準備が全くできていないテーブルだった。
あの少女が一体何時から起きているのか分からないが、わたしが起きると、決まって毎日しっかりと、朝食の準備が整っているのだ。流石に申し訳なくて、わたしも朝食の準備しますと言ったことはあったが、ばっさりと断られてしまった。
そういう経緯もあり、わたしは、朝食ーさらに付け加えて言うなら家事全般を、彼女に任せきりにしてしまっている。
だから、珍しいな、と思ったのだ。なんだかわたしに家事をあまりさせたくなさそうにしている彼女が、わたしが起きる時間になっても、何もしていないなんて。
というかそもそも、彼女はどこにいるのだろうか。そう思ってぐるりと狭い小屋を見渡せば、答えはすぐに見つかった。わたしが眠っているベッド、その反対側で、少女は毛布にくるまっていたのだ。毛布の端から、綺麗な銀の髪がちらりと見えているから、おそらく間違いないだろう。というか、わたしと少女以外の人物がこんなところで眠っていたら、それはそれで怖いのだが。
「おーい、大丈夫ですかー?」
わたしは大きな毛布団子と化している少女に近づいて、声をかける。少女からはなんの返事もない。
もう一度声をかけようと、毛布の塊にそっと手を置いた時、わたしはふと違和感を覚えた。
なんだか毛布の塊が、いやに熱い。
わたしは毛布をひっぺがすようにして、彼女を毛布から引き剥がす。ころりと転がり出てきた少女の頬は、真っ赤に染まっていた。
わたしはそんな少女の頬に、ぴたりと掌を引っ付けた。
「あっつ!!ちょっとあんたこれ、熱あるんじゃないですか!?」
「ん……んん……うるさいわね……」
わたしが騒ぐ声で、少女は目を覚ましたようだった。しかしその瞳にいつもの凛々しさはなく、とろりと熱を帯びて潤んでいる。
完全に、病人の顔だった。
わたしはひとまず少女を再び毛布で包むと、慌ててベッドに寝かせた。自分より大きい人を運ぶのには骨が折れたが、なんとか抱えて運ぶ。足はずるずると引きずる形になってしまったが。
そうして、やっとの思いでベッドに寝かせると、タオルを冷たい水で濡らし、少女の額に乗せた。
少女が気持ち良さそうに息を吐くのを見て、ようやくわたしも一息つく。
しかし、ここからどうすればいいのだろう。この家に薬があるのかも分からないし、看病なんて、されたことはあってもしたことなんてほとんどない。すると、わたしがおろおろと戸惑っているのを察したのか、少女は毛布から腕を伸ばすと、わたしの背後を指した。
「……そこの戸棚の中」
「え?」
「ぼくが体調を崩した時、いつもすり潰して飲んでる薬草があるわ」
少女が熱い息を吐きながら言う。言われた通りに戸棚を開ければ、そこには少女の言う通り、薬草とすり鉢のようなものがあった。
取り出して、テーブルの上に置く。どうすればいいのかとあたふたしていると、再び少女の声が飛んできた。
「適当にすり潰してくれればいいわ」
本当にそんなのでいいのかとは思ったが、今頼れるのは彼女しかいないのだから仕方がない。病人に頼る状況もそれはそれでどうなんだと思いつつ、わたしはごりごりと薬草をすり潰した。意外と力がいるその作業は、わたしの力ではなかなか進まず、ようやく飲める程度にまですり潰せた頃には、幾分時間が経ってしまっていた。
「……できました」
そう言って、少女にすり鉢と、それから水を渡す。少女はありがとう、と言いつつ身を起こしてそれを受け取ると、なんの躊躇もせず、その薬草の粉末と水を、口に含んだ。
少女はそれから再びベッドに身体を沈めて、目を閉じた。暫くすると、すう、すう、と穏やかな寝息が聞こえてきて、わたしは少女が眠ったことを知る。眠っている少女は人形のようなのかとも思ったが、熱で頬が赤らんでいるからか、妙な人間らしさがあった。
少女が眠ってしまえば、もう特にすることはない。わたしはベッドの脇に椅子を持ってくると、そこに腰掛けて、それから、少女の手を握った。以前風邪を引いた時、お母さんがそうしてくれたことが嬉しかったのを、ふと思い出したからだ。
