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夜更けに休憩がてら窓の外に目をやって、予想以上に星が見えることに気が付いた。以前住んでいた地域よりも繁華街から離れているせいか、夜空に灯る光が殊更目立って見える。すっかり見惚れている内に、星空を描きたいと思い立った。
そして七月二十日の午後十一時、私はヨダカと列車に乗っている。終点まで間近なせいか乗客はほとんど残っておらず、窓の外はどんどん街の灯から離れていく。窓ガラスの反射のせいで、目を凝らさなければ自分たちの姿しか見えない。
「唯依先生、絶好調ですねえ」
ヨダカは隣りでスマホをいじっている。画面には私が今朝アップしたばかりのイラストが映っていた。前より投稿頻度が上がったおかげか、細部まで描き込んでいるせいか、ツーエルでの反応は二倍近くに増えた。目的がSNSで有名になることではないにせよ、素直に嬉しい現象だ。
「先生とか言わないでよ」
「美月さんの真似」
「ヨダカは悪意が滲んでるからダメ」
「失礼な」
ひょいと彼の手からスマホを取り上げる。空いた手をぱかぱか閉じたり開いたりする彼に、提案した。
「ね、帰るまではスマホの電源切っとこうよ。つい手が伸びてスマホを眺めちゃうなんて、せっかく来たのにもったいないし」
「俺、別に中毒じゃないんだけど」
星明りを見に来たのに、スマホの明かりがそれを邪魔するのは至極不本意だ。私はジーンズのポケットから出した自分のスマホの電源を落としてみせた。彼は取り返した自分のスマホを眺めて、素直に電源を落とした。
「たまにはいいかもな」
列車は終点の駅に滑り込む。その頃には、車両に乗っている乗客は私たちだけだった。ホームに降りると他の車両からぽつぽつ人が下りてくるけど、十中八九、近隣住民だろう。これ以降、街へ向かう列車は朝まで出ない。
天気予報通りに夜空は晴れていて、漫画のような上弦の三日月が浮かんでいる。星明りは夜道を照らし、等間隔に備わる街灯と手元の懐中電灯だけで、歩くには間に合っていた。
波音が鼓膜をくすぐる。海なんてもう何年も来ていない。しかも夜の海なんて初めてだ。防波堤の向こうに、暗く静かな海が一面に広がっている。闇への恐怖から、まるで全てを飲み込むような巨大な生き物が息づいている気がする。
それでも防波堤が途切れて砂浜を目にすると、得体のしれない恐怖はどこかに飛んでいった。
コンクリートで出来た階段を三段下ると、砂浜が広がっている。そして二十メートルも行けば海の始まりだ。ちゃぷちゃぷと静かに波打ち、水面にもう一つの三日月の光が輝いている。美しさに引き込まれて、一人だったらつい泳ぎに入っていたかもしれない。
「すごい星だな」
すっかり海を見つめていた私の隣でヨダカが言った。顔を上げて、息を呑んだ。満天の星空。まさにその言葉がぴったりの夜空が私たちの頭上を包んでいる。まるで夜空というコップの中に注ぎ込まれた星々が、ぽろっと零れ落ちてしまいそうだ。数はとても数えきれない。無限に思える輝きに、私たちはしばらく見惚れていた。
腕時計の時刻はいつの間にか零時を超えて、七月二十一日がやってきていた。砂浜と歩道を隔てる階段に並んで腰を下ろす。
バッグから一枚のA3用紙を取り出した。後ろの街灯に、夏の星空の図が照らされる。
「準備いいな」
関心する彼の膝に半分それを乗せて、二人で頭を突き合わせる。ネットで探して印刷した星空のイラストと、本物の星空を見比べる。けれど、どう見ても頭上の星の数が多すぎて、何が何やら判断がつかない。
「あ、あれ多分、北斗七星だ」
彼が北の方角を指さした。
「どの星?」
「あれだよ、ほら」
彼が手に用紙を手に取って伸ばした腕の横に掲げる。彼と同じ角度から北の空を見て、指をさす方角に私も図の通りに並ぶ星を見つけた。
「ほんとだ! すごい、本物の北斗七星だ!」
明るい星たちが、いわゆる柄杓の形をとるように並んでいる。イラストで見たことはあっても、この目で本物を目にしたのは初めてだ。
「じゃあ、あそこに大くま座があるんだね」
用紙には、薄い線でクマのイラストが描き込まれている。その腰から尻尾を構成しているのが、北斗七星。
「そうなるみたいだな」
「お話のよだかが訪れたのも、大熊星だったよね」
薄い明かりの中、ヨダカがびっくりして私に顔を上げる。
「よく覚えてるな」
「でしょ」
ネタばらしをすれば、大学の食堂で絵本を読んだ後、自分でもスマホで調べていた。既に作品は著作権が切れていて、ネットにアップされていた本文を何度か読み返していたのだ。けれど何でもない風の澄まし顔で、私は彼の持つ星座の用紙に指を這わせる。
「じゃあ、えっと……東を向いてこっちが」
一際明るく輝く星を指先でなぞる。頂点を上に向けた夏の大三角。上にベガ、左へ下りてデネブ、右に向かってアルタイル。
「このアルタイルはわし座で、よだかが最後に訪れた星だったはず。……カシオペアはどこだっけ」
「カシオピアだよ」
「何が違うの」
「情緒」
情緒のない返事をしたヨダカは、くすくす笑った。
「よだかの星は、カシオペアじゃない、カシオピアの隣りにあるんだ」
最後によだかは、カシオピア座の隣りで星になった。私たちは星座の図を穴が空くほど見つめ、頭上の星空を何度も指でなぞる。ヨダカは、秋の星座だから北斗七星や夏の大三角よりは見つけにくいだろうと言った。それでも彼の指先は、やがてWの形を作る星座を捉えた。
「じゃあ、あの近くによだかの星があるんだね」
言ってからはたと気が付く。
「……よだかの星って、実際に存在するの?」
今更な台詞に、彼は吹き出して笑った。むっとして、私はスマホで調べようとポケットに伸ばした手を引っ込める。電源を落とそうと提案したのは私だ。
「小説だし、実際にこれっていうのは誰にも断言できないらしい。でも、チコの星が元ネタじゃないかって説もある」
「チコ?」私は手元の図を見たけれど、そんな星は見当たらない。
「スーパーノヴァ……超新星っていうんだけど、その一つにチコの新星っていうのがあるんだ。めちゃくちゃ明るかったらしいけど、今は肉眼じゃ見えないって。それは作品の書かれるずっと前の出来事で、カシオピア座に現れたから、よだかの星はこれじゃないかって言われてる。……けど、実際のところは誰にも分からないんだ」
「へえ……。でも小説だと、よだかの星は今もまだ燃え続けてるってあるよね」
「肉眼で見えるとは書いてないだろ。だから本当の所は不明。……けど、現実に存在するかしないかは、大した問題じゃない。あると思えばあるんだ」
彼の話に頷いて、私はまた星空を見上げた。この中になくても、目で見えないだけかもしれない。そもそも星として存在しないのかもしれない。それでいいと思った。彼と一緒に星を探した、この思い出を残してくれたよだかの星は、確かにここにある。
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