中 荒野の順路

 空港に直通の電車があるのは楽なものだ。ある程度の都市部から空港に乗り入れることができるし、その逆に空港からも都市部にアクセスができる。俺はCCキャビンクルーに助けを求めて、日本に帰ってくる飛行機から、手を引かれながら降りた。

 そのまま空港職員に声をかけ、列車のホームまで案内してもらう。切符のボタン配列なんかは忘れてしまった。仕方がないので、手伝ってもらって交通系ICカードに万券を突っ込んでおく。

 駅にエントリーして、点字と音が示す通りの道順をたどって目的のホームに至りつく。俺は駅のホームで、階段を下りてとりあえず歩き続ける。すると、

「そこの白杖の方、止まってください」

そう言われて、俺は慌てて足を止める。駅員の声だ。少々歩きすぎたか。そのままその声の主は、俺の方まで歩いてきてくれる。

「まもなく急行列車が参ります、黄色い線の内側までお下がりください」

自動アナウンスは俺に列車の接近を知らせる。すると、駅員が俺の手を引いて、乗車口があるところまで声をかけながら案内してくれる。

「降車駅の駅員をサポートに向かわせます、どこまでお乗りで?」

「あー……とりあえず、ここからは終点まで、そこからは乗り換えでまた別の方に……」

「わかりました、ではそう伝えておきますから、車両移動などはしないでいただければと。」

コクコクと首を縦に振って、ブレーキ音の聞こえた方向に向き直る。そのまま列車に乗り込めば、ほどなくして列車は静かに空港を発つ。どうやら空いているらしいから、前の席に深く腰掛ける。聞こえてくる静かな冷房の音と、流れゆく線路の継ぎ目がクッションして跳ね上がる音が心地よい。

 俺が視覚を失ったのは今から数えてちょうど半年前になる。あんまりに突然のことだった。

 八年前、十七歳のころ。俺はその時の情景を詳らかに記憶している。八月二十九日。太陽がジリジリと照り付け、アスファルトはホットプレートが如く熱くなっていた。俺は学校の終わりに、帰りがけでもある日課のランニングに行こうとしたところを、雨方――雨方福音あまかたふくねに、呼び止められた。雨方は、何やら決心したような顔をしていて、俺はその時、雨方が何やら怖く見えた。雨方のすっと透き通る碧色をした目が、こちらを一心に見ていたからかもしれない。それとも、ひとりでに握りしめていた左手が、あんまりにも強く握られていたのが、俺でもわかるぐらいに強かったからだろうか。雨方は俺を後ろにつかせて、学校の裏にあった、一番大きい木の下に連れて行った。

 その木が何の木なのか、未だに俺はよく知らない。常緑樹なのはわかるが、詳しいことは判然としない。雨方の歩調は、心なしか速かった。なぜ気づけたか、という話だが、俺は当時、雨方のことを好いていた。でもそれを言葉にすることもなかった。言葉にすれば、関係は変わってしまうから。遠巻きに見れる方が、ずっと幸せだと思っていた。なんでと言えば、恥ずかしながら容姿に惹かれていたからだ。先にも触れた碧で透き通る眼。全体的に線が細く、空気すら気を張っているように見える雰囲気。長く規則正しく伸びた黒い髪は、いつも光にあてられて輝いていた。それに加えて行動が気品高く、一挙一動が光を纏っているようで。かわいい、というよりかは美しい、というべきな、そんなところが。

 俺には呼ばれる謂れがなかった。通常こういう時には「告白イベントだ!!!」と沸き立っていればいいのだろうが、俺の日ごろからの観察眼が、明確にそれを否定していた。ずっと目で追っていた……と書けばなんだか気色の悪いところだが、否定のしようもない。あまり運動を得意としているタイプでもなかっただろう、だったらわざわざ呼び立てることも無かったろうに。それほどまでに、重大な何かなのか、はたまた単に場所を変えたかっただけか。相変わらず、読めないところのあるのがこの雨方だった。

