第16話
バカンス
バンが部屋を出てすぐ、ジェフに会った。大きなスーツケースを抱えて、階段を降りていた。
「アメリカに帰るよ」
ジェフはそう言った。
「ひどい女だった」
私が何も訊かなくても、ジェフは話してくれた。どうもマリリンは宗教にはまっていたらしく、ジェフを何度もその集会に連れて行き、多額のお布施もさせていたらしい。さすがにこれ以上は出せない、と言うと、さっさと修行に入ると言って、忽然と姿を消した、という。夜の仕事も辞めたようだった。
マリリンがこの汚いマンションにいた理由はお布施のためだった。相当な金額をつぎ込んでいたに違いない。私は驚いて言葉がでない。
「日本の女は怖い」と何度も繰り返した。
さすがにジェフに同情した。目の奥が少しも笑っていなかった理由も何だか分った気がする。
「マリエ、Good bye」とスーツケースを抱えて階段を下りていくジェフの後ろ姿を眺めていた。
私はジェフを階段の踊り場で見送り、自分だけが残されたような孤独感を感じた。建物の出口が明るく光って見える。結局、私は三月までそこにいたけれど、隣も空き部屋のままで、私も部屋を出た。
その後、しばらく小沢君と付き合っていたけれど、結局、上手くいかなかった。楽しいデートを何度か繰り返した後、春に入ってきた新入社員の女の子に取られた。可愛くて、守ってあげたいタイプの子だったから、頼られて断れないこともあったのだろう。
「麻里江さん…あの」
「ううん。いいの。私…やりたいこともあって」
同じ会社に居ずらくなった私は会社を辞めた。小沢君が深く傷つかなくてよかったと私はこっそり思った。楽しいデートをしているのに、私はずっとバンのことを考えていたからだ。連絡先はもらっていたけれど、何もしなかった。
私はあのマンションを出た後、一人で暮らしている叔母の家で一緒に暮らすことにした。叔母は自宅で洋裁教室をしていた。最初はただそれを見ていたが、布が洋服になっているのが不思議だった。
小沢君に振られて、少し落ち込んでいると、叔母が仕事を手伝って欲しいと言ってきた。何もできない私は会計や生徒名簿管理、教室の掃除などの雑用、ご飯作りまでが仕事だ。作業を見ている内に少しずつ興味が湧いてきたので、私も習うことを決めた。ふとバンが上手にドレスを作っていたことや、手編みセーターをプレゼントしてくれたことを思い出し、ようやく手紙で、洋裁を習う、と書いて送ると、かなり驚いたような返事が届いた。
だからもっと驚かそうと、熱を上げて洋裁を習い、三年後に都内のウェディングドレスの店に就職した。物を作る仕事は楽しくて、無理なく定年まで勤められそうだ、と思った。二年後にチーフデザイナーのアシスタントになった頃、叔母に見合いを勧められ、その人と結婚することを決めた。私は多分、変わったのだろう、と思う。
バンに手紙を送ることもなくなっていた。
でも会いたい気持ちはずっとあった。どんな姿になっていても、私はバンが好きだったから。仕事の生地を仕入れに行くついでに、結婚の報告と、会いに行くと、書いて手紙を送ると、待ち合わせ場所を指定した葉書が届いた。
「二時にベンチャリシ公園で」
そして少年によって、バンからの手紙が届けられた。白い壁にヤモリが窓枠を伝うよに上っている。どこかのブランドのロゴにそっくりだった。
「I’m traveling」と書いてある表札を指でなぞる。
ブザーを鳴らすと、出て来たのはさっきの少年と同じ顔をした二十代後半の男性だった。
「バン…」と私が呟くと、男の人は私をじっと見た。
「ヒ イズ オン バカンス」
「バカンス? どこ? うぇあ?」
首を横に振られる。
私は自分が喋れる英語とボディランゲージを駆使して、何とかバンの友人であること、お土産を持ってきたと伝える。場所が分かれば、そこまで行って、お土産を渡してもいい。少しだけでいいから、喋りたい。私があれから頑張ったことを伝えたかった。バンが異国の地で頑張っていると思っていたからこそ、頑張れた。だからありがとうと伝えたかった。
伝わらなくて、苦しくて
「会いたいの」と日本語で訴えた。
彼は私を黙って見つめると、息を吐いた。
「カムイン」
癖のある英語で部屋に招き入れられる。不思議と不安はなかった。
