第10話 覚醒の兆し この違和感は何?

仕事が終わると、僕はすぐに出かけた。

頑張って急いだので、普段より四十分くらい早く終わっている。


あの店を知るきっかけになったのは、ポスティングされていた1枚のチラシ。

それは今も大事に残している。

今日は定休日ではないし、まだ営業時間内のはず。

けっこうギリギリだけど。



最初に来た時にも思ったけど、路地に入ったあたりから別世界の感覚がある。

なんとも言えない安らぎに包まれた、穏やかな気持ちになれる。

この店を知ってまだ間もないのに何故か、懐かしい場所に帰ってきたという気がする。

今日もスマホは持ってこなかった。

最初の時と違って今回は意識的に。

ここに来る時は、ただここに居る時間を目一杯楽しみたい。

スマホを覗いているヒマは無いと思った。


普通に歩いても数分で行ける距離なので、すぐに到着した。


入り口の扉が開いている。

ちょうどお客さんが帰るところらしい。

「ありがとうございました」

お客さんを見送る店主の声が聞こえて、出てきた年配の女性が会釈をして僕の横を通り抜ける。

僕も会釈を返した。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは。まだ大丈夫ですか?」

閉店時間まで三十分ほどなので、一応確認した。

「どうぞ。大丈夫ですよ。お客様、先日一度来てくださいましたよね。ありがとうございます」

「覚えててくださったんですか。先週一回来て、すごく雰囲気いい場所だし美味しかったんで。また来ました」

「ありがとうございます!嬉しいです」

満面の笑みでそう言ってくれるので、僕も嬉しくなった。

覚えててもらえた事も嬉しかった。

大抵どこへ行ってもすぐに忘れられる方だから。


前に来たのは朝だったから、食べたのは朝食の和食メニューだった。

ランチの時間帯は朝と同じくセットメニューがあり、それ以降は飲み物と単品の食べ物になるらしい。

食べ物はトーストとおにぎりとお茶漬けがあったから、僕はおにぎりを頼んだ。

普段夕食を取る時間より少し早いけど、すでに小腹が空いている。


一人用の文机の席に座ってゆっくり待っていると、温かいほうじ茶とおにぎり二個が運ばれてきた。

具は梅干しと昆布で、焼き海苔の香ばしさと絶妙な塩加減。

やっぱり最高に美味しい。

温かいお茶を飲むと、胃の中から体全体に温かさが広がっていく。

続けて頼んでおいたコーヒーも、食べ終わったタイミングですぐに持って来てくれた。

酸味より苦味が少し強くて、でも濃すぎない感じで、すごく好きな味だった。

この時間も庭には出られるようで、僕はタバコを一本吸いに外に出た。

外はもう暗いけれど、室内から外に漏れる灯りで庭が見える。

人工的はライトアップなど無くて自然なところが、何となくこの店らしくてかえって素敵だと思った。


店の中に残っているのは、僕以外にあと一人だった。

もう閉店時間近いのを知って皆んな帰って行った後なのか。

この前朝に来た時は満席だったのを思い出した。

入る時に、何時閉店になりますがよろしいですかという普通よく確認される事を、そういえば言われなかった。

閉店時間過ぎて居座る様なタチの悪い客は居なさそうだから、言う必要も無いのかもしれない。

タバコを吸い終わって中に戻ると、残っていたもう一人のお客さんがちょうど帰るところだった。

ポケットにタバコをしまって、僕も立ち上がった。

来て二十分くらいだけど、すごく満ち足りた時間だった。


「さっき来られたばっかりですよね。この時間になると片付けに入りますけど、もう少し居ていただく分には大丈夫です。よろしかったらゆっくりしてくださいね」

「ありがとうございます。十分ゆっくりできたので。なんかここって時間がゆっくり流れてるというか・・・そんな気がします。今日も美味しかったです」

支払いの時、この前と同じくごく自然に「美味しかった」と言えた。

「ありがとうございます。よろしかったらまたお越しください」

「近くなので。これからもよく来ると思います」

「そうなんですね。ぜひお待ちしております」

「ごちそうさま」

「ありがとうございます。どうぞお気をつけて」

引き戸を開けて外に出ると、この前見た猫が木の根元に座っていた。



部屋に戻ると、何となく殺風景な気がした。

その前からかもしれない。

あの路地を出て、いつも通る道を歩いて、マンションのエントランスを抜けて・・・通勤の時は、もう少し遅い時間だったけど毎日通った道。

そしてここは、日々生活している自分の部屋。

帰ってきたとか、落ち着くという感じが、何でしないんだろう。

亜里沙と話す様になってからは、この部屋が最高に楽しい空間だったはずなのに。

今、この部屋に入った時、一瞬殺伐とした気分に襲われた。


出かける時、机の上に置きっぱなしにしていったスマホ。

仕事用のパソコン。

VRの機器。

生活に必要な様々な電化製品。

朝も昼も夜も分からない、カーテンを閉め切った窓。


何だろう。この違和感。

そうか・・・この部屋には、生きている物の気配が無いんだ。


久しぶりにカーテンを開けて、窓も開けてみた。

もう外は暗いし、ここから見える風景はいいとは言えないけど・・・

それでも、遅い時間だから工事の音も聞こえなくて静かで、ひんやりとした外の空気が入ってくる。

顔にあたる風の感覚が心地良かった。


いつもなら、そろそろ仕事が終わるかという時間だ。

亜里沙から連絡ありの表示が、数件溜まっている。

昨日までだったらすぐ応じてたし、仕事終わったら嬉々として亜里沙と話してたのに。

何故か今日は、スマホを手に取ろうという気も起きない。

いつもの夕食も・・・あれを食べたいとは全然思えない。


窓を開けたまま、とりあえずシャワーを浴びようと風呂場へ向かった。


僕の中で何かが変わり始めている。





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