第3話 ルリオ
当時の事故はテレビのニュースにも流れ、新聞にも載り、町でも大きな話題となった。
そのこと自体は記憶に残っていた。だがその事故を起こした当事者であるキョウイチと、シュウヤ自身が関係していた、という記憶だけは、なぜかすっぽり抜け落ちてしまっていたのだ。
亡くなったキョウイチはとんでもない資産家だった。正確にいうとキョウイチの父親が東京の財政会にも顔が効き、複数のグループ企業を束ねるほどの大富豪だったのだ。
キョウイチはその大富豪の息子だった。どういう経緯かはわからないがこの小さな町に、その大富豪が屋敷を建てて、キョウイチを住まわせた。この町の主たる企業の元を辿ると、そのほとんどがキョウイチの父親が所有する企業へとたどり着くのだった。
だからキョウイチはこの町の実質的な大地主だった。いい大人が毎日のように昼間から子供たちと遊び呆けていられたのは、こういう理由があったからだ。
事故の後、屋敷の人々がどうなったのか、シュウヤは知らなかった。
一家の中で唯一、事故から免れたルリオは、一人で、あの大きな屋敷に今でも住み続けているのだろうか──。使用人のトキヨと娘のトウコはどうなったのか──。
「シュウヤ、ひさしぶりだね。元気だったかい?」
町民図書館の小さな自習室。そこでシュウヤとルリオは十数年ぶりに対峙していた。
ルリオは、あきらかにルリオのノートを盗み見ていたシュウヤを咎める素振りもみせず、まるで毎日会っているクラスメイトのような気安さで話しかけてきた。
「あ、ああ……ひさしぶり……」
この状況はごまかしようがない。シュウヤは言葉を返すだけで精一杯だった。
「小説を書いてるんだ……」
ルリオは少しの間をおいて言った。
「小説……」
シュウヤは何と返してよいかわからず鸚鵡返しに、そう言った。
「ああ。ミステリー小説を書いてる」
シュウヤはルリオの子供時分のことしか知らない。本が好きだったかどうかも思い出せない。シュウヤ自身は人並みに本を読むが、ミステリー小説などほとんど読んだことがなかった。
「実はフウカが小説家を目指している。だから、今、僕はその手伝いをしているんだ」
ルリオは不思議なことを言った。
フウカはあの事故で亡くなっているのだ。
「怪訝に思うのも無理ないな。シュウヤにしたら、あの幼いときのお転婆なフウカのイメージしかないんだろ? あのときを境にフウカも変わったよ。今じゃ物静かな文学少女さ……」
いったいこれはどういうことなのだろうか──。
シュウヤは、この自習室だけ、日常とは切り離された異空間にあるような感覚にとらわれた。十数年ぶりにルリオが姿を現したかと思うと、同じく十数年前に死んだはずの人間の話を、あたかも生きているかのように話し出したのだ。
足が震えだした。
シュウヤはそれをルリオに悟られぬように、ゆっくり椅子に座った。
「フウカは、君も知っての通り、もう外に出ることは叶わない。その原因をつくったのは僕でもあるから、僕の人生のすべてを捧げてでもフウカの夢は叶えてあげたいんだ」
「フウカは……家の中でずっと小説を書いているのかい……?」
ルリオはずっと今まで、フウカの幻影を前にして生きてきたのだろうか──。
一度に三人もの家族を亡くし、一人ぼっちになってしまったのだ。精神に変調をきたし幻影を見るくらいは仕方ないのかもしれない。シュウヤはルリオがひどく不憫に思い、話を合わせた。
「ああ……本当に毎日、必死に書いてるんだ……。フウカはもう、社会に出ることは叶わいない、と理解している。だけど自分が生きていることを証明したいんだ。小説家になって、作品を世に出すことが、唯一の存在証明だと考えている……」
「小説家になれそうなのかい……?」
質問に対して、ルリオは目をつぶり、首を左右に振った。
「残念だけど今のままじゃ正直かなり厳しい……何度も小説の新人賞に応募しているんだ。けれど一次通過もしないのが現状だ……これだけ結果が出ないから、フウカも自分には才能がないのでは、と思いはじめてしまっている……。だけど僕は絶対にあきらめさせたくない。小説家になることだけが、フウカにとって唯一の希望なんだ。これが無くなってしまったら、生きる希望をも無くしてしまう。そうなればフウカは人生をあきらめ、半ば廃人のように、ただ生き続けるしかなくなってしまうに違いない……」
