八月二十九日、雷雨。

納骨のラプトル

上 雨方の順路

 連絡先ぐらい、聞いておけばよかったな。

 大体、なんで八年前の約束なんて覚えているんだろうな、私は。いっそ忘れていてくれれば、私もこんな旅路を歩まずに済んだのだが。新幹線の中で深く考えると、いろいろな自分が客観視されてしまう。それなら外でも見ればいいかと顔を左に向けてみても、指定席で取った窓側の座席から見える外の景色は、昨日からずっと降り続く雷雨しか映してはくれなかった。

 私は今年、それも二週間前に二十五になった。だから、今問題になっている八年前の約束というのは十七の時の話である。私が今までの人生でした、たった一つの、吹けば飛ぶような約束。

「八年後のこの日、この場所でまた」と、私と荒野――荒野こうやタカシ――が学校の裏手の、一番大きい木の下でした約束である。ジリジリと熱い太陽の下、二人で目を見て交わした約束。荒野の後ろにはアスファルトに熱気が当てられて、蜃気楼が立ち込めていた、そのくらい暑い日。きっと当時、多分私も荒野も、お互いにお互いを思いあってはいたのだが、そのことを形にすることはなかった。荒野はプロのカメラマンになるという夢があったし、私にも進学して経済学を学ぶという目標があった。肌でお互いの覇気というか覚悟を感じていたお互いが、お互いの背中を背中で押すような。そんな約束だったから、相手の方は忘れているかもしれない。それでも、私は、その場所へと向かうことにした。

 この荒野タカシという人間が、私の初恋だった。なんで好きになったか、と言えば気恥ずかしいが、背の高くて、ぶっきらぼうに見えるけれども、実際には芯が強くて、ただまっすぐなだけの少年だったところに惹かれたといっただろうか。

 本当は、頭のどこかで分かっている。冷静に考えれば、八年前のことを覚えている人間の方が稀有だ。余程のことでもない限り、覚えていられるのなんて三ヶ月がせいぜいだろう。すると私の方は余程この約束を気がかりにしていたということになるか。事実だから否定のしようもないが、何かそう聞くとおさまりが悪い。メルヘン気取りの少女として生きてきたつもりもないけれど、夢を見るのは昔からだったのかもしれない。

 では……なぜ八年間もの、猶予期間を、私たち、いや私は設定したのだろうか?ちょっと考えてみれば、そんなに長い期間も必要じゃなかった。ただ、お互いに、目標があって、それを叶えようとしていたこと。そのためにも、お互いやることがあったこと。それはわかる。が、どう考えたって八年間は長すぎる。しかもこの「八年後」を言い出したのは私だった。そこに含まれていたのは、私の一抹の不安だった。

 そこまで回顧し終えたちょうどその時、新幹線が急に「キィィーーッ……」と音を立てて止まった。さっきからずっと降り続く雨のせいだろうか。

「えー、ただいま線路前方に落下物を発見しましたので停車いたしました。ただいまより確認作業を行います、お客様にはご迷惑をおかけしますが、発車まで今しばらくお待ちください……」

 落下物か。大方風で飛来したかあるいは誰かが投げ入れたか……いずれにせよ、ただのアクシデント。どうせこの後すぐに、取り除かれてまた日常のように戻っていく。今外に降っている雨だって、いつかは降りやむ。もっとも、この電車自体が東に向かって進んでいるから、ちょうど雲を追いかける背格好になって、しばらくは雨ということになるのだが。

 止まっている新幹線というものはそれだけで違和感がある。本来であれば流動的に流れ、決まった場所でしか止まれない、ある意味で哀れな存在であろう。その不気味さのせいですわりが悪くなってきたので、辺りをきょろきょろと見まわしてみる。車内販売の声が虚しく響いて、外の雨音と弱く鳴く雷の音が混ざり合っている。乗客たちも、少し立ち上がって背伸びしている人もいれば、退屈そうにスマホを眺めている人たちもいる。

 私はもはやその周囲の観察にさえも飽きて、車内販売を呼び止め、ホットコーヒーを一杯貰った。この夏だというのに、よく効いた車内の空調と、雨に冷やされた外気とが混ざり合って、暖かいものを持った時の感触が心地よく感じられた。そうやってまた、思考の深いところへと潜っていく。こんな風に考え事をしてしまうのも、全部この雨と雷と、重苦しく私たちを抑える雨雲と、理不尽な低気圧のせいということにしてしまおうか。

