49
八月七日、私たちは待ち合わせた川和澄駅で電車に乗った。そういえば、あの町から引っ越したのとちょうど同じ日だなと、窓の外を眺めながらぼんやり思った。あれから一度も朝灯町には戻っていない。田舎町をよく思っていなかったお母さんに朝灯町へ帰りたいとは言い出せず、結局、葵ちゃんのお葬式にも行けなかった。母の許しを得ず遠出することができないほど、十二歳の私は既に気が弱く真面目な子だった。
三回乗り換えて、最後の在来線の切符を買う。朝灯町と外を結ぶ電車は二時間に一本、多くても二本しか出ない。お昼の十二時過ぎに朝灯駅に着いて、駅員さんに切符を手渡してホームを出た。ヨダカはバッグから取り出したカメラを首から提げた。
駅の周囲の雑木林では八月の蝉がわんわんと鳴き喚き、頭上の青空には雲一つない。駅からまっすぐ伸びる道はアスファルトでなく、茶色い地面が続いている。閑散とした町の出入口には人っ子一人姿は見えず、野良猫が一匹だけ道を横切ってすぐに雑木林に消えていった。
ヨダカの提案で、予め前の駅で買っておいたパンを食べることにした。駅舎に戻り、二脚が向かい合った木製の長椅子に並んで座る。壁の掲示板には、電車の時刻表や、夏祭りの開催を知らせるポスターがぺたぺた貼ってあった。
硬くて美味しいベーコンエピを食べ終えて、ペットボトルの水を飲む。一足早く食べ終えていたヨダカは、さっきからちらちらと駅舎内の時計を気にしている。早くも帰りの電車を意識しているのだろうか。
「どうしたの、さっきから時計……」
を見て、という続きの言葉は私の喉の中で消えた。
スニーカーの足音と共に駅舎に入ってきた彼は、暑そうにタオルで額の汗を拭っている。あまりに見慣れたその姿は、私を見てぎょっと立ち止まった。
「……なんでいるの」
つい間抜けた言葉を呟くと、柊哉も珍しく驚いた顔で瞬きをした。
「……なにしてんだよ」
似た台詞を発した私たちを見て、ヨダカが可笑しそうに声をあげて笑った。私が振り返ると、彼は立ち上がり柊哉の隣りに立つ。
「大きくなったなあ。すげえ、俺とっくに抜かされてたんだ」
部活で重宝される柊哉の体格はヨダカの身長を超えていた。シャツから伸びる腕は健康的に日焼けして、しなやかな筋肉がついている。
「モテるだろ、柊哉」
にやにやする彼を見て、柊哉はぽかんと開いた口で「……はるくん?」と呟いた。
「おー、よく分かったな」
「ここにいるってことと、カメラで、なんとなく……。え、もしかして、一緒にいるってことは、はるくんがヨダカ? てか、はるくんて、神隠しで……」
「ちょっと待って、なんで柊哉がここにいるの?」
私も立ち上がって忙しく二人を交互に見た。混乱する私たちにヨダカがまたけらけらと笑い、柊哉の困った目が私に向いて、私も困惑の目を彼に返す。全てを知っていそうなヨダカが、やっと笑い終わって説明を始めた。
「ツーエルで、柊哉から連絡があったんだ。YuIってアカウントの弟だけど、姉が厄介になってませんかって。あの、彼氏と別れて唯依が俺のとこに転がり込んできたあたりかな」
「おい、言うなよ!」
「え、え? 柊哉が?」
焦る柊哉をまあまあと窘めて、ヨダカが続けた。ここまで来れば秘密にもできないと察したのか、柊哉は渋々口を閉ざした。
「そんでフォローし合って、時々やりとりしてたよ。柊哉は唯依のこと心配してたんだ。ちゃんとバイトに行ってるのかとか、生活できてるのかとか。だからその度、心配いらないって返事を送ってたんだ」
確かに、家で荷物をまとめた時、ヨダカというフォロワーの元で世話になっているとは言った。柊哉はあれから自力でヨダカのアカウントを探しだして接触を試みたことになる。
「だってこいつ、自分からじゃろくに連絡してこねえし……」
照れ隠しに指をさしてくるけど、今の私には腹も立たなかった。ただ柊哉が私を気にかけて行動していた事実に驚いていた。
「じゃあ、今日待ち合わせてたってわけ?」
「違うっつーの、だから驚いたんだ」
「ごめんごめん、柊哉。俺、おまえの投稿遡ったんだ」
全く悪びれず笑った顔のまま、ヨダカがネタばらしをする。
「八月七日にアップされてる写真に見覚えがあったんだ。すぐに朝灯町の風景だってわかったよ。そんで、柊哉が毎年同じ日に朝灯町に来てるってことを知ったんだ。投稿自体が少ないから、すぐに遡れたよ」
「柊哉、そんなことしてたの」
「うるさいな、俺だってたまには帰省したいんだよ。でも、もし母さんにバレたらあれこれ言われるじゃん」