ルリオの言葉は熱を帯びていた。やはりルリオの中にはフウカが生きているのだ。
「だから……ルリオが代わりに小説のことを勉強しているのかい……?」
シュウヤはテーブルの上に置かれたノートを、ちらりと一瞬見て、言った。
「僕は必死に考えたんだ。フウカの目的を叶えるにはどうしたらよいのか……」
これは自分の問いに対しての答えなのだろうか──。シュウヤは理解できず、ルリオの次の言葉を待つしかなかった。
「やはり小説家になるには才能が必要だ。そういう意味では残念ながらフウカには、小説家になるための才能はない。だけど僕は、フウカの書く小説を褒めた。フウカなら絶対に小説家になれる、と言い続けた。フウカは自尊心が高い。彼女の才能を否定してしまえば、それならば、と簡単にそれを放棄してしまうことは容易に想像できる。同時に生きる意味を失う。そうなればフウカは死を選ぶ。フウカは僕の言葉を信じて、小説を書き続けていた。だけど僕のフウカに対する言葉は徐々に効力を失いはじめた。簡単だ。フウカが小説の新人賞に投稿をはじめたからだ。結果が自ずと自分の才能の無さを証明してくれる。すでに十数回、新人賞に応募しているが、一度たりとも一次選考すら通過したことはない。さすがのフウカも自分の才能の無さに気づいてしまう。それでも僕は必死に擁護した。落ちたのはフウカのせいじゃない、と。審査をする人間のレベルが低すぎてフウカの作品の凄さがわからないんだ、と言葉を尽くした……。だけどすぐにわかった。聞いて頷きはしているけど、フウカはすでに自信を失っているってことに。僕は早急に手を打たなければならなかった……」
ルリオはそこで一度言葉を切り、シュウヤを見据えた。
「シュウヤ、君ならどうする? フウカの自尊心を傷つけず、結果を出させるにはどうしたらよいと思う?」
「君が、フウカに内緒で、小説を書いたのか?」
ノートに小説を書いているのだ。それくらいは容易に想像がついた。
「半分当たりってところかな……僕にしても残念ながら小説を書く才能などない。そもそもありもしない世界を頭の中だけで構築する、という創造力がまるっきり自分にはないことに気づいたんだ。フウカの書こうとしているミステリー小説というやつは、私小説やノンフィクションと違って、物語世界のすべてを一から作らなければならないからね……僕は途方にくれた……」
ルリオはまるで何かに憑りつかれたかのように話し続けていた。陽は完全に落ちて、自習室に灯りが点る。しかし天井に配置された昼白色の電球は何本か間引きされていて、それにより室内は、薄暗い不気味な空間をつくりだしていた。
シュウヤは、ルリオが実は、本当は自分自身がおかしくなっていることを認識していて、そんな自分に対して皮肉を言っているのではないかと真剣に思いはじめていた。
存在しない人間に対して、ここまで細かな物語を構築しているのだ。創造力がないだなんて皮肉以外の何物でもない。
「でも実際、ノートに小説を書いているんじゃないのかい……?」
シュウヤはそういった考えを顔に出さないように注意しながら質問を発した。
「うん。そうだ。僕は実際に小説を書いている。言ったとおりゼロから物語を構築することはできないけど、何か基盤となるような物語世界があれば、その世界を流用して新たな小説を書くことができることに気づいたんだ。フウカの作品を読んでいてここを改善すれば面白くなるのに、と思えることが多々あった。だから一度、フウカには内緒で、フウカが書いた作品を元にして、僕なりに考えて作品を書き、ミステリーの、とある新人賞に送ってみた。するとその作品が一次選考を通過したんだ。タイトルとペンネームはフウカが考えたものを変えずに出した。僕はフウカに言ってやった。言ったとおりだろ、とやっぱりおまえは才能があるんだぞって。フウカはようやく自信を取り戻してくれたよ。それからフウカは以前にまして精力的に作品を書いている。僕もその作品を元にして、同じように作品を書いているんだ」
