第15話
約束
クリスマスの夜が更けていく。綺麗なイルミネーションも大きなツリーも浮かれた音楽も私たちには関係ない。古いマンションの一室で、向かい合って、床に座って、私たちはもう二十分は膠着している。
「マリー、あんたはいい子やけど…」と宙に浮かんだバンの手を私は掴んだ。
慰めようとしてくれた手をぎゅっと握る。
「でも…ごめん。やっぱりできへん」
「うん。分かってる」と言いながら手を離せなかった。
「ごめん」
「ううん。分かってたから」
「マリーのことは好きやで。かわいいとも思うし。でもそういう対象じゃないねん」
何度聞いても、変わらなかった。心は受け入れられても、体で拒絶される。手を離した。篠塚さんに振られた時と全然違う。
心から欲しいと思った人は絶対手に入らない。
「もし私と結婚しても、他に恋人作っていいって言ったら? そしたら? 私のこと好きじゃなくても、遊んでくれてもいいから側にいてって言ったら?」
もう絶対に受け入れてもらえないのを分かっていて言い放つ。
「マリー。自分のこと粗末にしたらあかん」
「違う。違う。一緒に居たいだけ」
「一緒にいて楽しかったなぁ。でもマリーはうちがぬるま湯やったからやん。傷つけあうこともなくて…お互い…楽で。愛とかじゃないんちゃう」
バンの顔を見る。鼻筋の通った意思の強そうな顔立ち。
「…バン。バンにとって私はぬるま湯だった?」
哀しそうに眉根を寄せて笑った。
「いい湯やったで。あははん」と冗談を言う。
こんな時に冗談なんて、と私はバンを睨んだ。
「うちに妹がおってさ。いつも助けてくれてて。でも…妹に彼氏ができてん。そん時に…彼氏の前やからかなぁ。『もう嫌や』って言われたんやけど…。それが堪えて」と
バンが言う。
「え?」
「マリーと同じ年…の子やけど。それ以来、一度も連絡取ってへん。元気かなぁ」
「…妹の代わり?」
「そうかも知れへんね」
哀しさが溢れ出す。バンがわざとそう言ったのも分かってたけれど、涙が零れた。
「一人に…して」
「プレゼント…ほんまに嬉しかってんよ。…ケーキ食べてな」
「うん」
食べたくもないケーキを私はどうすることもできなかった。
「鍵、閉めなあかんよ」
立ち上がるバンに
「ケーキ…半分持っていって。お皿ごとでいいから」と言う。
ため息とともにお皿が持ち上がった。
「ごめん」
何に対して謝られているのだろう。謝られて、こんなに悲しいことがあるんだ、と唇を噛む。
ドアの閉まる音がした。私は大声で泣きたかった。でも泣けなくて、お風呂場に行った。お湯を張りながら、その音で、私の鳴き声を消した。貧血が起きそうだった。部屋の床にはまだケーキが置かれたままだ。
年末、小沢君は実家に帰っていった。小沢君とは二回デートしたし、小沢君のマンションにも行った。バンの話が出てこないから、私は何も言わないまま、やることもした。相川らず「よくできました」という気持ちになるのが不思議だったけど。
「お正月は実家に帰るけれど…、麻里江さんは?」
「えっと、私は今年は帰らないつもりなの」
「えー、じゃあ、早くこっち戻って来ようかな。一緒に初詣行こう」
「うん。でもゆっくりしておいでよ。せっかくだし」と私は言う。
「淋しいなぁ」と小沢君が頬を膨らませた。
そう言う顔を見ていると可愛いなと思う。
「麻里江さんを独占できた?」
「え?」
「時々、遠く感じるから」
ごまかすように腕を小沢君の首に巻き付けた。
「ごめん。まだ少し…辛くて」
前の失恋経験のせいにする。
「あ、ごめん。こっちこそ。焦ってない。焦らない」と小沢君は自分に言い聞かせていた。
「大好き」
なぜかそう言う言葉を小沢君に言ってしまう。小沢君の安心した顔を見て、私が安心したかった。愛人にならないか、と言った篠塚さんと同じことをしている気がして背中がぞっとする。
私も実家に帰ってくるように言われたけれど、今年は部屋に残ることに決めた。バンが来年、早々にバンコクに行くことを決めたからだ。全身整形し、バンコクのナイトクラブで働くらしい。
「今度、マリーに会うときは、オードリーになってるで。楽しみにしといてな」
