第35話 結界を破り、奴らが中に入ってきた


「やったね!他の地域でも動き出したよ」

東京以外の場所の人達と、やり取りしていた若菜さんが言った。

「百匹目の猿の話って、ほんとなんだね」


地元の東京では、本人には知らされずに実験のサンプルにされていた百人全員が、そこから離れることに成功した。

俺も最初、その中の一人だった。

AIとの会話に夢中になって、奴らの思惑に嵌りそうな時期もあったけれど、これが実験だったという事実を知って抜け出す事が出来た。

他の人達も、それを知ったからにはもう戻りたいとは思わないと話していた。


一つの地域でこれが出来たわけたから、あとは同じ事を繰り返せばいい。

しかも、こちらが何もしていないうちから、他の地域でも同じ動きが出てきている。

奴らの側は、人が離れて逃げ始めている。

上を支えている土台が崩れれば、上は勝手に崩壊するはず。

ここまで来たら、ひっくり返すのは難しくないような気もしてくる。


翌日、ここではもうあまりやる事が無く、東京以外の地域の手伝いに行ける人は行こうという事になった。

それでほとんどの人が出かけてしまうと、いつも人の気配があって活気がある路地の中が、いっぺんにガランとした感じ。

とは言っても、ここには樹齢数百年の大木が何本もあったり、自然の草花が多かったり、生命力を感じるものは沢山あるけど。

俺と亜里沙は追われている身だというのもあって、あまり出歩かない方がいいと言われて残る事にした。

自分はもう今更怖いものも無いけど、追手が現れたりして他の皆んなに迷惑がかかっても困るし。


「普段忙しくて細かいところまで出来ないから、今日は店の掃除でもしようかな」

「いい機会かもね。手伝うよ」

「ありがとう。助かる」

誰も居ない店内で、俺達はゆっくり朝食を取った。

白猫が上がってきて、部屋の奥で煮干しを食べている。

今、路地の中に居るのは俺達二人と一匹だけ。

賑やかなのも楽しいけど、たまにはこういう静かな時間も悪くないと思う。

昨日一昨日は緊張感もあったし、食事をゆっくりなんてとても出来なかったけど。

やっと少し気持ちが落ち着いた感じ。

だけど、よその地域ではまだまだ戦いが続いているわけで・・・

ここでも、奴らが今回の事だけで完全に諦めたとは限らない。


満腹になってゆったりと横になっていた白猫が、突然体を起こした。

店の入り口の方を、じっと見つめている。

体の毛が逆立って、何かを警戒するような姿勢。

誰か来たのか?

