第3話
納豆チャーハン
バンと私は隣同士とはいえ、平日はライフスタイルが完全に違うので、顔を合わせることは少なかった。私がぐっすり眠っている頃にバンは店で踊り、私が会社に出る頃、バンは家に帰って眠りについた。
だから押し入れの奥の壁の二十センチの穴は閉じる必要もなかった。
日曜日の午前中は一週間分の洗濯物をコインランドリーに持っていく。乾燥機でふかふかに乾いた洗濯物を抱え、暗い階段を上がる。
「マリー、おはよう」
上からバンの声が聞こえた。今、起きたばかりのように目を擦っている。
「おはよう。起きた?」
私は洗いたての洗濯物が汚れた壁につかないように必死だった。
「ここベランダがないから、コインランドリーはいい考えやわ」
「バンはどうしてんの?」
「私? 下着は手洗いして風呂場に干しとく。それ以外はクリーニングかなぁ」
「え? ティーシャツも?」
「うん。洗ってくれるで」
「勿体無いなぁ」
「それでお金が溜まらんのやわ」
そろそろ腕が痺れてきた。一週間分の洗濯物は結構、重い。もう一段階段を上がったとき、ふっと荷物が軽くなった。
「持ったる」
バンは私の下着も入っている洗濯物を軽々と肩に乗せて階段を上がっていく。部屋の前に着くと、タイミングよくバンのお腹が鳴った。
「お腹空いたわぁ」
「分かりました。ご飯、作ってあげるよ」と言ったものの、冷蔵庫にろくなものがなかったことを思い出した。
冷蔵庫を覗き込むと、卵が一つと納豆のパックが二つあるだけだ。
「納豆、食べれる?」
「納豆? 食べたことないわ」
「体にいいし、おいしいよ」
「でも臭いんやろう?」
私の後ろに立っていた背の高いバンは見下ろすように立ち、そしてなぜか目が優しく笑っていた。
「なぁ、マリー、納豆だけ出されても、それは料理じゃないで」
ひきつり笑いを浮かべながら、私はバンをキッチンから追い出し、ベッドの上に座らせた。冷凍庫に保存してあったお米を取り出す。
「マリー、女の子やのに、こんなシンプルな部屋なんてつまらんわぁ。せっかくやから、ピンクにぱぁっと飾りつけしたらええやん」
「シンプルな部屋で申し訳ございません。飾り付けする余裕なんて…」
「ふうん。グッチの鞄が三つもあんのに?」
「何で知ってるの?」
私は驚いて、温めたフライパンに冷凍されたままのご飯を投げ入れてから、首だけを寝室に出した。
「だって押し入れの穴から見えるんだもん。グッチの箱が三つ。あれ、男からもらったん?」
確かに私は押し入れにグッチの箱を積み上げていた。使う気になれない鞄は箱から滅多に出てこない。
「違うわよ。全部、自分で買ったの」と嘘を吐いた。
「へぇ! それでこんな所に住んでんの?」
「そうよ」
「じゃあ、せっかくだからパーティーでも行けば?」
「どこにあるのよ、パーティーなんて見たことないわよ」
冷凍ご飯を菜箸で突付く。フライパンの上でも固く凍って少しも崩れない。
「お見合いパーティーとか」
聞こえるように呟いているが、私は聞こえないふりをした。フライパンから煙が出ているが、ご飯の固まりは一向に解けようとはしない。菜箸も刺さってしまったままで、抜くのに一苦労する。電子レンジがないのが問題なのだ。いつもは自分の分は前日に冷蔵の方に移動させておくからすぐにチャーハンが作れる。
「好きな人はおらんの?」
「いません」
菜箸をまたご飯に突き刺したら、ご飯が割れて、小さい方のかけらがフライパンから飛び出して床に落ちる。ため息をつきながら、それを拾い上げて、ゴミ箱に入れた。
「バンはいるの?」
油が跳ねて、腕に飛んだ。熱い。
「うん。いい男だけど」
「だけど?」
「ノンケなの!」
何故か嬉しそうに笑い出した。
「うまくいかないんやけどねぇ。でもそれが楽しい!」
私はようやくほぐれてきたご飯に中華スープの粉末を振りかけた。
「簡単な恋より楽しいでしょ?」
いつの間にかバンはまた私の後ろに立って、そう笑う。振り返って、すぐに私はフライパンに向かって呟いた。
「そうかな?」
「そうよ。充実感が違うやん?」
「でもどんなに頑張っても手に入らない恋は?」
「そんな切なさがまたいいんやんか! 頑張んなさい」
不覚にも泣いてしまった私の肩をバンが優しく抱いてくれた。
「昨日はちょっと仕事が早く終わったんよ」
昨日、私が明け方近くまで泣いていたことを知っているようだった。二十センチの穴は思いのほか大きくて、クッションを口に当てて押し殺した鳴き声も聞こえていたようだった。
「どんな恋か分からんけど、女の子が恋で泣いたらあかん。恋をして綺麗にならんとね。せっかく女に生まれたんやから」
「バンは強いね」
「そうやな。うちは生まれたときから不公平やから、それがもう当たり前なんかも。ほら、はよご飯作ってや」
どうしようもなくこびりついたお米に後からサラダ油を足す。最後に納豆を入れて、添えつけの出汁も振りかけた。
「納豆チャーハン」
「うわぁ、匂いが温められて、よけい鮮烈やん!」
そう言いながらも、勝手に大皿を取り出している。私は掌で涙を拭いながら、大皿に納豆チャーハンをよそった。
「おいしいわ。葱があったらもっとおいしいのになぁ」と言いながら、大口で食べていく。
ただ熱いだけの、調味料で味付けされた少し焦げた納豆チャーハンは決して素晴らしい出来ではないけど、なぜか美味しく感じられる。
窓から入る秋の陽が、狭い部屋にまで注いでいる。黄色い光はバンの輪郭を揺らした。二人とも何も喋らないまま、黙々と口を動かし続けた。
その日以来、日曜の午後はバンと一緒に過ごすようになったが、ご飯を作るのはバンの方だった。バンは器用にサンドイッチや、パスタ、シチュー、ハンバーグ、八宝菜なんかを作ってくれて、それがまた美味しいから私の週一の楽しみになった。
バンの恋もなかなかうまく行かないみたいで、本当に毎週、毎週、日曜日は一緒だった。
何度も私はごちそうさまと言った。繰り返されるごちそうさまが永遠に続くことを願いながら。
でもいつか終わることを二人とも分かっていた。
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