 大樹のもとにつくと、ともなくして雨方が話し始めた。

「私さ、夢があるの。いつか、すごい人になってやるんだ、って。だから、さ。私は大学で、思い切りいろいろやってみてさ、違う『私』を見つけてやろう、って思ってるの」

俺は当惑した。どういった言葉を返すのが適切か、わからなかった。それで俺が押し黙っていると、また自然と雨方が口を開いた。

「荒野はさ、カメラマンになるんでしょ?だから私、すごいな、と思ったの。私と違って、一本芯が通ってて、さ」

「まぁ、俺はカメラマンになりたいって小さいころからずっと決めてたしな。憧れ……とは、またちょっと違うんだが」

「そこよ、そこ。小さいころから、ずっと『何になる』のヴィジョンがあるところが、すごいなって思う」

「そりゃ、どうも」

「だからさ、私も、きっと『何者か』になるからさ、それまで――」雨方は、そこで一瞬だけ躊躇った。多分、本人でさえも気づいていなかったが、俺は雨方が、一瞬だけ左を向いたのを見た。そしてすぐにこちらを真直ぐに見て、

「八年後にしようよ。そしたら、お互いに何か変わってるかもしれないじゃない?」と、やや小さな声で言った。俺はその言葉の意味が、その時咄嗟には飲み込めなかったのをよく覚えている。

「じゃあ、また会おうね。と言っても、しばらくは学校で顔を合わせることになるんだけど」

そういうと、雨方はいつもの通りの帰路につかんとして離れていった。俺はその場から動けずに、何度も何度も雨方の言葉を反芻して、反芻して。必死に納得のいく答えを探そうとするのだが、結局通りがかった車にクラクションを鳴らされて、打ち切りになってしまった。

 結局、それから俺はまず大学に進学することになり、大学で国際情勢の勉強をしていた。その中で、俺は一つの、自分なりの正着手を見つけ出した。戦場カメラマンである。俺はカメラマンとして、未だに広い分野には知られていない問題を、報道したいと考えたのだ。それが、俺なりの正解となった。

 大学をストレートで卒業すると、すぐにNGO非政府組織に参加し、紛争地域へと向かった。そこは俺が今まで生きてきた常識の真裏、と言ってもいい。昼も夜もない。民間人と軍人の区別もない。今まで生きてきた平和な世界とは全くもって別な、現実リアリティがそこにはあった。俺はそのリアリティを記録する。持っているカメラ、メモ帳、あるいは己の頭脳でもよかった。来る日も来る日も、ひたすらに事実を記録し、公表していった。そのうちに戦場カメラマンとしての評価を得て、ある程度の権威のある団体にも認められていくようになった。俺はそれもバックアップとして、ひたすらに己の信念とともに取材に打ち込んでいた。そんな生活が3年続いたある日。俺と直属の上司は、より前線に近い場所への移動を計画していた。前線で投入され始めたUAV無人偵察機が、国際法などに抵触しているのではないか、という議論が、平和な側の国たちで盛んになっていたことが理由だ。そのUAVを撮影し、機能等について議論を進めること。この前進の意味はそれだった。一部から危険だとの指摘も上がったが、今までの危険な生活で麻痺していた俺はそれが危険と思う理由がなかった。

 前進取材から4日目、目的のUAVを発見した俺は、早速撮影に向かった。しかし、それが命取りだった。その時知ったことだが、UAVには兵装も搭載できるらしかった。UAVを撮影し終わったタイミングで、そのUAVがこちらに気が付いた。っしてすぐに、小型の爆弾を投下した。いくら小型とは言え爆弾だ、もろに喰らえば即死だった。俺は必死に回避を試みるが、腰が抜けて思うように体が動かない。それでも最大限に距離を取ったところで、その爆弾が爆発した。それは破片手りゅう弾だった。幸いに命は残ったが、俺の体に、そして目に、その破片がいくつも刺さった。その後、俺はすぐに意識を失った。

 次に目を覚ましたのは、野戦病院ではなく、しっかりとした病院らしかった。ただ一つ明らかに違かったのは、俺は目を覚ましたはずなのに、何も見えない、ということだった。俺がしっかりとした病院にいると確信できたのは、寝かされているベッドが明らかに軟らかい、というそれだけのことでしか判断ができなかった。俺は目が見えなくなった事実に、絶望するより先に「ああ、これで終わりか」という、半ば諦めに近いものを感じ取っていた。

