好きだった音楽が嫌いになった訳

二月三十日

第1話

 声楽の師事を仰いでいる和子先生は悲痛な声を上げて、息を吐きながら私に言った。

「もう、帰って」

 失敗した。

 話すべきでなかった。

 いや、話さないといけない事であった。

 バレてしまった事は先生にも言わなければならない。

 慌てて外に飛び出して母に迎えの車の連絡を入れた。

 

 中学の頃、変声期で高音が出なくなって大泣きした。

 歌う事が好きで、それしか道がないと、私にはその武器しないと決めていた。

 無理もない、勉学はできず、音楽だけしかないと崖っぷちに居たからだ。

 叔母に相談すればいい人がいると言って和子先生を紹介してくれた。

 和子先生は私に才能があると言ってくれた人だ。

 それがビジネスだと知らなかった。

声楽を初めて、先生の指導と私の相性は良かった。

 引っ込み思案な私は言われた通り歌う。

 先生のしたい指導に付き従った。

 右を向けと言えば右を向く性格の私に適した先生だった。

 週一のレッスンが楽しくて、新しい歌も覚え歌うのが楽しくて仕方ない時期だった。

 そして、私は音楽専攻がある高校に受験して声楽を専攻していた。

 音楽専門の生徒は合唱とオーケストラ部に入らないといけないと指導があった。

 学校生活が始まれば部活中心。 

 学業が疎かになる程、忙しかった。

 平日はどちらかの部活があって、終わるのは六時半。

 土日は朝九時から昼まで合唱、夕方五時までオーケストラ部で合奏。

 声楽専攻でも副専攻がありピアノも弾かなければならない。

 声楽の復習も、ピアノを弾く時間も、学業に費やす時間もないほど疲れ果てていた。

 一年は忙しいだけで済んだが、問題が起こったのは二年生の時。

 和子先生のライバルである千恵先生が高校で教える先生になったからだ。

 先生というより大学生の様な考えを持つ先生だった。

 千恵先生のレッスンの始まる時、開口一番はいつも決まっている。

「和子先生のところへ行ってきたの?」

 そこから先生達の腹の探り合い。

 向こうで何を教わったの?

 向こうはなんて言ってきたの?

 そんな話を聞きながらレッスンを繰り返す。

 千恵先生とは相性が悪い。

 はっきりした言葉は恐ろしく、どんなに先生が友達の様に話し合いましょうとそんな雰囲気でいても、先生は先生だし友達じゃないからと思いながら、和子先生の弱点を見つけようとする千恵先生が恐ろしく感じた。

 私の中で、千恵先生と分かり合えないと思った事件があった。

 学期末のテストはピアノの演奏と歌を歌う事。

 歌を歌うには伴奏が必要だ。

 まだ始まってばかりの二学期で誰に頼もうか頭を悩ませた。

 ピアノが弾ける同級生が必要だ。

 人見知りの私がようやく頼んだ同級生は、別の所でバレーボールのチームに入っていた。

 それぞれ好きな事をやればいいと思っていた私だったがそれが問題になるとはその時思いもしなかった。

 その子が骨折した。

 テスト時までに治ると同級生は笑って答えてくれた。

 なら、いいかと千恵先生には言わず日々を過ごした。

 同級生の骨折は治りが早く、歌と伴奏の合わせの前にはすでに治っており、その事を忘れて、伴奏の合わせの時が来た。

 合わせ始まると同級生は骨折していたから、弾けないと千恵先生に謝る。

 すると、私が叱られた。

「貴方は友達の怪我の事をどうして伝えなかったの? 同じクラスメイトの友達でしょう? 信じられない」

 先生は私の事を何も知らなかった。

 引っ込み思案で友達がいない。

 なのに、和子先生の事を気にして私の事を聞き出そうとしている。

 私を知ろうとしない。

 嫌悪感が溢れ、千恵先生が嫌いになった。

 そしてそんな時、和子先生は千恵先生に教えてもらいなさいと言った。

 無理もない、コンクールの成績は最下位、あがり症な私はビジネスとしてもいらない子と三行半を叩き付けられた。

 それでも私の下で指導してもらいたいならと先生は秘密で来なさいと言った。

 学校のレッスンで千恵先生に和子先生の所に行ってないと言えば喜んでいた。

 それでも千恵先生は「和子先生のところに行ってないの?」と聞いてくる。

 私は答えを変えただけだ。

『行っている』から、『行っていない』と。

 千恵先生のレッスンに秘密にしてきた和子先生のレッスンは三年の最後の時にバレてしまう。

 二人の指導の仕方が違ったからだ。

 和子先生は深みがある歌い方を指導して、千恵先生は高音を生かした指導をしていた。

 だから、千恵先生にバレてしまった。

 そして、その事を和子先生に告げた。

 和子先生は自己の保身に走る。

 独り言でどうすればいい。なんで言えばいい。

 そして、和子先生は私に帰れと言った。

 その後の事は、淡々とした記憶で残っている。

 千恵先生は大袈裟に私の生徒になったと嬉しげな顔を浮かべる。

 体裁、プライド、先生達のいざこざに巻き込まれた私は歌が嫌いになった。

 

 灰色の学生時代が過ぎ、いい年になった私は今でもこの事を思い出すと胸が苦しくなる。

 でも、やっぱり歌う事は好きだ。

 誰にも邪魔されず、カラオケで好きな歌を歌って楽しんでいる。

 歌う事の喜びを他人に奪う権利はない。

 長い年月を重ねて、漸く気がついた。

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好きだった音楽が嫌いになった訳 二月三十日 @nisanzyu

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