下 雨方と荒野の行方
荒野が来るとしたら、今まで通りなら反対側から来る。
経験則じゃあないが、三年通った場所だ、今まで通りの道筋で来ない方がおかしい。私はそんなことを考えながら、雨がずっと降り続く道を歩いていく。目的の場所には二つ最寄り駅があるし、どっちから歩いても時間は同じ。ならば、慣れ親しんだ方で来るだろう。
私は歩いている最中に、どれから話を切り出そうか、と思案を巡らせていた。一番聞きたいのは荒野のこれまでの話だが、それ以上に私の過去の――そして今の恋心も伝えなければならない。なぜか?過去の恋心は当然としても、今の恋心はどこから発したものか?それは、おそらく憧れだった。憧憬だった。あの時の、希望に満ちた縦振る舞いの荒野が、私にはたまらなく眩しかった。怖いぐらいに眩しかった。だから私は逃げた。あの時、「何物にもなれない」私を恐れて、私は八年後に自分を逃がした。でも、荒野なら逃げないとも信じていた。だから、荒野のことが好きだったし、それを今でも引き摺っている。だから、今日荒野が来なくたって、それはそれで構わない。さっきの荒唐無稽な脳内会議も、この一点においてのみは正しかった。
私はぐんぐん進む。「何物にもなれなかった」自分を抱えて、「何者か」に会いに行く。さっき、来なくてもいい、とは言ったけれども、私は知っている。こういう時、荒野は絶対に来る。だから私は歩く。
そのままずっと歩いて歩いて、ようやくたどり着いた。懐かしい、あの樹だ。今でもこの樹を見れば、あの日の光景をより克明に思い出せる。もともとクリアな解像度だったが、その時の音からにおいまで全部が全部、頭の中にすっと流れ込んできて、今が雨なのさえ忘れさせるような、あの日にタイムスリップしてくるようだった。
荒野がまだいない。私が先についた。あとは荒野を待つだけだ。私は話す事柄を、一から十まで押しなべて行くことにした。まずは今までの、彼の話を。それから、私の内省を。私の内省なんて大体つまらない話だ。それより問題なのは彼だ。彼の話を、一言一句でも多く聞きたいところなのだが。
そんな中で、向こうから歩いてくる人影があった。私はそれを、オーラと直感で荒野だと確信したのだが……妙に、様子が変だ。なんだか、歩き方がぎごちないというか。この見慣れた通りを、探り探り歩いているような。若干坂があるから、上からは傘があって見えにくかったのだが、よく見ると、荒野は白杖を持っていた。
私がそれに気づいたのと、荒野がこの樹の下に至りついたのは同時だった。
そして荒野は重々しく、言葉をそっと発した。
「なぁ、雨方。そこにいるんだろう?いるのなら、返事をして、俺の左手を握ってはくれないか」
私はその言葉を聞いて、目を潤ませながら返事をする。
「うん、私。雨方だよ。今、もうちょっと道の端の方まで案内するから」
私は荒野の左手を引く。荒野は私に手を握られた時に、心底安心した表情をしていた。そのまま、荒野と私は、木陰に入った。雨も結構しのげたので、私は二人分の傘を閉じた。やや腰を落として、互いに楽な姿勢を取った。
私はさっきまでの
「荒野、来てくれてありがとう。私なんかの為に、わざわざ」
「あぁ、いいってことよ。ちょうど俺も、
荒野は暗い表情をしない。むしろ晴れやかな表情をしているのが荒野だ。通常であれば、一生心に影が落ちてもおかしくないところを、荒野は割り切っている。
荒野は、私が聞く前に、自分の目の話を始めた。
「俺さぁ、一応半年前までは戦場カメラマンやってたんだぜ。すげーだろ、夢叶えてんだぜ」
少し笑った。空笑いだ。私は本当にすごいと思っているのだが、それを伝えるための語彙がない。だから私は荒野の手を握る。痛くないように、それでも強く握る。荒野はそのまま話し続けてくれる。
「ただ、少々運が悪かったというか、なんというか。俺の前に爆弾が降ってきたんだ。それで、目と上半身がやられた。上半身は何とかなったが、目の方はダメだった。仕方がない、命あっての物種ってことだ」