 俺が目覚めたことに気付いたナースは、誰かを呼びに駆け出して行った。英語だった。俺がいた戦場は英語なんかはまず話されない場所だったことも、俺はもう、あの場所には戻れないという意識を深めた。

 医者が言うには、眼球全体に広く傷が入ってしまい、組織が多数破壊されたことが失明の原因と言っていた。どうやら手術する手もあったらしいが、それによってかかる身体への負担が、多数傷を負っていた俺の体に耐えうるか、という点での懸念が解決せず、止むを得ず失明を選ぶことになったらしい。その説明を聞いている最中にも、俺はやるせない気持ちに満ち溢れていた。

「次は……終点……終点です」

 乗り換え駅に着いた。列車が停止すると、俺は扉に向かって歩き出す。車両とホームの切れ目のところから、駅員が俺を補助してくれる。次の列車は、今度は終点までは乗らない。駅員に、正確に行き先の駅を伝える。そのまま俺は、次の列車に乗せてもらった。

 俺はやはり思いを馳せる。失明してから最初にこの約束のことを思い出したのは、失明してから二カ月後のことだった。

 正直なところ、約束のことはあまり深く覚えていなかった。時々なんとなく思い出すけれども、深く気にしてはいない。そんなぐらいのところを覚えていた。しかし、病院でリハビリゼーションに取り組み、後一カ月ほどで退院できる――となった、その瞬間に、ふと、その約束の全容を、思い出した。

「そうか、俺は雨方に、『何者か』になった状態で会いに行かなきゃいけないんだったな」

あのあと。高校を卒業するまでに、雨方の言葉の真意を、俺は俺なりに頑張って解釈した。そのうえで、俺はあの言葉を激励句でも後押しでもなく、羨望として受け取ることとした。「heros always英雄は死なず、 have to be herosされど超えれず」の精神が、俺には求められているということだった。雨方に会う俺は、「何者か」であることが求められている。だが、失明して、病院に収容されている俺は、もはや、「何者か」であった頃の俺ではない。俺は、雨方に合わせる顔が、なくなってしまった。

 白杖生活にも慣れてきて、ついに退院した俺は、カメラを持って、その病院があった町へと繰り出る。目が見えないから、カメラも使えないが、それでも聴覚を頼りに何かありそうな方へとシャッターを切ってみる。それを、NGOのスタッフに見せてみた。このNGOのスタッフは、俺が負傷したので、俺が入院したところの地元だったこともあり、俺がどうするか決めるまで泊まっていていいと、住居を貸してくれている人だった。その人は、写真を見て、静かに言った。

「あー……これあれですね、ピンボケしてますね」

ピンボケ。プロとしてはまずしないミスだった。やはり、そもそも画像として生み出すものだから、目が見えない、という点はどうしても大きい。俺はその時、やはりどうしようもない無力を感じていた。

 俺はその後、雨方に会うことを決めた。悩んでいたってどうしようもない、先約があるなら先約優先だろう。俺はその日に日本に戻ることにした。白杖の使い方にもだいぶ慣れてきていたので、これ以上NGOに迷惑もかけられないということでNGOも脱退。NGOからは表彰を受けることとなった。俺の今までの功績を評価する、ということだった。その表彰式で、俺の上司は俺に向かってこう言った。

「ゆっくり休め。お前は今まで、よくやってくれた」

俺はこの言葉を聞いて、今までの活動が走馬灯のように流れるのを見た。大変な日々だった。もう今では戦場カメラマンではなくなってしまったが、積み上げてきたものが失われるわけではない。俺はその言葉を聞いて、深く敬礼した。

「次は――です……お出口は左側です……」

目的の駅に到着した、空港の時から聞こえていたが、ずっと雨が降っているようだった。雷だって鳴っている。だが、そんなものは俺には見えない。それよりも、今は土地勘がない方が問題だ。記憶をたどって、あの大樹に至りつくしかないだろう。俺はコンビニで傘を調達し、カバンに括りつけて駅郊外から歩き出した。

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