第6話 新たな犠牲者
和歌子の瞼がゆっくりと押し上げられる。
和歌子はふわふわのソファからゆっくりと身を起こした。ひやりと肌をなぞる冷気に、ぶるりと身体を震わせてから、手元の腕時計に目を落とす。
最後に見たのが、一時十三分。でも、今は五時四十三分。
いつもよりは全く眠れていないけれど、あんな事があった後でも眠る事が出来たなんて。
和歌子はキュッと唇を真一文字に結んでから、スッと顔を左へ向ける。
すると彼女の眉根がぐにゃりと中央に寄り、皺を刻んだ。
「美代ちゃんは、どこに行ったのかしら?」
お手洗い? と、いつの間にかぽっかりと空いた横のソファに向かって呟いてから、右の方へ顔を向けた。
そこには、連結させた椅子の上で器用に眠る一也の姿がしっかりとある。
一也君は居るのに、美代ちゃんが居ない。きっとお手洗いにでも行っているだけでしょうけれど。あんな事があった後だし、犯人の男と美代ちゃんはかなり言い争っていて恨みも買っていたに違いないから……心配だわ。
和歌子の胸に並々ならぬ不安が渦巻いた。
だが、それをかき消す力も、気にしない力も彼女にはない。
漠然としていながらも、どんどんと大きな渦となっていく不安に、和歌子は耐えきれず、おずおずと一也の方へと足を進めた。
「ね、ねぇ。一也君」
起きて。と、囁きながら、優しく彼の身体を揺する。
寝起きが良いのか、はたまた浅い夢の世界に佇んでいた所だったのか。理由は定かではないが、一也は和歌子の呼びかけにすぐにパチリと目を開け、「どうしたんすか?」とやや掠れた声で答えた。
「美代ちゃんが居ないの」
「えっ!」
彼はガバッと飛び起き、すぐに美代が眠っていたソファへと目を向ける。
そして居ない事を確認すると、「美代ちゃん、あれだけ一人で居るのを怖がっていたのに」と独りごちる様に言った。
和歌子は一也が自分と同じ不安と疑問を持ったと分かると、「やっぱりそうよね?」と震える声で問いかける。
「おかしいわよね?」
「そうっすね、探しに行きましょうか」
二人は広間を出て、一緒に美代を探しに出かける事にした。
捜索範囲が広い屋敷と来ているから、二手に分かれて探した方が早いであろうが。二人は自然と二人一組で動いていた。
「食堂には居ないわね」
やっぱりお手洗いかしら? と、和歌子が首を傾げて言う。
「和歌子さん、見てみてくれます? 俺、前に立ってるんで。何かあったら大声で叫んでください」
「分かったわ」
和歌子は一人女性トイレの方に立ち入り、「美代ちゃーん」とか細く声を張り上げて尋ねた。
そうして一列に並ぶ五個の個室を見てみたが。どの扉も開かれており、どこにも美代の姿はなかった。
和歌子の不安と恐怖が、ぐるりぐるりと大きくうねり始める。
和歌子はいそいそと女性トイレを飛び出し、入り口で待っていた一也と合流した。
「居なかったわ」
小さく首を振って答えると、一也はショックを受けた顔で「マジッすか」と呟く。
だが、すぐに頭を振って、「一階を調べ尽くしましょ」とぎこちない笑顔で答えた。
「ここにはまだバーとか大浴場とか温室プールとかあるんで。そっちに行ってみましょ」
「……でも」
一人で居る事を怖がっていた子が私達に一声もかけず、朝からそんな所に行くかしら?