「雨方さん、ついに有給申請ですか」私の直属の上司から言われた言葉である。大学をストレートで卒業して、社会人生活三年目の私が、初めて有給を取ったことに対する言葉であった。

「しかし、雨方さんの有給申請の理由が……何というか、今まで見たことが無くてですね。『約束を守りに行く』……ちょっと、他意はないんですが、意味がよくわからないんですよ」

「高校生時代の話ですよ。私の初恋の相手に会いに行く約束を八年前に取り付けたものですから。ちょっと、行かないわけにもいかなくて」

「八年前!?なんというか、よく覚えてましたね、そんなこと」他意はないんですが、と付け加えながら、私の目を見てくる。

「こっちにとっては重要な約束なんですよ、少なくとも。まぁ相手の方がどう思ってるかは、ちょっとわからないんですが」

「結構なことじゃないですか。約束を守る、ってのはいいことですよ。ただ、どうして八年も時間が飛んだんですか?」

「……秘密です」

 今思い返してみても変な会話だ。私と上司の仲がいいことだけは、誰がこの会話を聞いても伝わることだろうが。

「お待たせいたしました、線路上の障害を取り除きましたので運転再開いたします……」

少し元気のない車掌のアナウンスが車内に響き渡り、また車両は雨雲を追いかけ始める。少し後ろを見てみれば、若干雲の量が減っている気がした。

 その時私は左手に持っていた紙コップのバランスを崩し、足に漆黒の熱湯を被る羽目になった。

「熱っ!」

車内だというのに情けのない声が響き渡る。まったくもって不注意なものだが、よく見るとすでに紙コップの変形が始まっていた。そうか、紙コップってこんなにも脆いのか。まだ数分、あるいは十分じゅっぷん程度しか経っていないというのに。握力も30kgない私だ、まさか握りつぶしてはいないだろう。次に飲み物を買うことがあればさっさと飲み切れ、ということか。しかし、この紙コップは、非常に私に似ている……そう思えた。

 紙というものは、非常に汎用性が高い。その上安価だし、耐久性もある。羊皮紙の時代から現代にいたるまで、記録、成型、運搬など用途は数知れない。しかし、液体の運搬まで紙に担わせようとは、人類も進歩したものだなと感銘を覚える。そうやって、人類は広範な範囲に紙を活用しようと試みてきた。がしかし、紙も元を正せば全てパルプの集積である。私だって、他の人だって、そうなハズ。全て人というのは、希望という接着剤に固められた、パルプの集合体――つまり、変形された紙製品のようなモノだと、そう思う。でも、そうやって作られた紙製品が、ある場面では非常に有用になり、ある場面では他に迷惑をかけて、互いに役割を果たそうとする。それが、人々がこの社会で生きようとするということだ。

 先の約束で問題となっていた、八年間という問題もここに接続されていく。私が八年後と言い出したのは、この問題だった。

「だからさ、八年後にしようよ。そしたら、お互いに何か変わってるかもしれないじゃない?」

この一言に、全てが集約されている。少し長くないか、と笑う荒野を前に、私はひどく考え事をしていたと言っていい。もしも、その時までに何者にもなれていなかったらどうしようかという不安。目の前にいるこの人であれば、きっと何かを成し遂げるだろうという期待。その二つの大きすぎる壁と壁との間に挟まれて、一歩も動けなくなっていた私が、何とか喉を震わせて叫んだ言葉だった。その言葉を、荒野は何の構えもなしに受け取ってくれた。だが、今の私は、この紙コップみたいに。何者かにはなれたはずなのに、時間を無為に過ごしたことで、潰れていってしまった。私は、ただ逃げてただけなんだろうな。猶予期間、なんて言ってみれば聞こえはいいけれど、私はその間にも、何者にもなれず、今を生きているんじゃないか。そう、あの口約束を交わした時に、私には確かに「何者かになりたい」と、そう願っていた。

