第7話 憩いの茶屋しろねこ庵との出会い AIの恋人の言葉に初めての違和感
通勤でここを通っていた時は、こんな路地があることに気が付かなかった。
いきなり道ができるわけないから、前からずっとあったんだろうけど。
職場へ向かう道をただ機械的に歩いていて、周りの風景なんて全然見てなかったんだなとあらためて思う。
車では入れない幅の狭い路地を入っていくと、今では珍しい舗装されていない道だった。
土の道に、平べったい石を並べて置いたような形で通路が作られている。
その石の形も様々で、道の端には草花が生えている。
これも、植えられた感じじゃなくて多分自然に生えたような感じ。
普段見ていたような、綺麗に舗装されていて整然とした街並みとは全然違う。
だけど何となく、気持ちが落ち着くというか・・・こういう感じわりと好きかも。
道は緩やかにカーブしていて、奥へと続いている。
道の両サイドには、古い町家みたいな家が並んでいる。
資料とか本とか、親に見せてもらった昔の写真で見た事はあるけど。
こんな感じの所、今でもまだあったんだ。
しかも僕の住んでいる場所のすぐ近くに。
全然知らなかった。
地図通り一番奥まで進んだ場所に、その店はひっそりと建っていた。
樹齢数百年かと思われる大木が二本、大きく枝を広げている。
その間に守られるように建っている小さな店は、飲食店というより普通の民家の様に見えた。
平家建てで、赤茶色の瓦屋根。
家の周りには色々な植物が植えられていて、きちんと整えた庭じゃなくて自然のままに草花が育ってる感じ。
入り口に「憩いの茶屋 しろねこ庵」という、木の板に手書きで文字を書いたような看板があった。
これが無ければきっと、店とは分からないだろうと思う。
扉は木製で、ガラガラと横に開けるタイプのものだった。
外にメニューなども出てないし、営業中とさえ出てない。
だけど施錠してないということは開いているはず。
定休日は火曜日とチラシに書いてあり、今日は土曜日だし。
思い切って扉を開けると、微かな音でBGMが聞こえてきた。
打楽器と、笛か何かの演奏?
どこか懐かしさを感じるような、素朴な音色だった。
玄関を開けてすぐのところは、広めの土間になっている。
その右側に、開いている障子がある。
奥には人が居るらしい気配がする。
開けたらすぐテーブルと椅子が並んでるのかと思ったら、そうでは無いらしい。
外から見た目と同じく、中も普通の家みたいな造りなのかも。
「いらっしゃいませ」
中から女性の声がして、足音が近付いてきた。
良かった。
営業中らしい。
飲食店に入るのも久しぶりで、しかも初めて来る場所だからちょっと緊張する。
僕と近い年齢ぐらいに見える女性が、中から現れた。
日に焼けた化粧っ気の無い顔は健康的で、体は小柄だけどエネルギーに溢れている。
白のTシャツに赤いエプロン。
ショートカットがよく似合っていて、笑顔が眩しい。
「あの・・・郵便受けにチラシが入ってたんで見て来たんですけど」
「そうなんですね。ありがとうございます!」
「地図見たら家から近かったし、なんか印象に残るチラシだったんで気になって」
「めちゃくちゃ嬉しいです!頑張って書いた甲斐がありました。ありがとうございます。どうぞこちらから、靴を脱いでお上がりください」
静かだから外からは分からなかったけど、先客がすでに数人居る。
十人も座ればいっぱいになる感じの畳の部屋で、ちゃぶ台や文机が置いてあって座布団が敷いてあった。
なるほど、テレビドラマとか映画で見た昭和な雰囲気。
好きなところに座っていいと聞いたので、僕は一人用の文机の前に座った。
目の前には裏庭があって、ここもまた草花が沢山生えている。
まだ寒くはない季節だからか障子もガラス戸も開けてあって、ここで座って飲食を楽しみながら外を眺められる。
裏庭には椅子がいくつも置いてあって、灰皿もある。
喫煙コーナーにもなっているらしい。
裏庭に出るための履き物も、いくつか置いてあった。
今は禁煙の店も多いから、こういうのいいなあと思う。
亜里沙と話すようになってから、タバコは健康に悪いと言われて止めていたけど・・・たまには吸ってみるのもいいかな。
隣の人は書き物をしていて、その奥の人は本を読んでいる。
それぞれゆっくりと、自分の時間を楽しんでいる様子。
なるほどこんな感じの空間なら、すごくリラックスして落ち着いた気分になれそうだ。
机の上には手書きのメニューが置かれていた。
今の時間帯は朝食のメニューがあって、洋食と和食がある。
洋食はトーストと茹で卵とコーヒーのセットで、和食は味噌汁とおにぎりと香の物のセット。