私はその話を、静かに、一欠片も溢さないように聞いていた。話したいわけではない、ただこの、荒野という人間の、この八年間を、事細かに知りたいと、そう思った。私はその間、ずっと押し黙っていた。
「でも俺はさ、なんというか、恨めしさとかさ、そういうものを感じてるわけじゃないんだ、本当に。あの戦場にいた時は、俺の信念でさ、実直に、俺なりに素直にやってたんだよな」
「そりゃ、当時は怒りもしたし、暴れもしたけど。でも何よりも感じたのは、『あぁ、これで終わりか』っていう無力さだったんだよな。正直、すごい落ち込んだし、さ。盲目の戦場カメラマンとしてやっていくことも多少は考えたが、一枚写真を撮ってみたらピンボケしてる始末だったよ。全く、これじゃあプロ失格だよな」
ずっと言葉の最後には微かな笑い声が付いていた。きっと荒野なりに、戦ってきた道筋を、一歩一歩辿るように、言葉を必死に紡ぎ出している。だが、そこで荒野の雰囲気が変わったのを見て、私からも少し聞くことにした。
「気を悪くしたら悪いんだけどさ、やっぱり私は荒野のことすごいな、って思うよ。なりたいものになる、ってのは、なかなかできることじゃない――その上、荒野はその中でも成功を収めてた、ってのは、やっぱりすごいな、と私はおもってる」
「まぁ……そうだよな、それはそうなんだよ。俺だって、目が見えなくなったからといって、今までの全部が無に帰すとは、思っちゃいない」
「でも……その、なんて声をかけたらいいのか、わからないんだけど。その、目が見えなくなったことで、後悔とかしなかったのか、って」
「
そう言った荒野は、少し立ち上がった。ぶつかって姿勢を崩さないよう、少し後ろに下がる。荒野はこちらを向いて、少し俯いた。
「俺は、お前に謝らないといけないよな」
そう言われた時のわたしには、何を言われるとも想像がつかなかった。何をされた覚えもない、むしろ謝らなきゃいけないのは、私の方だろう、私が何者にもならなかったことに、まずば謝らなければならない。
「本当に、『何者か』であり続けられなくて、すまなかった。雨方との約束は、若干違えることになっちゃったからな。本当にごめん。」
荒野は頭を下げた。非常に申し訳なさそうだった。近年ではなかなか見ることのできない、きれいな謝罪だった。
「え……」
私は、その光景を見て驚くよりほかになかった。
「俺もさ、本当なら今も、戦場にいる予定だった。カメラマンとして、だ。でもそれは、叶わなくなったんだよな。『何者か』である俺は、多分もう帰っては来ない」
「約束のこと、多分だが雨方は一回も忘れなかったんだよな。俺とは全然違う、誠実だ」
「それって」
私の言葉をさえぎって、荒野は食い気味に台詞を捻じ込んだ。
「忘れていたとは言えないが、真剣に思い出したのは失明してからだ」
そうか、失明してからだったんだ。約束のこと、真剣に考えてくれたのは。
「ごめんな、雨方。雨方は、ずっと俺なんかを待っててくれたわけだろう?ところが俺の方が、どこに対しても誠実になれなかったんだ」
荒野は、明らかに悔し気だった。多分だが、自分の内から湧いてくる、感情の流れが、私の前で、堰き止まっているのだと感じた。荒野が、この数年で、あるいはこの半年で煩悶してきた、その全部が、彼の背後にありありと現れていくようだった。
私はゆっくりと荒野の方を向く。私は少し考えながら、慎重に言葉を手繰っていく。
「まぁ……いいけどね、私は。だって、何よりも嬉しかった」
荒野は驚いたようにこちらを見遣る。目は見えなくなっていても、その熱視線は私の右肩を照らした。
「正直、不安だった。荒野が、全部忘れてて、『何者か』として、日々を生き続けているんじゃないか、って」
まぁそれもそれでいいんだけどね、と付けながら、私は一つ一つ噛みしめるように話す。