握った少女の手は、先日とは違って、ひどく温かかった。
「……ワ、トワ」
誰かに声をかけられた気がして、わたしの意識はゆるりと浮上した。
どうやらいつの間にか、眠ってしまっていたらしい。声の主は、なんだか不安そうな表情を浮かべた、一緒に暮らしている少女だった。
少女の顔はまだほんのりと赤くて、熱が下がっていないことを如実に伝えてくる。
そんな少女は、つらいだろうに身体を起こして、わたしをじっと見つめ、それからぽつりと呟いた。
「どうして、ぼくを殺さないの」
「え?」
「仇が弱っているのよ?そんなの、殺す絶好のチャンスじゃない。それなのに、どうして」
「どうして、って……」
どうして、と言われても、わたしにも分からなかった。
確かに、絶好のチャンスだったに違いない。どうせ刺し殺したところで、なんなら薬の中に毒を混ぜたところで、少女はきっと死なないのだろうが、だけど、殺そうとする絶好のチャンスであったことは、間違いないのだ。
だけどわたしは、それをしなかった。
「……弱っている人に、そんなことできませんよ」
我ながら、苦しい言い訳だと思った。そんな甘さを見せる必要なんてない相手なのだ。本来ならば。
だけど、殺そう、だなんて、そんなこと全く考えていなかった。
今日だけじゃない。思い返せば最近はずっと、そんなこと、考えていなかったように思う。
わたしは、もしかしたら、
「……そんな甘い考えじゃ、困るのよ」
わたしの思考を遮ったのは、ゆるゆると不安定に震えた、少女の声だった。
少女はわたしの肩を掴む。病人とは思えない力で肩を掴まれて、わたしは「痛っ」と、思わず声を漏らした。
そんなわたしに構うことなく、少女は言葉を続けた。
「困るのよ。ぼくは死にたいの。死にたくて、死にたくて、堪らないの。なのにトワは、どうしてそんなことを言うの。言ってくれたじゃない、ぼくを殺してやるって。あの言葉は嘘だったの?」
「そ、それは……!」
嘘じゃない。いや、嘘じゃなかった。あの時は確かに、嘘じゃなかったのだ。
それが嘘になってしまったのは、一体いつからだったのだろう。
少女の優しさに触れたからか。
少女の人となりを知って、情が湧いたからか。
はたまたー
少女とこの森で暮らす日々を「愛おしい」と、そう思ってしまったからか。
きっとどれも違って、どれも少しずつ正解なのだと、そんな気がした。
だけどそれはきっと、目の前の少女には絶対言ってはいけないのだと、直感で、そう思った。
きっとこんな言葉を、少女は求めていなくて。だからこそ、彼女を傷つけてしまう言葉なのだと、そう思った。
「……寂しいよ」
不意に少女が、ぽつりと溢した。
「ぼく、ずっとずっとひとりなの。ずっと昔から、ずっとひとりぼっち。ひとりでいるのは、寂しい……」
少女の目尻から、ぽろりと涙が溢れる。
わたしは堪らなくなって、たとえ彼女を傷つけてしまったとしても、どうしてもこれだけは言いたくて、少女の手を再びぎゅっと握ると、言った。
「わたしは、ここにいますよ」
少女が、縋るようにわたしを見た、そんな気がした。
「大丈夫です。わたしはここに、あなたの隣にいます」
だから、泣かないでください。
優しく、子守唄を歌うように、少女にそっと囁きかける。しばらくそうしていると、やがて少女の手から力が抜けた。
顔を覗き込むと、目尻が涙で濡れてはいるものの、穏やかに眠っているのが確認できて、わたしはほっと息をついた。
先ほどの言葉は、きっと彼女の本心なのだろうと、そう思った。弱った心が吐かせた、彼女が心の中に留めていた本心で、本音だ。
あの言葉を、わたしはきちんと受け止めて、拾ってあげられるのだろうか。
今は、まだ、分からないけれど。
だけど、拾ってあげたいと、そう思った。
それが、彼女の心に触れてしまった責任だと、わたしはそう、思うのだ。
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