「投稿時刻や写真を見ると、昼過ぎより早い時間だって分かった。遅くなる前に帰って、家族に怪しまれないようにしてたんだろな。朝灯町を出る路線なんて一本しかないから、電車の発車時刻を計ってここで待ってりゃまず会えると思ったんだ」
すらすらと説明を終えて、ヨダカはベンチに座り直した。柊哉が渋々といった顔でその向かいに座ったので、私も元の席に着く。
「なんでそんなことしたの」
じとりと私が睨むと、「だって」とヨダカは当然の顔をした。
「こうでもしないと、おまえら永遠にすれ違い続けるだろ。どっちも意地っ張りなんだから、自分から会いたいなんて言えないと思って」
「私、そんなの」
「会いたいとかねえし」
計らず声がそろって、柊哉と目を合わせた。気まずく逸らす様子を見て、ほら、とばかりにヨダカが得意な顔をする。素直じゃないんだからとその目が語っている。
ここは姉である私が大人にならないといけない。ふうっとわざと大きく息を吐いて気持ちを落ち着けた。
「……ありがと、柊哉」
「別に、恩売るつもりじゃねえよ」
またこいつは。私の眉間に皺が寄る。憎まれ口に反発しかけたのを察して、柊哉が気まずそうに呟いた。
「……一度、言っときたかったんだ」
「言っとくって、何を」
「試合。応援に来てくれてありがとうって」
しあい、と口にした私の頭に、一年前のことがよみがえった。
「中三の最後の試合、応援に来てただろ」
「柊哉、気付いてたの」
彼の中学最後のハンドボールの試合に、私はこっそり応援に行った。場所と日程は、実家のカレンダーに大きく書かれていたから知っていた。汗を散らしてコートを駆け回る弟の姿に、私は大いに感動した。応援する保護者や仲間の声に混じって、母の声も聞こえた。決して仲が良いとは言えなくとも、同じ家で育った実の弟に変わりない。小さかった弟が必死に戦っている姿を見て、ぎゅっと両手を握っていた。相手チームに囲まれた時は、私が飛び込んで蹴散らしてやりたくなった。だからしっかり足を踏ん張らないといけなかった。がんばれ、がんばれ。口の中で呪文のように呟いていた言葉は、ゴール前で彼がボールを受け取った時、腹の底からの声援に変わった。
「柊哉! がんばれー!」
声援であり、祈りでもあった。その瞬間、柊哉はゴールを決めた。ボールはキーパーの脇をすり抜けて、ゴールネットを揺らした。私は思わず飛び上がって悲鳴のような歓声を上げた。
近くの仲間と抱き合ったりハイタッチを交わす柊哉と目が合った、気がした。すぐに彼は目線を逸らし、次の動きに備えるためコートを走る。大勢の観客の中にいる私一人になど、気付いていないと思っていた。保護者達のグループにいる母はともかく、試合の存在さえも知らないはずの私を見つけられるわけがないと信じていた。それからは一度も目は合わなかったし、私も大声はあげなかった。両手を組んでひたすら祈っていた。
あの時、柊哉は私の姿を見つけていたという。それどころか声援さえ耳に届いていたのだと。
「まさか、姉ちゃんが来てくれるとは思わなかった。……結局負けたから、来てただろとは言い辛かったんだ」
柊哉は目を伏せて、私も視線を下に向けた。弟の汚れたスニーカーは、私のものより随分大きい。頑張り屋で優しくて、ハンドボールの得意な男の子。そうだ、私はずっと彼に甘えてばかりいた。
「ううん。こっちこそ、気付いてくれてありがとう。絶対、私の姿も声も届いてないと思ってた」
腰を上げて、柊哉の隣りに座り直す。ぱしぱしと背中を叩いて、ごめんねと謝った。
「心配かけてごめん、柊哉。私はもう大丈夫だから。ね、ヨダカ」
「まあね」
ヨダカも立ち上がって、柊哉の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。やめろよと顔を上げて、柊哉はやっと笑った。
「まさか、ヨダカがはるくんだとは思わなかった。ていうか、あの時何があったんだよ。ずっと行方不明だったのに」
「まあ、それは後で唯依にじっくり聞いてくれよ」
柊哉は私を見て、駅舎の時計に目を向けた。もうすぐ朝灯町を離れる電車がやって来る。これを逃せばまた二時間は待ちぼうけだ。
「もう少し家に顔出せよ。何だかんだ、母さんも心配してるから」
柊哉は軽く手を上げて、改札を抜けた。私が大きく右手を振ると、苦笑して同じように手を振った。
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