「目が見えなくなって、それでも、私のことを思い返してくれたこと。それで、日本まで戻ってきてくれたこと。全部、簡単な話じゃなかったはず。それなのに、荒野は、わざわざ私との、あんな約束のこと思い出して、それで……」
気が付けば、私は泣いていた。目から静かに涙が流れ出て、雨の音と混ざって、静かに落ちていく。少し喉の奥が詰まって、呼吸が荒くなる。
「まぁまぁ、泣くな雨方。そんなに深刻な話でもない」
声を上げて泣いていたわけでもないのに、荒野には気づかれていた。現場で培われた勘というやつだろうか。
「見えるものばっかりが真実じゃないさ。人間には五個も感覚があるじゃないか、一個無くなっただけじゃ、俺は死なんさ。バックパックの中にハンカチが入ってる、使ってくれ」
左の方だ、などと言いながら荒野は軽快に笑い始めた。私は言われたとおりに中を探る。するとなかなか使い込まれた、しかし未だにきれいなハンカチが一枚出てきた。
涙を拭いながら思いつく。そうだ、荒野と言えばこの笑い方だ。少ししゃがれていて、大きくはないけれどもしっかりと笑い声をあげている。こういう笑い方をいつもしている、それが荒野だった。
「やっと、いつもの調子で笑ってくれた。」
私は、非常に小さい声でそう呟いた。聞こえないくらいの声で言ったつもりだった。しかし、荒野は聞き逃さなかった。
「……やっぱり、雨方にはわかっちゃうのかなぁ……」
弱気な声だった。今まで聞いたことが無いくらいに、弱くて、か細い声だった。
「……なぁ、雨方。俺が今から言うことは、全部ただの弱音だ。だから、雨方が無視したければしてもいい」
一呼吸おいて、ちょっと肩をすくめて。荒野は時間をかけて話し始めた。
「……さっき、雨方に貸したハンカチがあるだろ。あれは、俺が向こうで常に持ち歩いてたヤツなんだ。まぁちゃんと洗ってはいたが。で、それ、もとは柄物なんだ。信じられないかもしれないが、もとは全体的に黄色い花があしらわれたヤツだ。平和を込めたダンデライオンの花の柄なんだが。」
ちょっと目をやってみると、確かにそれらしい部分がほんの少し残っていた。
「俺はそのハンカチをずっと持っていた。いつかこのハンカチが完全に無色になるときがあれば、その時はきっと相当な時間が経って、俺も自分を振り返るときなんだろうな、って。結果としては、もう二度と柄を自分で目視はできなくなっちまったが」
少し残念そうな顔をして、荒野は私にアイコンタクトをした。私はその意図を組んで、ハンカチを右手に返した。
「いい手触りだろう、こいつは。結構高かったんだ」
慣れ親しんだ感じでハンカチを広げる荒野。いつもの通り、というのが普段見ていないのに浮かんでくる。
荒野はハンカチをしまうと、こっちを向いて思い立ったように言った。
「そうだ、雨方。ちょっと、俺の名前で検索かけてみろ」
そう言われて、私はスマホに荒野の名前を打ち込む。
「……The realityってサイトが出てきたけど」
「俺のいた
言われたとおりにサイトを開くと、大小さまざまな写真が立ち並ぶサイトが開いた。
「これが?」
「そう、俺がカメラマンとして活動していた
「UAVって、このドローンの先に機銃がついたみたいなやつ?」
「そう、それだ。俺が戦場カメラマンとして撮った、最後の写真だ」
記事を開く。そこにはUAVの性能や、国際紛争上の問題、それに関する議論まで。非常に興味深いところの記事が、とうとうと並んでいた。
「……すごい。本当に」
「あぁ、すごいだろう。わざわざ言語も勉強することになったしな、これのせいで」
「ずっと……これを?」
「そうだ、俺は大学を出てからずっとこれだ。その間、一回も日本には帰ってないしな。まぁ、やりがいの世界だよ、本当に」
「そうなんだ……」
場を小さな沈黙が支配する。お互いに、次の一手が見つからない。私はその沈黙を打ち破るべく、自分の方に話を当てていく。
