第7話 二人だけの仲違い

  一也と和歌子は戦々恐々としていながらも、しっかりとした足取りで二階へと上がった。


 客室が並ぶ廊下で一度立ち止まり、ゴクリと同時に唾を飲み込む。


 そうして二人で覚悟を決めると、あの人物が居る部屋の前へと進んでいく。


「確か、ここ……よね?」

 和歌子は戸に付けられた「205」と木材で象られた数字を凝視しながら小さく呟いた。


「そうっすね」

 与木のおっさんがアレを言う前にあった説明では、そう言ってたっす。と、一也は首肯してから手を扉の方へと進ませる。


「ノック、しますよ?」

「……えぇ」

 和歌子の強張った答えを聞いてから、一也はコンコンと戸を叩いた。

 二人の間に下りる重苦しい沈黙には似合わぬ、軽やかな音が弾ける。


 だが、その音はすぐに虚空へと消えてしまう。

 再び下りる重苦しい沈黙。

「……出ねぇっすね」

 一也がボソリと呟き、沈黙を破る。


「そうね」

 もう一回ノックしてみたら? と、和歌子が恐る恐る提案した。


 一也はそれを聞くや否や、再びコンコンッとノックする。先程よりもやや強く、やや甲高く戸が音を発した。

 だが、それでも戸は頑として開かない。それどころか、内側から飛ばされるはずの声が一向に発せられない。


 一也はキュッと眉根を寄せてから、優しく叩いていた拳をギュッと堅め、ドンドンッと力強く戸を叩いた。

「藤木さーん、ちょっと良いっすかー!」

 藤木さーん! と、彼は向こうに籠もる雄成へ声をかける。


 しかしその声も音も、すぐに虚空へと消え、二人の前には沈黙が押し寄せた。


「おかしいわ」

 和歌子が怪訝に呟く。

「ここには居ないのかしら?」

「うーん、どうでしょ。それはな…あ」

 一也の言葉が不自然に途切れ、不自然な一言が零された。


 和歌子は「どうしたの?」と尋ねようと口を開くが、その前に「和歌子さん」と一也が先んじる。


「鍵かかってねぇっす」

 ほら。と、一也はうっすらと開いた戸を指さした。


 一也によって生まれた隙間に、和歌子は愕然とする。

「開いていた? じゃあ、やっぱりここには居ないって言う事?」

 まさか私達を殺す為に、どこかに隠れているんじゃないの? ! と、頓狂とも言える声音で張り叫ぶ。


 一也は「分からねぇっす」と小さく答えてから、「でも、一応、ここを見てみましょ」と和歌子を宥めた。


「もしかしたら居るかもしれないから」

「そんなの危険だわ!」

 一也の提案に、和歌子は直ぐさま噛みつく。


「美代ちゃんの殺され方を見たでしょう! あんな残虐な事を平然とやってのけるのだから、襲われたらひとたまりもないわ! 危な過ぎるわよ!」

 絶対に行かない方が良いわ! と、息子を叱りつける様に怒声を張り上げた。

 そんな彼女の瞳は、恐怖でわなわなと震えている。怒り心頭ではない事は、明白だった。


 一也は開いた隙間と和歌子を交互に見てから、「じゃあ」と口を開く。

「俺だけちょっと行ってきますよ。ここで襲われたとしても、俺が頑張って食い止めますし、万が一殺られても和歌子さんは逃げる時間があるでしょ。逆に俺が中に居て、一人になった和歌子さんを狙って襲ってきたら、こっちに飛び込んで鍵をかければ安心でしょ」

 一也の宥めに、和歌子から「そ、そうね」と、弱々しい承諾が下りる。


 そうして一也は一人、雄成に割り当てられた客室へ「お邪魔しまーす」と入り込んだ。


 自分に当てられた客室とほぼ同じ作りの部屋、だが、明らかに違う。

「何だ、この匂い」

 部屋に広がり、ズキズキと鼻腔を貫く嫌な匂いに、一也は顔を顰めた。


 その歪みが取れぬまま一也は足を進ませ、「藤木さん、若埜っすけどぉ」と声をかける。

「ちょっと聞きたい事があるんすよ、出て来てくれませんか~?」

 いつもの軽やかな口調で居るのを必死に務めながら、彼は部屋の内へと進んだ。


 だが、進み行ってしまった事を激しく後悔する事になる。

 一也の前に、雄成は現れた。

 しかしながら生者の藤木雄成としてではなく、死者の藤木雄成としてである。


 天蓋付きの高級ベッドの横で、彼は腹ばいで寝転がったままピクリとも動かなかった。

 一部が不自然に陥没していると分かる位の後頭部、そこからは朱殷色となった血が広がっている。床に引かれたオレンジ色のカーペットにまで不気味な色が侵食していたが、すっかりと乾いている事が分かった。

 そしてそんな彼の横に、殺害された時に使われた灰皿が無情に転がっている。


 一也は目の前の殺害現場に呆然とした。「信じられない、本当に藤木さんか?」とも思ったが。屈強な体つきに、露わになっている厳めしいタトゥーが、間違い無く雄成だと思い知らせた。


「一体、いつこんな事に……これ、死んでからかなり時間が経っているのか?」

 クソ、俺、馬鹿だから分かんねぇよ。と、苦々しく独りごちる。


 刹那、バタンッと入り口の戸が閉じる音が弾けた。

 一也はその音にハッとして身を翻す。

 それと同時に、血の気の失せた顔で部屋に飛び込む和歌子がダダダッと駆けてきた。


「か、一也君! 今、音がした気がして、私、慌てて」

 和歌子の訴えが不自然な所で止まる。震えが段々と強くなり、ハァハァと肩が大きく上下し始めた。

 そして進めきた足をゆっくりと後ろへ、後ろへと引き下げていく。


 一也はすぐに理解した。

 またも和歌子が自分を殺人鬼だと断定した事を。


「わっ、わか」

「私は殺してない、となると、残る殺人鬼は貴方じゃないの!」

 一也の言葉を荒々しく遮ると、彼女はバッと身を翻して外へと飛び出した。

「和歌子さん!」

 一也は慌てて立ち上がり、逃げる彼女の背を追う。


 だが、呼び止めに足を止める事も、先程の様に落ち着きを取り戻す事もなく、和歌子はバタンッと自分に当てられた客室「201」へと飛び込んだ。


 ガチャッと冷たく閉ざされた鍵の音が弾ける。

 それから一也の目の前で、その扉が自ら開く事はなかった。

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