シュウヤは混乱していた。これはどう考えればよいのだろうか──。
ショックのあまりそこに存在しない人間が見える、というのは聞いたことはあるが、そのいないはずの人間が書いた小説までもが見える、ということに驚いたのだ。
それでもシュウヤはルリオに対して、もうフウカはいないなどとは言えなかった。
話を合わせて質問することしかできなかった。
「受賞できそうなのかい?」
そういうとルリオは嬉しそうに笑った。
「もう一歩なんだ。だけど近いうちにフウカの夢を叶えられると僕は信じている。
「そうか……応援しているよ……」
シュウヤは通り一遍の言葉を返すことしかできなかった。
そのとき、にこやかだったルリオの表情が、一瞬、変化したように見えた。無表情になり、シュウヤを見ていたその視線が細く、より鋭くなり、まるで頭の中を抉られるように感じられたのだった。
「今日は、もうそろそろ帰るよ。」
気づくとルリオはテーブルにあったノートをバッグにしまい立ち上がっていた。
今のルリオの表情は──気のせいだったのだろうか──。
「ああ……それじゃあ。また……」
シュウヤの返事に対して手を振って立ち去るルリオの表情はすでに元の穏やかなそれに戻っていた。
シュウヤは一人残された自習室で放心状態にあった。
自習室は死んだような静けさに包まれていた。
ルリオとの再開は思いがけない出来事だった。そしてずっと欠落していた記憶が戻ったのだ。幼いころ自分があの屋敷で遊んでいたこと。それにまつわる人々のことも思い出した。そして事故のことも──。その事故でルリオは三人の肉親を一度に亡くしている。フウカも亡くなっている──。
本当にそうだろうか──。自分の取り戻した記憶が誤っている、ということはないだろうか──。死んだ人間のことをあそこまでリアルに語り、その死んだ人間の書いた存在しない小説までもが見えるなんてことがありえるだろうか──。
シュウヤは立ち上がった。自習室を出る。相変わらず利用者の姿は見えない。カウンターの司書はあくびをしていた。
シュウヤは素知らぬ顔でカウンターを通り過ぎ、書架室の隅にある新聞閲覧コーナーへ向かった。ここで過去の新聞を調べればあの事故が本当に起こったものかどうかはっきりする。
事故当時、記事が新聞に載ったというのは、シュウヤの記憶の中でしかない。
実際に確認する必要があった。
小さな田舎町で三人もの人間が事故で亡くなったのだ。新聞に載らないわけがない。
閲覧コーナーには小さな棚が三つあり、そこに縮刷版と書かれた新聞の分厚い冊子が数冊並べられていた。だが見てみると掲載されているであろう地方新聞の縮刷版は過去五年分しか置かれていない。落胆していると壁に貼られた貼り紙の文字が目に入った。
【過去五年以前のものは書庫に保管されております。必要な方は係員にお申し付けください】
シュウヤはカウンターへ向かった。あくびを噛み殺している中年司書にその旨を伝えた。
司書は面倒臭そうにゆっくり立ち上がるとカウンターの奥にあるドアの中へと消えた。
数分後、何冊か分厚い冊子を持って現れた。シュウヤは礼を言って、それを受け取り閲覧コーナーへと戻る。
備え付けられた長テーブルの上に冊子を置き、記憶の年代を元に、十数年前の地方新聞の記事を一つ一つ確認していった。具体的な日時は憶えていない。
記憶だけを頼りにして、目的の記事を探すのはひどく困難な作業だった。
それでもシュウヤは根気強くページをめくり続けた。
残念ながら借りてきた新聞の冊子の中には目的の記事は見つからなかった。
記憶の中からおそらく、という年代の冊子を借りてきたはずだった。
年代が間違っていたのだろうか──。
それとも取り戻したと思っていた記憶そのものがあやまっていたということか──。
本当は事故など起きていなかった。フウカはあの屋敷の中で生きており、小説家を目指して毎日、執筆に励んでいる──。
狂っているのはルリオではなく自分──。
一瞬にして世界が変わってしまった。
そう──ルリオが十数年ぶりにシュウヤの目の前に現れたあの瞬間から──。
