第4話 森の中へ



 シュウヤは家を抜け出した。

 ルリオの屋敷へと向かう為だ。両親は仕事でいない。見咎められることはなかった。

 数日ぶりの太陽を浴びながら、シュウヤはまず、幼い頃に住んでいた団地へと向かった。

 屋敷までの具体的な道順を憶えているわけではない。

 幼い頃のぼんやりとした記憶の中にしかないのだ。

 団地で近所の子供たちと遊んでいて、いつのまにか、ということだから、今、住んでいる家から探すよりは、一度団地に向かい、そこから探したほうが、とシュウヤは考えたのだった。

 シュウヤはバスに乗り、団地へ向かった。

 古ぼけたワンマンバスには客は一人も乗っていない。

 シュウヤは窓から見える代わり映えのない風景をぼんやりと眺めていた。

 しばらくすると薄汚れた四角い建物の塊が見えた。シュウヤが住んでいた団地だ。

 降車を知らせるブザーを鳴らし、シュウヤは団地近くの停留所で降りた。

 このあたりに来るのは、十数年ぶりだった。引っ越してから一度も来ていない。

 幼い頃は圧し掛かるように巨大な建物に見えた団地だったが、今はひどくみすぼらしく、吹けば飛んで行ってしまうハリボテに見えた。

 団地の前には猫の額ほどの広さの小さな公園があった。

 ブランコと滑り台と砂場がある。天気の良い昼下がりなのに、人の姿はなかった。

 団地からも人の気配はない。だが駐車場には何台か車が止められている。駐輪場にも真新しい自転車が数台見えた。

 おそらく住んでいる人々の数が、当時と比べ激減しているだけなのだろう。あのころは、朝から晩まで、子供の嬌声が止むことはなく、子供たちを見守る大人の姿が常にあったことを憶えている。

 シュウヤは団地に背を向ける。

 ここがスタート地点だ。幼い頃のか細い記憶を頼りに歩きはじめた。

 自分の記憶を信じるのであれば、この団地から何度も屋敷に通っていたことになる。いくら遠いといっても幼い子供が歩いて通える距離なのだ。大人の体を持った自分が歩いてたどり着けないはずがない。

 とりあえず、方向を見据えてシュウヤは歩きはじめた。

 しばらく歩くと建造物が減り、道が細くなり、道の両側は畑や牧草地しか見えなくなった。ひどく見通しが良いのだが、それらしき大きな屋敷の姿などどこにも見当たらない。

 ふらふらと足取りがおぼつかなくなった。

 シュウヤは数日間、家から一歩もでていない。空を見上げると一番高いところに太陽が見える。雲一つない青空だった。直射日光が容赦なく照りつける。

 細く長い道は一直線にどこまでも伸びていた。

 どれほど歩いても西洋風の大きな屋敷など見えてこない。

 頭がガンガンする。

 シュウヤは激しく後悔していた。

 団地にさえたどり着けばあとは何とかなるだろう、と簡単に考えていたのだ。

 日除けの帽子も持っていない。

 少し寒気もする。日射病にでもかかったのかもしれない。

 シュウヤは道路に膝をついた。


 いったい自分は何をやっているのだろうか──。

 