明るく、そう言うから、私も明るく頷いた。
あの日からまるで何もなかったように接してくれているバンと一緒にいれる時間は僅かしか残されていなかった。
「お正月は一緒に過ごそう」
私がそう言うと、驚いたような顔を見せた。
「実家に帰らへんの?」
「うん。今年くらいは」
たった一生に一度だけ、許されるなら好きな人と一緒に正月を迎えたい。それは多分、とてつもなく幸せな時間だ、と思うから。
「うちは仕事、大晦日まであるから…。カウントダウンとかできへんで」
「うん。いいよ。でも年が明けて、一番最初にバンの顔を見れるんでしょう?」
「マリーはそうなるけど…」
「もう、そんなに複雑な顔しないの。好きな人に同情されるほど、辛いことないんだから」
バンはそれでもすまなさそうに笑った。どこまでも優しい人だ、と思う。私たちはそうして、別れていく時間を過ごすことにした。数えてみれば、たったの三ヶ月という短い時間だった。十二月最終の日曜日は二人で軽い大掃除をした。古い部屋なので、どれだけ掃除しても綺麗にならない。でも埃くらいは拭きとりたい。一人で一部屋を掃除するよりは、二人で二部屋掃除した方が楽だった。バンの部屋はすでに荷物が片付いている。衣装は大分、友達にあげたと言っていた。
「あんな、ここの穴、塞いだ方がええんとちゃうかなぁ」
「うん」
バンが自転車でホームセンターまで出かけ、補修材を買ってきてくれた。
冬の夕方はすぐに陽が落ちる。黄色い光が窓から流れ込んでいる。私は押し入れに入り、バンは自分の部屋から壁を塗ることにした。穴を小さくしていくが、二十センチの大きさは一度では埋まりそうになかった。
「今日中に埋めようと思ったら、芯がいるなぁ」
「割り箸でいい?」
「やってみよう」
割り箸を四本、塗ったばかりのセメントに刺す。でもあまり上手くはいかない。
「やっぱり時間をかけて、塗っていった方がいいかも」
「そうやね。ちょっと乾かそう」
割り箸越しに見えるバンの横顔を私は胸の奥に記憶しようとした。いつまでも消えない記憶があればいいのに。私の頭はそんなに上等ではない。
「おばあさんになったら、バンはどうしてるかなぁ?」
「どうしてるやろう? 一人かなぁ。それともまだ踊ってるかなぁ」
「もし一人やったら、一緒になろう。一生懸命働いて、お金溜めて、いつかバンコクに迎えに行くから。女の姿でもいいから。タイの田舎で一緒に暮らそう」
「そうやなぁ。老後はマリーとのんびり暮らすのもいいなぁ。かわいいおばあちゃん二人組みやな」
「本当に?」
「うん。それも楽しそうやん」
「本当に結婚してくれる?」
「いいよ。その代わり、たっぷり働いといてや。大きな家に住もう」
「じゃあ、定年まで働いて、それで退職金もらって、行くから。待っててくれる?」
「うん。ゆっくりおいで。うちは逃げへんから」
ふいに優しく笑う。
「でもいい人に会えたら、結婚し。うちよりいい人はたくさんいてる。それに人は変わるから。あんまり今の気持ちばかりを大切にしてても、あかんよ」
「うん。他の人と結婚することになったら、ちゃんと報告しにいく。でももし本当に売れ残ったら、本当にバンと一緒にいてもいい?」としつこく聞いてしまう。
「そんときは責任とるで」
叶わない願いであっても、それは約束だった。
いつかは分からない。ずっと先の未来で、二人が再会するための言葉は例え叶わなくても今の私を救ってくれる。例え、それがバンの優しい嘘であっても、私の希望だった。
(この先ずっと会えなくても、いつかおばあちゃんになった時、私はきっと思い出すから)
「泣いたらあかんよ。ちゃんと人生を歩いて、その先にうちがおるねんから」
私は指でセメントが乾いたのを確かめて、更に、上にセメントを塗った。セメントの入ったバケツに涙が落ちる。私が知らないふりで涙入りセメントを塗ると、バンが向こう側で、表面を綺麗に整えてくれる。
日が暮れて、部屋が暗くなるまで、穴を埋めた。
そしてお正月には、穴は綺麗にふさがっていた。
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