第2話
女子力高い男子
八月の最終日曜日で、街は人でごった返している。私は入居前に部屋でバルサンをたいておこうと、薬局に立寄った。あの古さではほぼ間違いなく害虫が潜んでいるに違いない。荷物を運ぶ前に、処理していた方が効果的だ。
買って来て部屋に入ると、冷房を入れていなかったので、部屋は蒸されている。部屋についてあるクーラーは時代もので、恐ろしいほど電気代を食うに違いない。私は素早く準備をした。窓を閉めて、トイレや浴室の戸を開け、ふすまも開いた。準備が整うと、私はスイッチを入れ慌てて部屋から出た。最近のバルサンは煙が出ないので、扉に注意書きを貼らなくてもいい。私は駅まで歩こうとした。
隅々までバルサンが行き渡ることを想像して、ふと、押し入れに二十センチの穴が開いていたことを思い出す。慌てて踵を返し、私は踵の高いサンダルで来た道を戻った。ヒールで高音を響かせて、ぼろぼろの階段をかけあがる。
私は必死で隣の人のドアを叩いた。しばらくして、ブザーがあるのに、気付き、ブザーも鳴らした。何度鳴らしても、出てこない。もしかして、と嫌な予感がよぎったとき、ドアが開いた。
「何? オーガニック食品はいらんけど?」
関西訛りで話す、痩せた髪の長い男が出て来た。それがバンだった。明らかに寝ていたと分かる格好だった。
「すいません。隣に引越してくる小嶋真利江と申しますが、害虫駆除をするので、しばらく部屋を空けてくれませんか」
「勝手にしたらいいじゃない」
「でも押し入れに穴が…薬剤入ると思うです」
「いつから?」
「今からです。もうバルサンをたいてしまってるんです…」
「何で、早く言ってくれへんのー」
一気にそう言うと、男は慌てて部屋に戻り、ジーパンとティーシャツを手にして、玄関先で着替えた。私が見ているのも気にならなかったらしい。勝手に目に入って来る上半身はしっかり鍛えられていて、胸板も厚く、シックスパックもしっかりあった。
「この近くに喫茶店か何かありますか? ご迷惑をおかけしたので、何かおごります」
「当然やわ」と言って、バンは扉を閉めた。
長い髪はぼさぼさで、バンはそれを手櫛で整え、後ろで一つにゴムでくくりながら、階段を降りていった。出口が近づくと、明るい光が差し込んでくる。表に出ると、夏の日差しが視力を奪った。急に立ち止まったバンの背中にぶつかる。目を擦っているのだろうか。見上げた瞬間、私は自分の目を疑った。慌てていたので、気付かなかったが、バンの顔はよれた化粧が残っていた。
「昨日は遅かったから、ちゃんと化粧が落とせんかった」と言って、道端でつけ睫毛を外している。
道行く人は気づいていないのか、知らない顔で通りすぎていく。化粧はそんなに濃くはないが、アイシャドウが微かに残っていて、ラメが光っている。私は鞄からウエットティッシュを取り出し、バンに渡した。
「ありがとう」
至って、普通に受け取るので、私は驚くタイミングを逃してしまった。
「まだ疲れてるわぁ。夜中からショーが二回もあって、酔った勢いでおやじとチークダンス…」
ウエットティッシュで丁寧に顔を拭いながら、呟く。私に言っているのか、独り言なのか分かりにくい。
「あそこに見える喫茶店に行きたいんやけど」
向かいの通りに面した喫茶店はイギリス風の店構えで、女性客が多そうだった。
「私、簡単に言えば、性同一性障害で、恋愛対象は男性」
ジーパンとティーシャツを身につけた今のバンは男にしか見えない。美形だからか長い髪の毛も似合っている。
「ドラッグクイーンって言えば格好いいけど、おかまバーのダンサー。趣味と実益が兼ねられてるから」
「いいですね」
私は曖昧に頷いたが、バンは突然、笑い出した。
「そんなこと言ったん、あんたが初めて! 名前は何やったっけ?」
「小嶋です。小嶋真利江」
「マリー。よろしく。うちは武志。で、『たけし』はバンブーってことで、お店ではバンブーから取って、みんなはバンって呼んでんの。マリーも特別にバンって呼んでええよ」と許可を与えるように言った。
「じゃあ、竹林の竹ですか?」と言うと、一瞬、動きを止めた後、バンは大笑いをした。
「そこ気にする人、初めてや。マリーは変わってんな。漢字は武士の
私はどう反応していいか分からなくて、黙っていた。信号を待つ間も容赦ない陽射しに溶けそうになる。
「でも何であんなアパートに越してこようと思ったわけ?」
信号が青に変わった。歩きながら適当な理由を探す。
「安かったから」
突っ込むこともなく、バンは素直に頷いた。
「そうよねぇ」
その返事に相槌を打ちながら、店の前に着くと、ためらいもなくドアを開けた。店内は予想どおり、可愛らしい内装だった。窓辺にはテディベアが置かれている。その横にアリスの中に出てくる陶器のハンプティダンプティが、お茶を注いでいる置物がある。私が隅々まで眺めていると、バンは私の腕を取って、その窓際の席に進んでいった。外は太陽がさんさんと光りを落としている。明るい道路が見える一等席だった。
「ここから外が見えるけど、まるで夢の国から外界を眺めるような気分になれるのよねぇ。テディベアちゃんもかわいいし」とにっこり笑う。
私より女子力高い笑顔だった。
着席したバンはローズティとローストビーフのサンドイッチを注文していた。そして笑顔で私にメニューを差し出す。
「お勧めはやっぱり、熱々のシナモンアップルパイにバニラアイスが乗ってるやつ。ぜひマリーにご賞味頂きたい」とうっとりした顔を見せる。
選択肢はなさそうで、私は頷いた。
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