「そういえば、さ。私も、荒野には謝った方がいいよね。私の方から『八年後』なんて言っておいてさ、結局ふたを開ければ私の方が何にもなってなくってさ。本当に、ごめんなさい」
私は荒野の方に、しっかりと腰から体を折り曲げて謝った。見えてないかもしれないけれど、こうしなければ私の方の気が済まない。
「いい、いいんだ。それより、雨方はまだ謝っちゃだめだ」
その言葉を聞いて、私はふっと体を元に戻す。
「どうして、私は――」
「雨方は、まだ『何者』にもなれるだろ」
ここでもやはり、荒野が食い気味にかぶせた。
「……いや、私の力は、もう――」
「大丈夫だ、まだ、なれる。まだ、本当に雨君がなりたかった『何者か』に、なれる」
荒野の一声一声が力強かった。間違いなく、確信を持っている言い方だった。
「だって、俺でもなれたじゃないか。俺にできて雨方にできない理由がないね。雨方には、そういう力があるはずなんだ」
「……どうして、そう思うの?」
「八年前、俺をここに呼んだのは雨方だっただろ。雨方のおかげで、俺は退路を断たれた、と思ったんだ。退路なんかない方がいい。己に言い訳をするのは、嫌だからな」
「はは、耳が痛いな……」
「雨方は、『何者』にもなれなかったわけじゃないんだよ。『何になるか』を、知らなかっただけなんだ。漠然と『何か』になるってのも、俺は素敵だと思うけどな。ただ、どうしても的を絞らなければそれだけ当てるのは難しくなる。結局、『何か』になるってのは一つ的を絞るってことなんだと思うぞ、俺は。」
荒野は、諭すように、そして穏やかに話している。さっきから降り続く雨が、バタバタと地面を打つのとは、ちょうど真逆のように。優しく包み、それを空へと返すように語っている。
「だからさ、雨方。今からでも遅くない、『何か』になろう。別に『何になるか』も焦る必要はない。俺だって、カメラマンになることを決めるまでには幼少期ひっくるめて十年かかったんだ」
私は荒野の言葉を聞くたびに、少しづつ前に光が投射されていくのが見えていた。少し余裕を感じたので、こちらからも話してみる。
「……荒野、いつも嬉しそうだよね。カメラマンの話するときは。」
「当たり前だろ。俺にとってカメラマンは人生そのものだ。人生を語るときは、楽しくなくっちゃあだめなんだ。じゃないと、ちょっと寂しいだろ」
「じゃあ、私も――」
「そうだ。笑え、雨方。俺は笑ってる雨方と、雨方の笑顔が好きだ。たくさん笑いながら、自分の納得の行く道を探せばいいんだよ」
「……うん。たくさん、笑うことにする。」
「
「……本当に、残念だよ。私の今の笑顔を見せられないのが。昔と、特に変わってないけれど」
「あぁ、全く残念だ。雨方の笑顔を見るのを楽しみにしていたんだがな。」
私と荒野はひとしきり笑った。声を上げて、それはそれは大笑いした。それはそれは、楽しかった。次に言葉を発したのは荒野の方だった。
「なぁ、雨君。なんで俺だったんだ。俺以外にも、似たように意志の高い連中はクラスの中にたくさんいただろ」
「そういう荒野だって、来てくれた。別に何とも思ってなければ、来なくても誰も何も言わないはずなのに、律儀にも荒野は来てくれた。どうして?」
荒野は少し考える素振りを見せて言った。
「そりゃあ、雨君のことが好きだったしな。俺、言いはしなかったけど結構長い間雨君のこと好きだったんだぜ?」
私は不意打ちを食らったような気がしたけれども、別に動揺する要素もなかったので、やっぱりな、と思いながら返した。
「そこまでわかってるなら、私だって荒野が良かったから――としか言えない、かな」
「じゃあ、やっぱり来て正解だったな。」
荒野は嬉しそうにしていた。だから私は、一思いに全てを話すことにした。どうせ今日離れてしまえば、次に会える保証だってない。ならば、話しておくだけ得な話だろう。
「でも、私、ずっと荒野のことが好きだった。うん、今だってそう。荒野の、その直向きなところとか、ずんずんと突き進んでいくところとか。そういうところ、全部好きだった。それで、それで――」