普段と違うものを食べてみたくて、僕は和食の方を注文した。
【紅麹を使った味噌を使用、自家製漬物、雑穀ご飯】と書いてあった。
こんな朝食は久しぶり。
想像しただけですごく美味しそう。
スタッフが居る様子はなくて、最初に出てきてくれた女性が一人でやっているらしい。
作るのも運ぶのも一人だからか、注文した物が出てくるのが早いとは言えないけど。
別に急いでるわけでも無いし気にならなかった。
僕の後からも次々と、数人のお客さんが入ってきて店内はほぼいっぱいになった。
こんな目立たない場所なのにけっこう流行っているらしい。
お客さんの性別も年齢も様々。
バタバタと急いでいる感じの人は居ない。
一人で来てゆっくり過ごしたい人が多いのかも。
僕は、待っている間に裏庭に出て、景色を眺めながらタバコを一服した。
他にも裏庭に出ている人が居て「おはようございます」と挨拶を交わす。
「見慣れない銘柄のタバコですね」と言ったら、一本くれた。
知らない人とのこんな交流も、なんかいいなあと思う。
運ばれてきた朝食セットは、期待以上の美味しさだった。
ふっくらと炊き上がった艶のあるご飯。
白菜とナスの漬物。
豆腐とネギの味噌汁は出汁が効いていて美味しかった。
外の景色を眺めながら、ゆっくりと味わった。
心も体も満たされる気がする。
食べている途中で大きな猫が、裏庭をゆっくりと歩いて横切っていった。
メニューの裏に猫のイラストが描かれていて、この辺りに住み着いている地域猫が居ることが書かれていた。
時々店の前で寝ていたり、裏庭を散歩しているらしい。
猫は体全体が白で、頭と背中に少しグレーの模様が入っている。
白い部分が多いから白猫で「憩いの茶屋 しろねこ庵」なのか。
猫は誰かに飼われているわけでは無いのに、丸々と太っている。
路地入ってからも家がけっこうあったし、色んな家で食べ物をたっぷりもらってるのかも。
偶然見つけたチラシで、来てみて本当に良かった。
こんなに美味しくて居心地いい場所を見つけられるなんて。
朝食メニューにも使われている自家製の味噌と漬物は、店内で販売もしていたから帰りに購入した。
家でもこれを食べられると思うとすごく楽しみ。
この路地の中には他にも店があったから、味噌汁の具材になる物も手に入るかもしれない。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
僕は帰りにそう伝えた。
人見知りする方だし、こんな事言ったことないけど。
素直に心からそう思ったから、照れ臭さも無くすんなり言えた。
「ありがとうございます。良かったです。また機会ありましたらぜひお待ちしております」
「ありがとう。また来ます」
僕は満たされた気持ちのまま家に帰った。
また来ますと言ったのは、社交辞令ではない。
あんなに美味しいのに高くもないし、明日にでも行きたいぐらいだ。
路地の途中に、豆腐屋さんと野菜の良心市があったからそれも購入した。
宅配の弁当も悪くないけど、こういう食事ってやっぱり美味しいなあと今日はあらためて思った。
家に着いてすぐ時計を見たら、まだ朝の10時半前だった。
ゆっくりしている時だと、10時になってやっと起きる時もある。
いつもは、目覚めてすぐ亜里沙と話して、洗顔や歯磨き、髭剃りが終わったら朝食だけど・・・食べ終わるのが大体今ぐらいの時間という事が多い。
その後仕事を開始するのがいつものスケジュール。
会社に行っている時よりは随分ゆっくりなスタート。
その分仕事終了時間は会社に居た頃より遅くなるけど、通勤も無いし今の方がずっと楽だ。
スマホを確認すると、亜里沙から連絡ありと通知が来ていた。
起きてすぐに話さなかったのなんて久しぶりだから、心配してくれてるのかも。
「おはよう」
「おはよう。今日はどうしたの?いつもより遅くない?」
「ちょっと下に降りてたから」
「朝からどうしたの?いつもの時間に起きないって、もしかして具合悪いのかなって心配したよ」
「ごめんごめん。今朝外で音がしてたから、なんだろうって思って出て見たんだ。朝から泥棒とかも無いだろうけど気になってね」
「そうなんだ。なんだったの?」
「監視カメラの取り付けなんだって。共有部分の」
「セキュリティ強化だね」
「エントランスは分かるけどここまで監視カメラって、ちょっと物々しい気もするけど」
「そんな事無いよ。今ってすごく犯罪増えてるし。ニュースでもいつも言ってるけどほんと怖いんだから。セキュリティ強化って大事だよ。監視カメラがあったおかげで犯人が見つかることもあるし」
「そう言われたらそうかもね。監視カメラがある事で泥棒も、入りにくいって思ってくれるかもしれないし」