 まったく違う方向へ歩いてきてしまったのかもしれない──。

 おそらくそうなのだろう。子供の足で、いくらさまよい歩いたといっても、これほどまでの距離を歩けるはずがない。ましてやほぼ毎日、通うことなど絶対に不可能だ。

 それとも──町の人間の言うことが正しく、あの屋敷も、そしてルリオの存在も、自分が創り出した幻影だったのだろうか──。

 シュウヤはしばらくの間、目を瞑り、そして両手で顔を覆った。

 ほどなくして立ち上がる。また歩きはじめた。

 それを認めるわけにはいかない──。

屋敷もルリオも必ず存在するのだ。

シュウヤは自分を信じて歩き続けた。

 すれ違う人はいない。何度かトラクターには追い抜かされた。

 何度かあてずっぽうで方向を変えて歩いたが、やはり長閑な田園風景が広がるばかりで目的の屋敷など視界の片隅にも入らなかった。

 道路にはシュウヤの長い影が伸びる。

もう太陽は沈もうとしていた。

 それでもシュウヤは歩き続けていた。

 ほどなくしてあたりは闇に包まれた。もはやシュウヤには、自分が今、どのあたりにいるのかもわからない。

 振り返ると遠くに町灯りが見えた。

 そこに自分の居場所はない。あの町には帰る場所などないのだ。

 町の人間たちには自分の見えているモノが見えないのだ。

 反対に、町の人間たちに見えているモノが自分にだけは、見えないのかもしれない。

 陽が暮れてもシュウヤは歩き続けた。もはや、田や畑や牧草地も消え、細い道路の両側は背の高い鬱蒼とした木々で埋め尽くされていた。

 木々の間、奥深くから動物の遠吠えが聞こえた。野犬でもいるのだろうか──。

 シュウヤはそこで立ち止まった。今歩いている道路を逸れて、森の中へと進む一本道をみつけたのだ。

 もうスタート地点の団地からどれほど離れているのだろうか──。

 こんな森の奥深くに屋敷などあるはずがないことは、シュウヤにもよくわかっていた。

 だが、木々の間からわずかに漏れる、灯りが見えたのだ。

 明滅する仄かな灯り──。

 シュウヤは気が付くとその灯りに誘われるようにして、森の中へと延びる小さな一本道を歩きはじめていた。

 歩きはじめると灯りは無くなっていた。

 だが歩みを止めることはできなかった。

 月が出ていた。満月だった。

 月明かりだけを頼りに、シュウヤは森の中を歩き続けた。

 陽が落ちたからだろうか──。不思議と頭痛は消え、足取りは軽くなっていた。

 自分の息づかいと足音、そして風に枝葉が触れ合うカサカサという音だけがシュウヤの耳に届いていた。

 シュウヤは足を止めて背後を振り返った。

 地面が多少露出した程度の頼りない一本道──月明かりがあるとはいえ入口に戻れる確証などない。

 だがシュウヤに恐怖心はなかった。それどころか生まれて初めて、なにものからも解放された気分になった。

 どれほどの距離かはわからないが、もうあの町からは遠く離れている。自分を見張る人間たちの目もない。

 シュウヤはふと思った。あの町のすべてが幻影であり、屋敷だけが真実であると──。

 自分はもともと屋敷の人間であったが、わけあって飛び出したのだ。

 そこからずっと幻影に塗れて生きてきた──。ありもしない町を作り出し、存在するはずのない両親や友人を作り出した──。なかなか現実に気づかない自分の目を覚まさせるために、ルリオは現れたのだ。

 自分の生きる場所はあの屋敷なのだ。屋敷にたどり着けないのであれば、森を抜け出て町へ帰ることができたとしてもまるで意味がない。

 そうなるくらいならこの森の木々や草花に見守られながら、力尽きる方を自分は選ぶに違いない。

 シュウヤは休むことなく歩き続けた。もう半日以上も歩いている。足はひどく痛み、膝は悲鳴をあげていた。露出している両腕と顔と首が痛痒い。シュウヤの周りを絶えず羽虫が飛んでいた。おそらく虫に刺されたのだろう。息が乱れる。空腹と共に、ひどく喉が渇いた。思えば家を出てから何も口にしていない。

 足がもつれて、転んだ。なんとか手をつき、痛みはそれほどなかったが、立ち上がる気力もなく、そのまま体を地面に預けるようにして倒れこんだ。

 頬に、かたい土の感触があった。ひんやりとして気持ちが良い。

 体力は限界だった。

このまま森に抱かれたまま力尽きるのも良いかもしれない。

屋敷にたどり着けないのは残念だが、もう体が動かない──。

すると不意に、足の痛みや、虫刺されの痛痒さが忽然と消えた。空腹も、ひどい喉の渇きも感じなくなった。

 代わりにシュウヤは猛烈な眠気に襲われていた。体がぽかぽかと温かい。

 シュウヤは抗うことなく、眠気に身を任せた。

 

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