「落ち着け雨方。ちゃんと落ち着いて話した方がいいぞ?」
私は思わず手に力を込めていた。すっと弛緩して、気分も落ち着かせる。肩を軽く回すと、ようやく調子が帰ってきた。
「そう、今日会ったら、絶対に伝えよう、って決めてた。私、ずっと荒野に会いたかった。会って、伝えなきゃいけないと思ってた。」
「そうか、嬉しいことを言ってくれるな、雨方は。俺も嬉しいぞ」
「でも、荒野はずっと私の前を走ってたから。そんな荒野を邪魔することもしたくなかった。だから、せめて伝えたいと思った。」
「なるほどな、ありがとう雨方」
「それで、私は――」
すると荒野が立ち上がって、こちらを軽く白杖で制した。
「まぁ待て雨方。結論を急ぐものでもないぞ。そんな雨方に、俺からいいニュースがある。」
そう言って荒野が立ち上がってこちらに歩こうとしたのが見えたのだが、荒野がふと止まった。私はちょっと不安になったが、すぐに荒野が言った。
「……雨が、止むな」
私はしばし困惑した。雨が止むなんて、天気予報でも言っていなかった。
「どうしてわかるの?」
「耳だ。視覚を失ってから、耳が良くなった」
その回答に不思議がっていると、その後ほどなくして、雨が止んだ。
「……本当だ、止んだよ。」
「雨の音が、すぐそこで止まったからな。ちょっと練習すれば、誰でもできるようになる。エコーロケーションの一種だと思ってくれればいい。」
私が感心していると、話を荒野の方から戻してくれた。
「それで、いいニュースというのはだな。俺が今、日本での支援スタッフを募集している、ということだ。さらに幸運なことに、まだ誰も応募してきていない」
「それはつまり――」
「そう。雨方に仕事の依頼だ。盲目な人間として、どうしても社会生活を営むためには人の手による支援がいる。本当なら、今日だって誰か一人つけてくるべきだったんだ。俺が納得いかないから、無理言って今日は一人で来たがな」
「でも私、支援の経験なんて……
「もちろん無理にとは言わない。あくまでお誘いだ。ちなみに経験の有無は問わないぞ」
「でも、私でいいの?」
「俺に言わせれば雨方以外にあり得ない。自分の支援スタッフは、信頼してる人間でなくっちゃ。雨方なら、先ず信頼できる」
「……まぁ、ほんの少しだけ時間を頂戴。会社と、話をつけてこなくちゃいけないから。」
「わかったよ、雨方。じゃあ……とりあえず、連絡先交換しようか?」
「……ああ!忘れてた!」
「しかし、雨方さんが会社辞めるとはねぇ……」
私の直属の上司は、非常に残念そうにしていた。
「すいません、突然やめたみたいになっちゃって」
「まぁ、いいんだけどね。いままで頑張ってもらったし、新しくやりたいことが見つかったってんならいいことじゃないですか。私も応援してますよ。」
「今まで、本当にありがとうございました。また、どこかでお会いしましょう」
「じゃあ、またね」
そうして、私は四年勤めあげた会社を退職した。
「あ、来た来た。荒野、こっちだよ」
私は、新しく契約した家を背後に、荒野を迎え入れていた。
「……しかしいきなり新居ねぇ。雨方の行動力には毎回恐れ入るばかりだ」
「仕方ないじゃん、荒野の今の状態とか、お金とか、この後のこととか考えたら、こうするのが一番手っ取り早かったんだから」
「まぁいいけどね、俺は。いきなりいろんなこと進めるのも、クールじゃないか?」
「そうだよ、そう。私だって仕事辞めたんだから、再就職までのこともあるし……全部ここから始まるんだよ、きっと」
「まぁ、『人を助けれる人になりたい』って言ってたし、いいのか?」
「私、ずっと悩んでた。 『何者か』になれない、ってことを、重大に捉えすぎてたんだよ。その時に気付いたんだ。まずは自分たちから助けないといけないんだ。」
「意外と答えが出るまでに時間もかからなかったなぁ、雨方は。そういうところが俺も好きなんだが」