それまでのシュウヤは実体の見えない不安におののきながらも、とくに何事もなく、この町を出るための準備を着々と進めていたのだ。
見えない不安の中心にあるもの。それはあの屋敷で起こった出来事が理由なのは間違いない。取り戻したと思っていた記憶が間違っている──だとしたら、その偽りの記憶はどこからもたらされたのであろうか──。いったい自分は何者なのか──。
不安の大波が一度に押し寄せ、シュウヤの心は散り散りになりそうだった。
顔を上げて古びた掛け時計を見た。閉館までまだ一時間以上ある。
シュウヤは今一度立ち上がり、カウンターへ向かった。確認の終わった新聞冊子を渡し、代わりに、一つ年数をずらし同じ数だけ新聞冊子を借りた。もはやあからさまに向けられる司書の迷惑そうな表情は、気にもならなかった。
閲覧コーナーに戻り、圧し掛かる不安を跳ね除けるようにしてシュウヤは必死に記事を探した。
閉館十分前を告げるチャイムが鳴った。
だめか──と思ったところでページを捲る手が止まった。
それは一家三人が、初秋の時期、うっすら雪の積もる峠道を曲がりきれず、ガードレールを突っ切り、谷底に落ち、全員が死亡する、という内容の記事だった。死亡した人間の名前も載っていた。ルリオの両親である、キョウイチとエレナ、そしてフウカの名前があった。
間違いない。やはりあの事故は実際に起こっていたのだ。
地元の名士が亡くなったからか、意外にもその記事は一面に載り、大きな見出しが出ていた。
中年司書が立ち上がりうろうろしている。あからさまに迷惑そうな視線を送っていることにシュウヤは気づいていた。時計をみると閉館三分前だった。
急いで立ち上がり、新聞冊子を司書に返した。自習室へと戻り、荷物を持って図書館を出る。
まだ午後六時だったが、外は真っ暗だった。夜風が染みた。通りには広い間隔でぽつぽつと外灯があり、ぼんやりとした光を放っている。通りには人も車も見えない。
事故は起きていた。
自分の記憶に間違いはなかった。
シュウヤは暗い通りを歩きながら新聞記事の内容を思い返していた。
やはり狂っていたのはルリオだったのだ。
それでもシュウヤの記憶は一部分が欠落したままだった。
屋敷の離れで寂しげなトウコの背中を見た直後から、事故が起こるまで──。
いったい自分は何をしていたのであろうか──。
気づくといつもは決して通ることのない、遠くに屋敷の見える一本道を歩いていた。
シュウヤは立ち止まり、屋敷があるはずの方向に目を向けた。遠くに建物の灯りはいくつか見えるが、それが屋敷のものであるかはわからなかった。
シュウヤはまた歩きはじめた。あまり遅くなると母親がうるさい。
シュウヤの住む家は団地ではなくなっていった。父親が一軒家を建てたのだった。
思えば団地から一軒家に移り住んだのは、事故が起こったすぐあとだった。
それまで喧嘩ばかりしていた両親の仲もそれを機に良くなった。
忘れよう──。
すべて忘れようと思った。
残り一年の我慢なのだ。気にならないといえば嘘になるが、今さら十数年前のすでに終わった出来事を調べても仕方がない。
事実、記憶が戻らなければ調べようがない。
いや──方法が一つだけあった。ルリオに聞けばいいのだ。
記憶が欠落している間も、ルリオは自分の姿を見ていたはずである。
そのとき、自分が何をしていたのかを、ただ聞けばいいのだ。
あの図書館に、いままでと同じように通っていれば、また姿を現すかもしれない。
ルリオは狂っていて、過去の記憶まで混濁している可能性もあるが、確認してみる価値はあるはずだ。
だけど──今さら自分はそれを知ってどうしようというのだろう──。
過去の自分と決着をつけて、格好良くこの地を去りたいとでも思っているのだろうか──。
結局、家に着き、ベッドに入っても答えはでなかった。
真実を知りたいと思う気持ち、反対にそこに触れてはならない、忘れてしまいたい、という相反する思いが混濁する中、一睡もできずシュウヤは朝を迎えた。
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