和歌子は言いかけて辞めた。その代わりに、キュッと結んだ唇をニコリと押し上げ、「そうね」とぎこちなく答えたのだった。
そうして二人は一階を捜し回ったが、彼女の姿はどこにもなかった。
和歌子は「やっぱりおかしいわよ」と、蒼然とした顔で言う。
一也は強張った面持ちでコクリと小さく頷いた……が。「あ」と、一言を漏らした。
「俺達、まだ台所は見てませんよね?」
彼の投げかけに、和歌子も同じく「あ」と零す。
「そうね、そう言えばそうだったわ。でも、そんな所にいるかしら?」
「でも、そこを外すと残るは二階になるでしょ? 俺、美代ちゃんが一人で二階に行くとは考えられねぇんで、あるとしたら残る台所なのかなって思うんすよね」
可能性がある所は全部行きましょうよ。と、一也は力強く訴えた。
和歌子は「そうね」と小さく頷き、一也と並んで食堂に入り、台所へと足を向ける。
雄成と言う恐怖が待ち構える二階を除くと、台所は美代が居る可能性が最も高い場所。
一也は顔を引きつらせる和歌子に「大丈夫、ここに居ますよきっと」と飄々と言って扉を開いた。
すると彼女の目と口が一瞬にしてカッと大きく開かれ、「キャアアアアアッ!」と全てを切り裂く様な甲高い悲鳴が弾ける。
一也も、自身の双眸がハッキリと映す物に目を剥き、呆然と立ち尽くした。
雄成と言う恐怖が待ち構える二階を除くと、台所は美代が居る可能性が最も高い場所と言う彼等の推測は当たっていた。
ただ一つ外れていた事は、彼女がすでに息絶えていた事である。
美代はキッチンの水場の壁に立てかけられる様に座らせられていた。その胸と腹には包丁の柄が不気味に屹立し、悍ましい赤池が座り込む彼女を侵食していた。
がっくりと項垂れ、長い髪がカーテンの様に覆っている。そのせいで顔は見えないが、彼女の目はもう二度と色を映さず、彼女の口からあの可憐な声が発せられる事はないのだと嫌でも分かってしまった。
和歌子はその場で崩れ落ち、グシャグシャと拳で自分の髪を握りしめながら「もう嫌、帰りたい! こんな所、もう嫌よぉぉぉ!」と子供の様な叫びをあげ始める。
一也は和歌子の叫びでハッと我に帰り、「和歌子さん、落ち着いて!」と肩を抱きながら声を張り上げた。
すると和歌子はその手にヒッと怯え、「辞めて!」と金切り声をあげて彼から飛び離れる。
「貴方ね? 貴方が殺したのね? ! だから台所って言ったんでしょう、そうでしょう!」
眼前の言動に、一也は少々呆気に取られたが。すぐに「美代ちゃん殺したのは、俺じゃないっす!」と、恐怖に飲み込まれた和歌子に力強く訴えた。
「俺よりも可能性がある人が、まだ残っているじゃないですか! 美代ちゃんに一番恨みを持っていたのは、藤木さんっすよ!」
殺るとしたらあの人でしょ! と、彼は自身に向けられていた猜疑を一蹴する。
目の前で張り上げられる叫びに、彼女はハッとした。
恐れ戦いていた目がじわじわと緩やかになっていく。
そして「あ、あの、私ってば、すっかり動転して……ごめんなさい、貴方を犯人扱いして」とか細い声で謝罪を紡いだ。
一也は軽やかに口角を上げ「大丈夫っすよ、仕方ねぇっすもん」と、優しく答える。
「和歌子さん、一緒に上に行って、藤木さんに美代ちゃんが殺された事を伝えましょ」
「えっ」
一也からの提案に、和歌子はひどく愕然とする。
「な、何の為に? あの人が殺したに決まっているじゃない、近づくのは危険よ!」
「そう思うっすけど、今度こそあの人が殺したって言う証拠を手に入れるんすよ」
「証拠?」
「えぇ、あれだけの血が出ているんすから。きっと返り血を多く浴びているはずでしょ。って事は、籠もっている部屋に、美代ちゃんを殺した時の証拠が残っているかもしれないって事っすよ」
それが動かぬ証拠になる。と、一也はきっぱりと告げる。
「言葉よりも動かぬ証拠って奴で、俺達はこれから藤木さんだけに注意出来る。俺も和歌子さんも、安心して徒党を組めるでしょ」
「成程。それは、確かにそうね」
私達がお互いに疑心暗鬼になるのは良くないものね。と、和歌子はコクコクと首を縦に振りながら言った。
和歌子からの同意を得た一也はニコリと口角をあげる。
「ミステリー小説みたいに頭の切れる探偵とか警察は居ないし、追い詰められた犯人が大人しくなるとかもないんでね。自分達で出来る防御は全てやっておきましょ」
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