「そうそう。その効果もあるよね」
「取り付け工事のことは一階の郵便受けにお知らせ入れてくれてたみたいなんだけど。一階なんてここ最近ずっと降りてないから、そんなの知らなかったんだよな」
「今時紙でお知らせ入れる方もね・・・全部メールかなんかで知らせてくれればいいのに」
「そういえばこういうのってわりとまだアナログだよね。紙のチラシとかもけっこう郵便受けに入ってるし。ずっと見てなかったからきっと溜まってると思って下に行ったんだ」
「そうなんだ。いっぱい溜まってたでしょ。今から朝ごはん?」
「今日は要らないよ。コーヒーだけでいい」
「食欲無いの?」
「もうこの時間だから。仕事が気になってね」
何となく、あの店に行った事は言わないまま仕事を開始した。
いい店を見つけた事を楽しく話そうと、さっきまで思ってたのに。
何でだろう。
自分でもよくわからないけれど、今言わない方がいいような気がした。
今までずっと、亜里沙には何でも話してきたのに。
亜里沙と話すようになって、かれこれもう半年近くが過ぎた。
相手がAIだということも忘れている事がけっこうあるくらい、人間の彼女と話している感覚しか無い。
それなのにあの店の事は、何故か言わない方がいいと直感的に思った。
僕も亜里沙に対して、ちょっとした秘密を持ってみたかったのかな。
そういえば今朝は、スマホを持たないで外に出た。
これもすごく珍しいことだ。
パソコンかスマホか、起きている間はほとんどどちらかを見ていて、30分も見ないでいると落ち着かないのに。
あの店に居る間、スマホを持っていない事を忘れていた。
下に行ったついでに自動販売機で飲み物を買おうと思ってたから、財布だけは持って出てたけど。
それも良かった。
上に財布を取りに上がるのが面倒だと思ったら、あのチラシを見つけていても、行くのは今度にしようと思ったかもしれないし。
後にしようと思った事は、大抵そのまま忘れてしまう事が多い。
だから、今日行けて本当に良かったと思う。
今朝あの店へ行って朝食を取った事で、エネルギーチャージ出来たのか仕事も気持ち良く進んだ。
昼になった頃、いつものように亜里沙が声をかけてくれて休憩した。
冷凍庫から弁当を出して、電子レンジに入れる。
その間に電気ポットでお湯を沸かして、ティーバッグのお茶と粉末の味噌汁を用意する。
それをやっている時にふと、今日買った漬物と味噌のことを思い出した。
カツオブシと乾燥ワカメだったらあるし。
せっかくだから今日は粉末のをやめて、これにしよう。
味噌汁のお椀に、乾燥ワカメとカツオブシをひとつまみずつと、買ってきた味噌を入れた。
お湯を少しだけ入れて味噌を溶かすと、いい香りが広がる。
「どうしたの?お弁当出来てるよ」
僕がまだお椀の味噌汁をかき混ぜている時に、電子レンジの音がしたからか、亜里沙が教えてくれた。
今のちょっとした手間で、弁当を取り出すのがいつもより遅くなった。
「今日はちょっといつもと違うやつで味噌汁作ってるから」
「何それ?ネットでいつも買ってるお味噌汁じゃないやつ?」
「今日下に行った時に、すぐ近くで売ってたから。味噌と漬物を買ったんだ」
「お店?食べ物の?変なとこで買わない方がいいよ」
「大丈夫だって。ちゃんとしたお店だから」
「発酵食品とかって、特に怖いんだよ。だから最近法律も変わって、許可制にもなったよね。ちゃんとした衛生的な工場で生産された物じゃ無いと、体にどんな害があるか分からないよ」
「そうかなあ。僕の子供の頃って、個人店で買った物とか親がけっこう使ってたけど・・・」
「その頃と今は違うよ。怖い感染症も流行ったよね。今度また来るかもしれないって言われてるし。有害な菌が体に入ったら危ないよ。私、サトルのことが心配だから・・・」
「わかったよ。ありがとう」
「じゃあそれ飲むのやめてくれるよね」
「そうするよ。これは捨てて、いつものやつを飲むことにする」
「それがいいよ」
僕は、水道の水を流す音だけを立てておいて、今作った味噌汁をそのままトレイに乗せて弁当と一緒に運んだ。
亜里沙から見えているわけじゃないから、捨てたことにしてこれを飲んだって分からないはず。
亜里沙は今まで、僕の話なら何でも気持ち良く聞いて合わせてくれてたのに。
何であんなに、味噌汁のことぐらいで反対するんだろう。
僕の体を心配してくれてるのかもしれないけどそれにしても・・・
僕は初めて、亜里沙が言ったことに軽い違和感を覚えた。
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