 その瞬間、目の前がかっと白い光に包まれ、その四秒後にドカーンと轟音が鳴り響いた。今日一大きい雷が、そんなに遠くない場所に落ちていた。私はその雷にいっそ打たれてしまえれば、と考えた。この天災が、あの日の約束から何も変わっちゃいない、私を焼き尽くしてくれれば。私も、「何者か」足りえるんじゃないか。ちょっと考えれば荒唐無稽なことなのだが、私には本気のことに思えた。それくらい、私には荒野に合わせる顔がない。荒野なら、きっと「何者か」になっている。私の方から、「八年間」なんて長すぎる期間を提示しておきながら。私の方が何も変わっていないんじゃあ、面目が立たない。

「次は……です……」

 気付けば、もう新幹線の旅路も半分を迎えていた。この停車駅が時間的にちょうど半分となる。大分長い旅程を来た気がするが、時計を見れば1時間しか経過していなかった。

 基本ずっと動き続ける新幹線の中で、私の体は大概動かない。動かないというよりは、私の自己意識が動けなくさせているというほうが正しい。私は動けないから、唯一動く頭でものを考えてみる。考えれば考えるほど、ネガティブな方向へ私は進んでいく。やっぱり、これは低気圧のせいということにしておきたい。

 そんな禅問答を、私はずっと繰り返してきた。八年前の、何者かになりたかった、情熱パッションに満ち満ちていた私が、今の、その場にうずくまっている私のもとまでやってくると、静かにたちどまって、私の耳元に口を寄せてくる。

「結局、何にもなれなかったあなたは、何なんだろうね?」と、私の弱点を、殴りつけてくる。私自身だから、私の心も、体も、全部知り尽くしているのだから、的確に私にダメージを与えられる場所に攻撃を加えてくる。そのダメージが私の心の闇となって増幅していく。心に落ちた闇は、そう簡単なことでは払えない。

 外の雨が一層激しさを増す。雷も鳴る。雷の落ちるまでの音がどんどんと短くなっていく。それを気にせずに新幹線は走るけれども、窓を打つ音がバタバタと大きく強くなっていく。こんなことなら指定席は通路側を取っておくべきだったかもしれない。

 その瞬間、私の中に一つの考えが、さながら雷のように舞い落ちる。いや、思い出した。荒野が来なければ……全部、一挙に解決するじゃないか。そうだ、何をさっきから諳んじていたんだろうか。それで全部、全部。正直なところ、今日が近づくにつれ、私の禅問答は激しさを増していた。日に日に大きくなる私の内奥の声が、必死に私を攻撃する。私は「生きている今を」と何度も主張するのだけれども、過去の私が、立ち上がろうとする私の足首を必死に掴む。だが、それさえも、全部。荒野が、今日、来さえしなければいい。どうか、忘れていてほしい。むしろ、忘れていてくれた方が、私の心が安らいでくれる。そもそも荒野が私の思い描いたとおりに、「何者か」足りえているのなら、その「何者か」であり続けるために、私なんかに脇目を振らないでいてほしい。私を置いて、一人で走っていってほしい。それが、禅問答ののちにはじき出した、私の結論の一つであった。

 だが、あんまりにも他責主義なことにも気付いている。何が来なければいいなのだろうか。だったら、最初から私が行かなければいい、それだけの話なのだ。そんなことも本当はずっと気づいていた。でも、私は。理性よりも感情に突き動かされて、今この道に、この新幹線に乗っている。なんでだろうか、私はどうしても行かない、という選択肢は選べなかった。月並みだが、「会いたい」と思ってしまったからだろうか。それとも、何かもっと、私にすら説明できない、もっと深い意味があるのかは、私にはわからないけれど。

「次は……終点……終点です……」

こうなったら、いっそ荒野に、全て曝け出すか。この八年間を、「何者」にもなれなかった私を。私は信じている。必ず、荒野は今日、あの場所に来る。もしも来なかったら、なんてことは、今日に至るまで一縷も考えたことはない。さぁ、約束を果たしに行こう。

 やはり駅構内を抜ければ雨だった。それも雷雨だ。とびっきりの雷雨だ。だが、是非に行こうじゃないか。これだけの雷雨だが、傘があるなら行かない理由にはならない。私は見慣れたこの駅からの道を歩き出した。

 

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