「嬉しいねぇ、荒野も私のこと好きって言ってくれるようになったよ」
「俺も正直になったもんだな。で、これからいろいろやることもあるわけだが」
私は少し考えて、こう言った。
「とりあえずさ、繁華街にでも出ない?」
荒野は久しぶりに日本に帰ってきていたことを、今思い出した。とりあえず、荒野には、まず日本を思い出してもらわなければならない。
「日本の雰囲気、懐かしいな。そうそう、繁華街ってこんな感じで、よくわからない音楽と排気音が混ざった音をしていたよな。」
「荒野がいたところには、繁華街なんかなかったもんね」
「まぁ、ないよな。排気音と銃声はずっとしてたけど、人々が楽し気に笑っている声を聞くのは本当に久しぶりだ」
「どうしようか、まずは荒野の為にいろいろ見繕わないといけないかなぁ……」
「例えば?」
「服とか、カバンとか、あと傘とか。いくら何でもいつまでもビニール傘じゃあちょっとねぇ……」
「なるほどな……」
「ふふっ……」
「どうした、雨方」
「いやぁ、楽しいな、って思って」
「……ああ、そうだな。非常に楽しい」
私と荒野は、そうやって一日いろいろと見繕った。荒野の周辺のアイテムを、日本のカルチャーに合わせたものに変えていく。その帰り道に、荒野が何やらそわそわしていた。そして、ゆっくりと言葉を発した。
「なぁ、雨方。ふと思ったんだが聞いていいか?」
「ん、何?」
「俺は、この後どうしていけばいいんだろうな」
「んー……そうだねぇ……でも、やっぱり日本でゆっくり過ごす、ってことじゃない?申し訳ないけど、今からカメラマンに復帰する、ってのはさすがにねぇ……」
「だよなぁ……働いてないと落ち着かないってのはあるけど、まずは静養かなぁ……」
「そうだよ、それでゆっくり『何をしたいか』を考えればいい、ってことなんだよ。きっと」
「……俺も雨方も、ちょっとずつ探していくことになる。ゆっくりやろう。先立つものなら、NGOから労災ってことで結構降りてるからな。」
「あ、へぇー……」
二人は歩き続ける。私は荒野が歩行するのを見て、どんな状況でサポートが必要になるかを見て考える。荒野は比較的悠々自適に歩いていた。
「しかし荒野、歩くの上手いねぇ」
「もう半年前に失明したからな。ずっとリハビリでやってたことだし、それなりに歩けるようにはなったさ」
「やっぱり、ないものはないなりに埋め合わせるのが人間なのかな」
「そうかもな……人間だけだ、失った機能を何とか補填しようとするのは」
「……やっぱり、戦場でも?」
「いや、戦場じゃそうはいかない。どんな兵士でも、重要な機能――利き腕とか、あるいは足とか。それらを失った兵士をまさか戦線に復帰させる例は稀有だ。」
「……あのさ、これは私の杞憂なんだけど。最近では、白杖ユーザーも一人で生活するケースが多くなってる。そしたらさ、いつか荒野も、一人で生活する日が来るのかなって、そう思ったわけ。」
「せっかく、荒野と会えて、一緒に生活するようになったのに、さ。また荒野がどこかに行っちゃうってのは、私としては……ちょっと、寂しいかなって」
「なんというか、わかってはいたけど雨方って悪い方向に考える人だよな。慎重派というか、いらない心配というか、それとも悲観的というか……」
「だからさ。荒野。」
「結婚してくれる?」
全くもって、突拍子のない話だったと思う。私と荒野は、結婚式場の入り口扉の前にいた。全部が全部急な話だった。荒野が来たのも、荒野と生活することになったのも、荒野と結婚することになったのも、全部。
「なぁ、雨方、本当に俺でよかったのか?」
「まぁ、じゃなきゃ言わないし。あと……」
「もう、雨方じゃない」
八月二十九日、雷雨。 納骨のラプトル @raptercaptain
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