第27話 長かったはずの過去の生活の方が、夢だったんじゃないかと思えてくる

ここで暮らすようになって一年足らず。

外の世界では俺は相変わらず横領事件の容疑者のようだけれど、その事件の事もだんだん報道されなくなっていった。

そのうち忘れ去られるんじゃ無いかと思う。

実際、俺の中ではもう終わった事・・・というか、そもそも濡れ衣だし。


自分自身が、価値観も生き方もガラリと変わって、過去とは全く違う人間として生きているからか、外で起きている事は自分とは関係ない遠い世界の事のように思える。

店のチラシを配りに外へ行く事はあるけれど、誰も俺だと気がつかないし、もう気にする事すら無くなった。


亜里沙とは一緒に暮らし始め、うまくいっているし、近所の人達皆んなとも親しくなった。

一生困らずに生きていける気はするから、余分な貯えや収入が無くても全く気にならない。

以前のように熱心に定期検診に通う事も、沢山の保険に入る事も、病院へ行く事も無くなったから金もかからなくなった。

ここで学ぶのは、今の人生を楽しんで生きるために必要な事。

ここの人達は、それを惜しみなく教えてくれる。

俺も、自分の持っているパソコン操作に関する知識は、惜しみなく提供する。



薪割りを終えて、一旦休憩。

切り株に座って握り飯を食べていると、亜里沙が昼休憩で出てきた。

大体いつも通り。

店の忙しさが一段落する時間だ。


二人で話すのは、ほとんどがここでの日常のこと。

以前の出来事は、考えてみればそう遠い過去のことでも無いのに、遥か遠い昔の事ように感じられる。

もしかしたら、ここに来るまでの人生の方が全部夢だったんじゃないかとまで思えてくる。


亜里沙も、店のまかないのサンドイッチを取り出して食べ始めた。

「これね、今試しに作ってるやつなんだけど」

「新メニューなんだ」

「そう。私が提案したんだよ」

「具はトマトと・・・」

「水菜」

「なるほど。サラダでもいけるもんな」

「一つ食べてみる?」

「ありがとう」

トーストしたパンに、辛子マヨネーズ、粒胡椒が効いている。

「美味い」

「ほんと?ありがとう。今度店で出すから頼んでね」

「モーニングの方?」

「そっちじゃなくてランチと単品になると思う。ランチは卵料理とスープ付けてどうかって話してるとこ」

「楽しみだな」

「そうそう、今日お客さんがキュウリととトマト沢山くれたから、夕食にも使うね」

「良かったな。余ったらピクルスは俺が作るよ」

「ありがとう。半分はピクルスと浅漬けにして、今日はサラダかな。卵あるし、トマトと卵の炒め物とか」

「晩飯楽しみだな。稽古終わってからだけど、多分夕方には帰るよ」

「待ってるね」

亜里沙は、立ち上がってグンと伸びをしてから歩き出した。

「ここって不思議と暑さがそれほどこたえないからありがたいね」

「そうだね」

俺も、立ち上がって作業場の掃除を始める。


たしかに亜里沙の言う通り、ここの夏は過ごしやすい。

以前は一日中、エアコンを付けっぱなしだった。

夏なんて、それが無いと死ぬんじゃないかと思うぐらい暑かった。

通勤があった頃も、外の暑さが年々厳しくなっていくようで、アスファルトからの照り返しでジリジリと焼かれているような気分になったものだ。

ここは、樹齢数百年を超える大木が多く、夏は木陰に居ると涼しい。

竹林の中も涼しいし、家の作りも風通しがいい。

エアコンの室外機からの熱風も、アスファルトからの照り返しも、車の排気ガスも無い。

車に乗って外へ様子を見に出て行く人は居るけれど、路地の中では車が走り回る事は無いし。



この路地の中だけが異空間なのは、長く居るほどわかってきた。

生活の道具を作る人、場所を綺麗に整える人、作物を作る人、料理をする人、薬草や民間療法に詳しい人など色んな人が居て、皆んな好きに生きている。

俺も、愛する人と暮らし、自分の出来る事をやって、空いた時間は武術の稽古をしたり散歩したり本を読んだり、好きに生きている。

ここでは時間がゆっくりと流れていて、自然に寄り添うような日々の暮らしが営まれている。


最近ではもう慣れたけれど、チラシを配りに外行った時は、空気感の違いに驚く。

体にピリピリ来たり頭が重くなるのは、通信システムを整えるためにどんどん強くなる電磁波の影響かもしれない。

ねっとりとまとわりつく様な閉塞感と、急に体全体が重くなるようなこの感じは・・・

以前何十年も、よく平気でここで暮らせていたものだと思う。



しろねこ庵がある路地の中のような場所は、日本全体から考えるとすごく狭い範囲な気がして、若菜さんに聞いてみたことがあった。

「こういう場所ってここだけじゃないから」

意外な答えが、あっさりと答えが返ってきた。

「え?そうなの?」

「他にもいっぱいあるよ。東京の中だけでも多分何十ヶ所もあると思うけど」

「ほんとに?すごいな。若菜さんは行ってみたとか?」

「行ったとこもあるけど、そうじゃなくても繋がってるし」

「繋がってるって、SNSとかそういうので?」

「最初はそういうのもあるけど、そのうちね、相手の思考で何かメッセージ送ってくると分かるから。私も送る時あるし。そういうやりとり」

「それってもしかしてテレパシーみたいな」

「うん。そういう感じかな。慣れたら皆んな出来るよ」

またしても不思議なことを言う人だと思った。

だけど、この人ならわかる気がするし、この場所ならそんな事もありそうな気がする。

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