第1話
遠くの空
ふうわりと温かい空気が肩や髪を撫でた。
優しい風が吹く。
十二月だというのにバンコクは暖かい。私は公園のベンチに腰かけて、「バン」こと、
バンコクは世界の大都市で外国人も多いし、さまざまな人種に対しても寛大だ。バンが一度も日本に帰ってこないのも分かるような気がする。
ベンチャシリ公園で待ち合わせしている。久しぶりに会うことに緊張している。ベンチで腰かけて私は約束の時間少し超えるまで我慢した。
軽い土を踏む音がする。足音がするだけで振り返ってしまう。もう何回も振り向いているのに、また違う人だ。陽に焼けた細い少年だった。
「マリー?」
「え? 私?」
私は
「マリー?」と名前だけを繰り返す。
私が頷くと、少年は手紙を差し出す。
差出人には「バン:大崎武志」と書かれている。ただそれだけで懐かしさがこみ上げてきた。手紙を渡してくれた男の子に五十バーツを渡して、私は必死に住所を聞く。でも英語が通じないみたいで、私はスマホの翻訳機能で聞いた。彼は住所を口頭で告げるが、さっぱり分からない。
慌ててバッグからスケジュール帳取り出して、住所を書いてもらう。何とかバンの住所を手に入れて、私は手紙を開けた。たった一枚の手紙と、色鮮やかなタイのキャンディが詰められている。
「マリー。元気?
バンコクに仕事で来るなんて恰好いいね。久しぶりに泣き虫マリーに会いたかったけど…。ごめんね。
バカンスに行くことになったの。恋人と。ほんと、マリーと天秤にかけて、恋人取っちゃった。
許して。一生の恋だから。分かるでしょ? お互い上手くいかなかったから。
じゃあ、気を付けてバンコクを楽しんでね。愛を込めて。バンより」
私は手紙を読んで、思わず吹き出してしまった。
「折角日本から来たのに、男を取る? 普通」と独り言を思わず言ってしまう。
でもそれもバンらしい、と私は思った。
甘そうなキャンディを一つ口に入れると、折角買った土産を持って、立ち上がる。私はバンの近所の人にでも預けようと思ったのだ。
タクシーにさっき教えてもらった住所を見せる。運転手は黙って、運転を始めた。お互い言葉が分からないのだから、仕方がない。バンコクは大都会で、道は車で渋滞している。少しも動かないタクシーの窓から近代的な高層ビルを眺める。でも南国らしく、植木がジャングルのように元気に背を伸ばしていた。
歩いた方が早い気がするほどの渋滞をのろのろ進み、ようやく小道に入る。小道にはいるとさっきのビルとは違って、少し年代を感じるコンクリートの建物が続いた。電線もたくさん通っている。歩道には屋台が並んでいた。帰り道が分からなくなるほど、角を曲がって、タクシーは停車した。料金を払って、私は降りる。そしてスケジュール帳の番地を探して歩く。
青緑色のペンキで外壁を塗られた古い四階建てくらいのアパートにたどり着いた。
「よほど古い建物に好かれてる」
私はそう思って、一人で微笑んだ。
向かいは食堂兼、何でも屋さんの様だった。私は建物の中に勝手に中に入って、郵便受けを探す。それぞれネームプレートが出ているが、一つだけI’m traveling.と書かれた表札があった。それがバンの部屋だった。
三〇一と書かれている。
その古い建物の内部の階段を上がりながら、懐かしいバンの笑顔を思い出した。建物の中は昼間というのに、窓があっても隣の建物と接近しすぎているのか、中は薄暗い。それでも共用廊下にはいろんなものが置かれている。三輪車や、植物、ゴミ箱。多分、他の人はお化け屋敷だ、と言うだろう。いろいろ懐かしさを感じた。
古くて汚いそういう建物に、私も大崎武志も住んでいた。
初めて私がそのアパートを見つけたとき、内心は分かっていたけれど、落胆した。保証金が六万円という破格の値段で、外壁は綺麗に赤茶色のペンキで塗られていたが、内廊下の内部は薄暗く、階段の壁紙は剥がれ、廊下の天井は配線が剥き出しになっている。紹介した不動産屋の人も、女性の方にお勧め物件とは言えないんですけどねぇ、と呟きながら鍵を取り出した。
畳は黄ばんだままで、多分、張り替えをすることもないまま入居するんだろう、と思った。柱は何故か紫色に塗られている。ふすまを開けると、押し入れの壁は同じ色のペンキで、カオスと大きく落書きされていた。でもそれより気になったのは、押し入れの壁に大きな穴が空いていて、隣の部屋が見えることだ。大きな穴は直径二十センチくらいで、覗き穴にしては十分過ぎる大きさだった。不動産屋はその穴を見て見ぬ振りをして、風呂場や、トイレを見せた。トイレは当然、和式だった。
「でも、セパレートだからいいかも」
私は無理やり、この部屋のよいところを探そうとしていた。
「そうですねぇ。あぁ、でもシャワーはついてないですよ。お風呂はお湯を湯船に張るタイプですし…」
不動産屋が慌てて、欠点を挙げていく。しかし私には気にならなかった。小さいながらも独立したキッチンがついている。
「いいです。ここにします」
「そうですか? 水周りとか、結構、あれですけどねぇ…」
錆びた水道口を指差しながら、不動産屋は最終的な判断を私にゆだねた。
「ここがいいんです。あ、でもこの柱は違う色のペンキで塗りなおせますよね?」
「え? えぇ、あまり派手な色でなければ、構いませんが…と言っても、これ以上、派手な色の方が少ないですね」
私は思わず笑い出してしまった。
「では小嶋様、事務所で必要事項を書いて頂きたいんですけど」
そう言って、早く立ち去りたいのか、不動産屋はすでに部屋の扉を開けていた。私は慌てて後に続いた。会社帰りに立寄った不動産屋なので、外を出ると陽が落ち、もう真っ暗だった。向いの弁当屋の灯りが切なく見えた。
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