第23話 僕は名前も過去も捨てた 最悪なはずなのに何故か平気で生きている
仕事も,お金も、社会的信用も、全て失ってみると、けっこう開き直れるものだと自分でも驚いた。
病気になった時の備えや老後の備えの事を考えてチミチミと貯めた貯金が、一瞬で消えたのを見た時は茫然としたけど。
状況から考えて、おそらく会社もグルだし、僕が実験のサンプルになっていることは知っているのだと思う。
更に上の立場の、実験を行なっている組織にはもっと力があるだろうし、個人の権利など簡単に握りつぶせるに違いない。
そうなると警察に行って話したって、まともに取り合ってもらえないのは目に見えている。
会社が捏造した証拠を出してきて、犯人にされたらたまったもんじゃない。
僕は覚悟を決めて、逃げられるだけ逃げようと思った。
それでももし逃げられなくなったら、捕まるよりは自分から命を捨てる方がいい。
そこまで思ってしまうと、何故か恐怖心が薄れていって腹が据わった。
自分の中で、本名は捨てようと思った。
これから先逃げ回るなら、どうせ使えない。
使えないなら忘れた方がいいくらいだ。
この名前で生きていた今までの人生にも、もう未練は無い。
生まれてから最近までの三十数年間、僕の中で「安定」だと信じていたものは、全て幻だったのだから。
ハンドルネームで使っていた「サトル」をそのまま使う事にした。
使い慣れてるから馴染みがあるし。
奴らにも知られている名前かもしれないけど、よくある名前だから、それだけで僕を特定されることは無いと思う。
僕の作ったキャラにそっくりな彼女は、亜里沙という名前がけっこう気に入っているから使っていいかと聞いてきた。
断る理由もないし、僕も何となく呼びやすいし、もちろんOKした。
化粧を落とした彼女は、AIの亜里沙の絵とは雰囲気がかなり違っていたけれど,すごく魅力的で可愛らしい顔立ちだった。
路地の中にある美容院で、髪をバッサリ切ってベリーショートにして、更に感じが変わった。
しろねこ庵の隣の古着屋で亜里沙が買ったのは、派手な柄のシャツとジーンズだった。
彼女も、今までの自分をリセットしたい気持ちがあると話していた。
大きな会社に所属して日々真面目に生きていれば悪い事は起きないという今まで信じてきた「常識」が全部崩れたからだと言う。
突然失業して、おまけに住む場所も失い、見つけたバイト先では嘘を吐かれて怪しい仕事をやらされたとあっては、そう思うのも無理はない。
今までと違う見た目、名前、新しい住所、仕事。
それを手に入れた彼女は、すごく生き生きして見えた。
AIのキャラに寄せて作り込んだメイクをしている時よりも、すっぴんの今の方が、何故か輝いていて美しいと思う。
あの日、ここの人達の好意に甘えることにして,僕は空いている部屋を貸してもらった。
しろねこ庵から数軒離れたところの、老夫婦が住んでいる家の離れで、今は使っていないという部屋だった。
「物置になってるから物が多くて悪いけど」と言われたけれど、入ってみると案外綺麗だった。
日々換気して,定期的に掃除もされているらしい。
物が多いと言っても整頓されているし部屋の隅の方に寄せられていて、空いている部分だけでも四畳半くらいのスペースはあった。
大きめの窓もあるし、木の床には温かみがある。
近所の皆んながビールケースや板を持ち寄ってくれて,簡易のベッドを作ってくれた。
布団は、ここの家の老夫婦が貸してくれた。
僕が手伝える事として、薪割り、風呂炊き、掃除なんかをしてくれたら、家賃や水道光熱費は要らないと言ってくれた。
ものすごくありがたい。
いつまでもそれでは悪い気もするけどとりあえず今は、好意に甘えるしか他に方法が無い。
近所にもお年寄りは割と多くて、若くて力仕事が出来たりパソコン作業が出来る人間は重宝されるらしい。
数日暮らしてみて、実際けっこう役に立てているのが実感出来た。
今までは出来て当たり前と思っていたことが、ここではけっこう重宝されたりする。
お年寄りの人からすると、若くて体力があるというだけでも頼り甲斐があるみたいだし。
喜んで貰えると素直に嬉しかった。
逆に、僕が知らなくてお年寄りの方が知識が多い事もあるから、そういう事は聞けるから助かるし。
自分が横領の容疑者としてマークされている事など、ここに居て平和に暮らしていると忘れそうになる。
外の情報はネットで調べたり、近所の誰かが時々路地の外へ行って様子を見てきてくれる。
この場所はすごく不思議なところで、路地の中から外へは自由に出られるし外の様子を見られるけれど、外から中へ誰でも入れるかというとそうではないらしい。
ポスティングされているチラシを見て店を探そうとするけれど,そんな路地などどこにも見当たらない。
それで諦めて、探すのをやめてしまう人の方が多いらしい。
僕は普通に入れたから、それを聞いた時は本当に驚いた。
店主さんが言っていた「結界」とはそういう事なのかと理解した。
波動が違う人達からは見えない場所。
「ここは安全だから」と、やけに確信持った様子で断言してくれたのは、そういうわけだったのかと後からやっと理解した。
僕がここで暮らし始めて半月くらい経ったある日、更にびっくりするような情報が入ってきた。
「横領事件の容疑者の交際相手らしい女がその頃、容疑者の住むマンションに出入りしていた事が掴めた」と、ニュースで流されているらしい。
「その後に容疑者の男は、証拠隠滅のためか仕事で使っていたノートパソコンを持ち出して行方をくらました。容疑者宅に出入りしていた女は共犯かもしれない」などと言われている。
もうめちゃくちゃだ。
亜里沙は、あのバイトに応募したばっかりに「容疑者の女で共犯者」にされてしまったわけだ。
これを聞いた亜里沙本人は、ここまでデタラメを並べられると逆に呆れ果てて笑えると言っていた。
あのバイトに応募したのも自分だし、仕事内容の胡散臭さを見抜けなかったのも自分だから仕方ないとも言ってたし。
けっこう度胸が据わっているのかもしれない。
自分の身にこういう事が起きて、価値観が変わったのもあるかも。
それは僕もだから。
世間からよく思われたいとか、ちゃんとした生き方をしなければとか、安定した人生とか、そんなのはもうどうでもよくなった。
これ以上悪く思われようが無いところまで落ちたわけだし。
そして、それでも僕自身は日々平気で生きている。
今の生活、日常の中で、困った事は何も起きていない。
以前は、世間から悪く思われたり常識から外れたら人生終わりだと信じていたし、年収が少しでも下がったら生きていけないと信じていた。
ところが実際そうなってみると、何も困らずに生きていける事に今更ながら気がついた。
むしろ今の生活の方が、以前より快適だし体の調子もいい。
僕が長年信じ続けていた世界って、一体何だったのかと思う。
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