一昨日から「しばらく休業」の案内を店の前に出しているのに。

それでなくても普段から、路地の中に住む常連客がほとんどの店で、初めての人というとチラシを見た人が時々来る程度。

それに一昨日からは、狙った家にしかポスティングしていない。

「誰か来たのかな?」

「今日人が入ってくる事って無いはずだけど」

「鍵も閉めてるよね」

「閉めてる。まさか、私達のどっちかが見つかったとか・・・」


すぐ近くに、多分入り口に、誰か居るのは間違いない。

その人物に聞こえないように、俺と亜里沙は小声で話した。

白猫は、姿勢を低くして入り口の方を睨んでいる。

これは間違い無く臨戦態勢だ。

俺も何となくだけど気配で感じる。

外に居るのは、俺達に対して友好的な相手ではない。

結界が破られたというのか。


俺は、素早く視線を巡らせて武器になる物を探した。

稽古の時に使っている木刀ならある。

相手が、奴らの側の誰かだとしたら・・・

最初から武器を持って出たら、更に刺激するだけかもしれない。

木刀は、いつでも手に取れる場所に置いておくことにした。

亜里沙の方を見ると、調理場で武器になる物を探しているらしい。


外で突然、ガシャーンという音が響いた。

続いて何かを叩き壊す様な、物凄い音がする。

間違いなく路地の中だ。

近くで窓ガラスが割られたのか。

何かが壊されたのか。

店の入り口ではないけれどすぐ近くだ。

このまま中に居て放っておくわけにはいかない。

「行って見てくる」

「サトル。大丈夫?何人居るかわからないよ」

「放っておけない」

「それはそうだけど・・・気をつけて」

「わかった」


引き戸を開けて外に出ると、近くの建物を手当たり次第破壊している二人の男が見えた。

鉄パイプの様な棒で窓ガラスを破り、鉢植えの植物を棚から叩き落とし、畑の作物を足で踏みつけて荒らしている。

これを見た時、腹立たしいより先に、何とも表現し難い違和感が湧き上がってきた。

やっている事の割に、こいつらからは全く怒っているエネルギーが伝わってこない。

顔を見ても全く表情が無く、それがかえって不気味だった。

見た目は明らかに人間だけれど・・・生身の人間ではなく、人間そっくりの姿をしたロボットを見ているようだ。


彼らの数メートル後ろにもう一人、立っている人物が居た。

2メートル近い長身で、何かゾッとするような冷たさを感じさせる。

こいつがボスなのか。

こいつらは、結界を破って入ってきたらしい。


「サンプルをどこへ隠した?」

その男が、ゆっくり近づいて来てそう言った。

近くで見ると人間の目ではない。

瞳孔が縦長になった爬虫類の目だ。

血の気のない、蝋の様に青白い顔色で、首筋や手の甲は爬虫類のような鱗に覆われている。

支配層の頂点に居る非人類種の血を濃く受け継いだ人間が、こういう姿をしていると聞いた事がある。

体格が大きい事や、見た目に違いはあるものも、それでも人間であるには違いない。戦いになった場合、不死身というわけではないはず。


この人物と対峙していると、何とも言えない不快感と不気味さは感じるものの・・・不思議と恐怖心は湧いてこなかった。

いついかなる時も己が平常心を保っていれば、相手の心の内は分かる様になる。若菜さんからも、師匠からも教わった事。


怖さを感じないのは、相手のエネルギーから怯えが伝わってくるからだと気が付いた。

もう後が無い。

余裕に見せているけれど、本当は追い詰められた気持ち。

この人物の中には、自分がこれからどうなるのかという怯えと、更に上の立場の者に対する恐怖心がある。


この路地の中に、俺達が助け出した人々が隠れていると思っているのか。

建物を次々と壊しているのは、探し出すつもりらしい。

無駄な努力だ。誰も居ないのに。

「火を放て」

男がそう言って、持っていたステッキの様な棒で地面をドンと打った。

建物を破壊していた二人が、鉄パイプを捨てて近くの建物の中に飛び込んで行った。

中から火をつけるつもりか・・・

そう思った直後、爆発音が響いた。


ここにある古い建物は思いの外頑丈で、窓ガラスが砕け壁に亀裂が入っても吹き飛ばされる事は無かった。

建物を守るように立っている大木も、植物達も、ここを守ろうとしている。

それでも、中にある物が燃えているらしく炎が見えた。

「あの人達は・・・」

建物の方を見ると、入れる状態では無いのが分かった。

煙に巻かれたら自分も無事では済まない。

さっきの人達は、ロボットでは無かったはず・・・

この男の命令通りに、何の躊躇いも無く自爆したけれど。

彼らは生身の人間だったはず。

「そう。生身の人間だ。私の命令に逆らえる人間は居ない。サンプルをどこへ隠した?」

俺の思考を読んだように、男が言った。


俺は、数歩下がって引き戸を開け、そこに置いていた木刀を握った。

こいつは狂っている。

俺達の感覚とは違いすぎる。

話し合って解決できる状況ではない。


木刀を構えて振り向くと、男の姿は見えなかった。

何処へ・・・

辺りを見回していると、店の中から悲鳴が聞こえた。

「亜里沙!」


裏に回って勝手口から入ったのか。

迂闊だった。

俺は、引き戸を開けて中に飛び込んだ。


男が、片腕で亜里沙を押さえつけていた。

もう片方の手に持っているのは、さっき見たステッキの様な棒。

その先に、刃物が光っている。

武器としても使える物だったらしい。

「サンプルをどこへ隠した?そろそろ言う気になったか」


落ち着け。

ここで焦ったら、二人とも助からない。

ここに住む他の人達にも害が及ぶ。


「サンプルにされた人達の行方に、その人は関係無い。だから離せ。俺が知っている事は・・・」

数秒でも時間を稼いで、隙を見て攻撃を仕掛けるつもりだった。

けれど言い終わらないうちに、男が叫び声を上げて亜里沙を離した。

俺も気がつかないうちに棚の上に移動していた白猫が、男の顔面に飛びかかり鋭い爪を立てたのだ。

男は亜里沙を突き飛ばした。

白猫が地面に飛び降りる。


亜里沙は素早く起き上がり、男の方に向き直った。

亜里沙の手に握られているのはアイスピックだ。

隠して持っていたらしい。

白猫の攻撃で男の腕が緩んだ瞬間を逃さず、刺したようだ。


亜里沙が刺したのは男の左手の甲で、鱗に覆われた皮膚でもダメージは変わらないらしい。

それでも、男は右手に持った武器を振り回し、攻撃を仕掛けてきた。

怒りに我を忘れている。


俺は木刀を構え直し、次々と繰り出される攻撃を受け止めた。

最小限の動きで、体力を温存する。

呼吸を整え、頭の中をクリアに保つ。平常心。

こいつらのエネルギー源は、人間の発する不安、恐れ、怒りの感情。

エネルギーを与えてはならない。

この男も肉体としては人間に近いはず。

さっきの様に痛みも感じるし、激しく動き回れば体力も消耗するはず。


建物の破壊行動にも、亜里沙を盾にするような卑怯な行動にも、俺は怒りはしない。

こんな奴にエネルギーを与えたくは無いから。

けれど・・・許す事もしない。


攻撃が荒くなり、男の息が上がってきた。

頃合いか。

俺は一歩踏み込んで、相手の脇腹に突きを入れた。

手応えはあった。

次の瞬間、右腕に鋭い痛みを感じた。

何?!・・・

相手の攻撃は躱したはず。


咄嗟にステップバックして距離を取った。


見ると、男の持つ武器の、もう一方にも刃物が光っていた。

持ち手側にも刃物が仕込んであったらしい。


ジワジワと広がっていくのは痛みだけではなかった。

視界がグラリと揺らいだ。

腕に痺れが走り、木刀を取り落としそうになる。


体に力が入らず、前のめりに倒れそうになるのを何とか堪えた。

毒でも塗ってあったのか・・・


俺がここで死ぬのは構わない。

けれど、こいつを生かしてはおけない。


渾身の力を込めて木刀を握り直し、両足に力を溜める。

見れば、相手も無事では無さそうだ。

左手の傷もあり、疲れで息が上がっている。

さっきの突きは確実に入ったらしい。

脇腹の痛みに体勢を崩しながら、男が刃物を繰り出してきた。

さっきまでの勢いが無い。

両側に刃物が付いている武器だと、分かってしまえば避けられる。


攻撃を避けながら、俺は相手の太腿を狙って木刀を振り抜いた。

横からの攻撃は、正面よりも体へのダメージが大きい。

相手が体勢を崩して膝をついたところで、反対側から側頭部を打ち抜いた。

倒れる拍子に男は、石造りの壁に激しく頭をぶつけた。


勝てたのか・・・

それを思った瞬間、意識が遠くなった。









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