外の日差しとは違い薄暗い部屋だった。天井の扇風機の音がきゅうきゅうと鳴る。
バカンス――。
部屋に置かれた家具の上にバンが赤い衣装で大舞台に上がっている姿の写真があった。私はそれを見て、思わず胸が熱くなる。
夢を叶えたんだ、と声を出したかった。
バカンス――。
窓から日差しが差し込むそこだけは明るかった。
「マリー」
その聞き覚えのある声に耳を傾け、目をむけた。日の当たる窓際に置かれたベッドの上で上半身だけ起こしていた。
「…バン」
微笑む笑顔は、優しい眼差しは変わってない。
でも一目でわかるほど、痩せていた。髪も綺麗になくなっている。
「マリー。…来てくれてありがとう。…それから結婚おめでとう」
少しずつバンに近づく。あんなに会いたいと思っていたのに、今、彼に掛ける言葉が見つからない。
「バンも…夢を叶えて」
「うん。嬉しかった。一番…マリーに見て欲しかった」
「写真、見ていい?」
私は棚の上の写真を手にする。
「綺麗」と写真に向かって言う。
「マリー。私…幸せよ。恋人もいて…」
棚に写真を戻した。
あの迎え入れてくれた人が男の人が恋人なのだろう。
「優しそうな人で、良かった」と私はバンに言う。
「そう…。幸せ」と言って、疲れたのか壁に体をもたせかける。
バンの側にゆっくり歩いて行った。優しいバンの彼が、私のためにベッドの横に小さなプラスチックの椅子を置いてくれる。それから、恋人はバンの額にキスをして、部屋を出て行った。
「大舞台、立ててん。本当に。見せてあげたかった」
「うん。見たかったなぁ」
バンは微かに笑う。
「なぁ、この部屋、なんとなくあのボロマンションと似てへん? 見つけたときは嬉しかった。あそこにいる気がして。あんな大きな穴はないけど」
「私も思った。また同じとこ住んでって」と微笑む。
「あの…色男と結婚するん?」
「あの色男?」
「ほら、ベッドインにお邪魔した」
「あー。違う違う。あの子は後輩と…付き合って。結婚する人は叔母の紹介。私、ウエディングドレス作ってて…。今は独立を考えてるところ。百貨店のポップアップとか…出させてもらって。あの…バンと一緒に盛り上がったレトロな女優スタイルをイメージして作ってる」と私はスマホを出して、バンに見せた。
「素敵ー。わー、オーダーしたいわぁ。どれくらいで作ってくれるん?」
「今、結構注文入ってて…。自分の結婚式もあるからオーダー受けてなくて。待ってくれる人に半年かなぁ」と私は言う。
「そっか…」
「バンになら…作ろうか」
「駄目よ。横入りみたいなことできへん。マリーは自分のお客さんを大切にして…」
「でも…バンのおかげで私は頑張ってこれたから」
「それに…バカンスに行くから」
「え?」
「もう本当に遠くに行くから」
「遠くって…」
「約束守れんくてごめん」
私は目を大きく開けて涙を堪えるので精いっぱいだった。
「で…も…待ってるから。ゆっくり、マリーはゆっくりおいで」
細い枯れ木のような腕で私の頭を撫でようとする。
「バン、疲れたでしょ? 横になって」
「そう…させてもらう」と言って、ゆっくりと体を横たえた。
目を閉じて「マリーに会えて、良かった」と言う。
「私も」
口だけで微笑んだ。
「ありがとう」
あぁ、私はたくさん話したいことがあった。ジェフとマリリンのこと、私の失恋や、転職後の快進撃も…。でもそんなこともうどうでもよくなる。
目を瞑ってバンは眠ってしまった。私は少し怖くなって顔を近づける。規則正しい寝息が聞こえる。
私は上半身を寄り添うようにベッドに乗せて、いつまでも寝息を数えた。この部屋の窓にはイモリはいない。春のような柔らかい日差しが十二月のバンコクに注いでいる。私はずっとそうしてきたかのように、バンに寄り添った。
バンからもらった白い封筒の送り名に一言「バン:大崎武志 バカンスに行ってきます」と書かれている
目を閉じる。
バンはどこに行くのかな。
きっと南の海だろう。青い海が広がった。耳を傾けると、その緩やかな波の音はバンの呼吸と重った。
~終わり~
琥珀糖休日 かにりよ @caniliyo
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