第三十三話「トラウマ」

「うっ……あああああ……うわぁ…………あああああっ――」


 涙があふれてくる。両手で強く顔を押さえて止めようとするが効果が無い。声を押し殺そうとしてもくぐもった嗚咽が洩れるばかり。不安と恐怖で頭の中が埋め尽くされる――


 過去に受けてきたトラウマがフラッシュバックする――



 孤児院――



 当時受けた飢えが苦しみが痛みが陵辱が次々に蘇る。鮮やかに次々と一度経験した苦痛が何度も何度も繰り返し思い返しているはずの悪夢がまるで初めて出来事のように未知感ジャメビュのようにみずみずしいままに当時と同じ鮮度で精神を激しく痛めつける。


 いくら泣いても叫んでも喚いても誰も助けてはくれない。泣けば泣くほどに痛がれば痛がるほどに悦ばれる地獄のような世界。苦しむほどに悦ばれ、奪うために与えられ、薄汚い豚共への供物にされる。



 地獄ゲヘナ――



 人がもつ業。そんな罪が詰まった館。そこが、マスターに救ってもらえるまでボクとリンがいた世界だった――



 思い出す思い出す。思い出したくもないのに次から次へと溢れ出てくる。



 いくら泣こうが喚こうがのたうちまわろうが気が落ち着くことはない。楽にならない。頭を抱えて身を捩り獣のような唸り声をあげる。ベッドまで這いより顔を埋めシーツを握る。


「なんでっ……なんで……っ……こんなめにっ……なんでっ……っくっカッ……はっ……助け……っ……誰も……っ!」


 ぐるぐると回る。視界が真っ暗に染まる。暗闇しか映っていない。きっとこの目は裏表が逆にハマっているんだ。だから暗い過去しか映っていないんだ。前が見えないんだ。だからいたも真っ暗で闇で後ろが僅かに明るいばかりでそれが余計に闇を強調させるんだ。



「あの子はっ……泣けば誰かが助けてくれるのにっ……どうしてっ……どうして……っ……ボクは誰も助けてくれなかったの……っ? 運が悪かった……? 生まれが悪い? そんな言葉ですませられない……っ! 豚共がっ……絶対に赦さないっ……お前らだけは……っ! この手で……必ず……殺し……はっ……はっはっはっはっは……っ」



 過呼吸になる、とめどなく暗い過去と共に涙があふれる。もうどうしようもない。



「はっ……はっ……はっ……はっ……ふっ」



 ベッドに顔を押し付けて呼吸を元に戻そうとするが意味がない。止まらない余計苦しいばかりだ。顔を上げると乱れた髪が涙のせいで頬に張り付く。煩わしい。息苦しいが涙はもっと煩わしい。人に涙なんていらない。視界が悪くなるばかりでなんの役にも立ちはしない。涙ほどこの世でみっともなく汚く不必要なものがあるだろうか?


「ひっ……くっ……ああ……ああっ……っ」


 シーツがずれて滑りテーブルクロス引きのように勢いよく床に落ちる。



「ぐっ……!」



 痛みで一瞬息が詰まるがそれでも涙は止まらない。床に投げ出された体を起き上がらせようとすると、滲む視界の先に、誰かがいた。誰かの足が写っている――



「はっ……はっ……」



 荒い呼吸を抑えながらゆっくりと視線をあげると、そこに立っていたのは、空狐だった――


「ユリコ……」

「!!」


 空狐は困惑とも悲哀ともつかないような表情でボクのことを見下ろしていた。



 なんで? なんで? なんでここに空狐がいるんだ――っ?



 そうだ……鍵を掛けるのを忘れていた……オートロックをオフにしていたのが裏目にでた……きっと空狐のことだ……さっきの一瞬でボクの不調を見抜いて部屋まで追ってきたのだろう……そして鍵がかかっていなかったから……様子を窺うつもりで中を覗いてみたのだろう――


 見られた……いや……見られている……こんな惨めな姿を……マスターとリンにしか見られたことのない……ボクの恥部を見られている……!!


「でっ……出てってくださいっ……!」


 なんとか声を発して手を振ることしかできない。この状況を取り繕うことなんてできやしない。一人で立ち上がることすらできないのだから。涙一つ止められない呼吸一つ満足に行うことだってできない。あまりの弱さに自分に吐き気がする。



「ユリコ」



 空狐は出て行くどころか、ゆっくりとボクへと近付いてくる。信じられない。空狐は悪ふざけはしても人が本当に嫌がることはしないと思っていたのに、今ボクは本気で嫌がっていると言うのに、拒絶しているというのに近付いてくる。裏切られた――


 

「ユリコ」



 もう一度、優しくボクの名前を呼んだ空狐は、目の前で立ち止まると、ゆっくりと両膝をついてボクに両腕を伸ばした。

 

「やめろっ……っ!」


 伸びてきた手を叩き払う。


「でっ……出ていけ……っ! ボクを見るな……!」


「ユリコ……」


 叩かれた自身の手を見向きもせず、出て行くこともせず、空狐は優しげな瞳でじっとボクを見ている。


「バカだなキミは……」


 空狐が寂しげな笑みを浮かべた次の瞬間、ボクは空狐に抱きしめられていた。


 空狐の胸の中に、ボクの頭がおさまっている。


 柔らかい、人の温もりが伝わる、空狐の心音が聞こえる。その音がこの荒んだ心に響く。空狐の香りに包まれる。思わずこの温かさにこの身全てを任せたくなる。


「な……なんで……っ! 早くっ出ていってください……っ」


 力の入らない体で必死に抵抗するが、空狐はボクを離さない。


「……事情はわからないけど」


 両腕に力が込められる。


「そんな、一人にしないでくれって顔で泣いているキミを、一人にできるわけないだろう……?」


 優しく響く声はなんなのだろう? 慈愛というのか、母性というのか、ボクの中にある、言い知れぬ感情が激しく揺さぶられる。



「あ……ああ……ああああああああ……っ」



 ボクは、目の前にある温もりに、桜花空狐という少女に身を任せた。任せてしまった。空狐にしがみ付いてただただ泣きじゃくった。そんなボクを空狐はただ優しく、抱きしめ続けてくれた。

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